ひどい目☆その8 地平線を望む雄大な北海道の牧場で深紅に染まる夕陽を眺めながら生ぬるい牛のフンを全身に浴びた件。
K氏からの電話。
── 今回は、ぼくたち庶民の憧れの避暑地、
北海道での「ひどい目。」とのこと。
TOBI ウィ。
── 一面のラベンダー畑、白銀のゲレンデ、
ホッケ定食の巨大なホッケ、
夕張メロン、毛ガニ、ジンギスカン‥‥
そんな、みんな大好き北海道で、
どんな「ひどい目。」に遭うとでも?
TOBI 楽園のバラにもトゲはあるもの。
油断は禁物です。

不意に襲いかかる「ひどい目。」に、
国や地域など関係ありません。
言葉や宗教、お肌の色などもね‥‥。
── 世界はひとつ‥‥と言うわけですね。
肝に銘じたいと思います。

それではさっそく、お話しください。
TOBI あれは‥‥もう、ずいぶん昔のこと。

まだ20代だったぼくは、
少し前にお話した「倒産スパイラル」に
人生を翻弄されており、
そのときは
葬式専門の花屋でバイトをしていました。
── 専門‥‥があるんだ。
TOBI ええ、まだ家に空き巣が入る前ですが、
夜中に仕事が入ることも多く、
夜を徹して、
えんえん、祭壇の仏花を仕込む仕事で。
── なるほど。
TOBI 日中は死んだように眠り、
夜のとばりが降りるころに起きだして
仏花に群がる‥‥
まるで、自分が蛾にでもなったような
気分でした。
── それが今では、
逆に、蛾が寄ってくるようなお姿に。
TOBI そんな、ある日のこと。

聞き覚えのない男性の声で、
電話がかかってきたんです、早朝に。
── 早朝。蛾ならまだ寝ている時間ですね。
TOBI 「もしもし、ベツカイチョウのKです」
と、受話器の向こうの声は言いました。

寝ボケ頭で
「Kって誰? ベツカイチョウって何?」
とモゴモゴしていると、
その「ベツカイチョウのK」なる人物は
「いやあ、助かった、助かった。
 あなたが来てくれるっていうんで、
 本当に助かりました」と、言うんです。
── はあ。
TOBI そして、このように、続けたんです。

「いやあ、あなたを紹介してくれた
 イシモトくんにも感謝だな。
 なんでも、
 勤める会社が次々に倒産して
 路頭に迷っている知り合いがひとり、
 こっちにいるから」って。
── ‥‥ええ。
TOBI ベツカイチョウのK氏は、さらに
「そればかりか、
 酪農にとても興味を持っているとか?」
などと。
── 持ってるんですか、興味?
TOBI いいえ、まったく持っていません。
ただ、牛乳が好きだっただけです。
── それが「酪農に興味を持ってる」と。
TOBI K氏は、かまわず、続けます。

「こちらとしては、
 早ければ早いほどいいんですがね。
 東京からの飛行機は1日1便、
 今日の1時半発の便に
 乗ってもらっても大丈夫ですから」
── つまり、誰とも知らぬ牧場主が
「早く来てくれ、今日でもいい」と?
TOBI とりあえず
「いや、たしかにイシモトは友人ですが、
 少し考えさせていただけませんか」
と、お伝えしたら
「作業着は貸すから平気だ」とか何とか。
── よくわからない話にもかかわらず、
電話を切らず付き合ってしまうところに
TOBIさんの
断り切れない性格がにじみ出ています。
TOBI そこで「牧場の仕事をした経験はない」
とお伝えすると、今度は
「牛が好きなら大丈夫、心配ない」と。
── 好きなんですか、牛?
TOBI いや、好きもなにも、
触れ合った経験などありませんでした。
「ドナドナ」を
口ずさんだことがあるくらいです。

なので、K氏には
「いや、好きかどうかは、まだ‥‥
 まずは会ってみないと」
とお答えするより、ありませんでした。
── もっともなお返事ですね。
TOBI するとK氏は
「あー、そう。なら明日でいいや。
 明日、根室中標津空港で待ってるから!
 じゃ!」
と言ってガチャンと電話を切ったんです。

調べてみると、
K氏の言っていた「ベツカイチョウ」とは、
北海道の「別海町」のことでした。
── その‥‥北海道の別海町の牧場主から、
なぜだかわからないけど、
「明日から、うちにはたらきにこい」と。
TOBI 寝入りばなのボンヤリした頭で
「どうしたものかなぁ」と思っていたら、
K氏にぼくのことを話した
イシモトくんから、電話がきたんですよ。

「北海道の牧場で、
 しばらく、はたらいてみない?」って。
── 逆ですよね。順番が。完全に。
TOBI イシモトくん的にも、すでに
K氏からのオファーの電話が来ているとは
思っていなかったようで、
「ちょっと俺、
 いいアイディア思いついちゃってない?」
みたいな雰囲気を醸し出しながら
「親戚が北海道で酪農やってるんだけど、
 近所のKさんが
 糖尿病の検査入院をするから、
 その間、
 乳しぼりの手伝いをしてくれる若者を
 探してるらしいんだよね」と。
── そういうことでしたか。
TOBI で「キミ、牛乳好きだったじゃん?」と。
── なるほど‥‥そこで「ただの牛乳好き」が
「酪農に興味アリ」にすり替わるのか!
TOBI ただ、急な話だとは思いながらも
ぼくは、その時点でもう、
K氏の牧場へ行くことに決めていました。
── え?
TOBI だって、北海道の牧場ですよ?

どこまでも続く地平線、満天の星空、
澄んだ空気、
感動的なキタキツネとのエピソード、
丼からこぼれ落ちそうなイクラ、
しぼりたての、おいしい牛乳‥‥。
むちゃくちゃ楽しそうじゃないですか。
── そりゃあ、そう聞けば、まあ。
TOBI それまでの冴えない生活とくらべたら、
まるで夢のようにも思えました。

そして、気づけば
「自分以外に誰があの牧場へ行くんだ?」
「北海道を救うのは俺だ!」
くらいのテンションになっていたんです。
── 乳しぼりで、北海道全体を助ける‥‥。
TOBI もうスッカリ次の日の1時半の飛行機に
乗ることに決め、
お葬式専門の花屋さんも辞めました。

そしてその晩は、
いつもより早めに床についたのです。
── ‥‥ええ。
TOBI すると、真夜中、下のアゴが‥‥
正確には下アゴに残っていた親知らずが、
猛烈に痛みだしたんです。

北海道での楽しい暮らしを想像しても、
鎮痛剤を余分に飲んでも、
痛みはごまかせず、むしろ増すばかり。
このままでは
K氏の期待に応えられないと思いました。
── 乳しぼりの期待に。
TOBI そのまま痛みで一睡もできずに夜は明け、
池袋にあった
朝7時から診察している歯医者さんへと
駆け込みました。
── スタート早すぎないですか、その歯医者。
TOBI 診てくれた先生は
「では、まず今日のところは神経を抜いて、
 1週間くらいようすを見て‥‥」
とか、やたら悠長なことを言っているので、
「いいえ、本日これから、
 ぼくは北海道へ行かなければならない!
 なぜなら、そこに、
 ぼくの助けを待っている人がいるから!」
と言って無理やり抜いてもらいました。
── 親知らずを。
TOBI 歯医者の次には、床屋へ散髪に行きました。
そのときのぼくは、なぜか、
未開の地に行くような気持ちになっていて。

「しばらくは髪も切れないだろうから
 ドライヤーや整髪料の必要ない
 ヘアースタイルにしなければならない」
と、「角刈り」をオーダーしたんです。
── また、ずいぶん極端な髪型に‥‥。
TOBI 朝7時から歯医者で親知らずを抜き、
顔面をしびれさせながら角刈りにして、
そのあと、
チケットショップで航空券を手に入れ、
いちど自宅に帰ってから
スーパーで、歯ブラシや髭剃りなどの
生活雑貨を買い込み、
パッキングして冷蔵庫の中身を捨てて、
洗濯物をひとまとめにして‥‥。
── その時点では、
北海道に何日くらい滞在するとかは?
TOBI わかっていませんでした。

が、糖尿病の検査入院ってことなので、
ま、長くても1週間くらいかな、と。
── なるほど。
TOBI 最後、ブレーカーを落として部屋を出、
電車とモノレールを乗り継ぎ、
羽田に着いたら「13時25分」でした。
── 5分前じゃないですか。フライトの。
TOBI そう、一睡もせず、朝から何も食べずに、
歯を抜き、角刈りにし、
身の回りを整理して荷造りをしていたら、
そんな時間になっていたんです。
── それ‥‥間に合ったんですか?
TOBI カウンターのお姉さんに泣きつきました。

「お願いします! 北海道の別海町で
 ぼくの助けを待ってる人がいるんです!
 お願いします!」
と、たぶん必死の形相で。
実際、本当に泣いていたかもしれません。
── 顔面を半分だけ腫らした角刈りの男が
必死の形相で、
ほとんど泣きながら訴えかけてくる恐怖。
TOBI さぞかし、恐ろしかったことでしょう。

お姉さんはおびえながら、
震える指で
ピポパと何かの電話番号をプッシュしました。
結果として、飛行機は、
ぼくを待ってくれることになったんです。
── おお、すごい。すごかったのは「顔」か。
TOBI すると、どこからか、
紺色のブレザーを着てインカムをつけた
屈強な男性職員が現れ、
「急いでください!」と、急かすんです。
── そうでしょうね、それは。
TOBI 「急いでください! 走ってください!」

そう言われても、
ぼくは一睡もしてない、何も食ってない、
歯は抜いたばかりで顔面はしびれてる。
── そのうえ、角刈りで。
TOBI 急き立てられて、あわれなロバのように
口をパクパクさせながら
走らされているのですが、
田舎へ行く飛行機なんで、
搭乗口が、ものすごく遠いんですよ。

ついに、何個目かの「動く歩道」の上で
足をもつれさせて転び、
そこから立ち上がる気力もなく、
しばらくの間、
うなだれながら流されていきました。
── 回転寿司の店内を何周も回転し、
くたびれ、乾ききった寿司ネタのように。
TOBI すると、紺ブレが何人も集まってきて
流されゆくぼくの横を、
まるで競歩のオリンピック代表のように
力強く前進しながら
「急いでください! 走ってください!
 立ち上がってください!」と。
── 怖い‥‥。
TOBI 全身ボロ雑巾のようになりながら
やっとの思いで搭乗口へとたどり着き、
紺ブレ全員に
「よいフライトを!」と言われた瞬間、
ハッチが閉じたんです。
── そうして一路、根室中標津空港へ。
TOBI そう‥‥それが、自分史上、
最も長い一日のはじまりとも知らずに。
<つづきます>
2016-07-25-MON

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