2018年1月、
ほぼ日の学校が始動しました。

これからいったい、
どういう学校に育っていくのか。

そのプロセスの出来事や、
学校にこめる思いなどを、
学校長・河野通和が
綴っていきます。

ほぼ日の学校長

河野通和(こうの・みちかず)

1953年、岡山市生まれ。編集者。

東京大学文学部ロシア語ロシア文学科卒業。

1978年〜2008年、中央公論社および中央公論新社にて
雑誌『婦人公論』『中央公論』編集長など歴任。

2009年、日本ビジネスプレス特別編集顧問に就任。

2010年〜2017年、新潮社にて『考える人』編集長を務める。

2017年4月に株式会社ほぼ日入社。

ほぼ日の学校長だよりNo.101

ゴッホの感動(その1)

 「日本とゴッホは相思相愛」と言ったのは、作家の原田マハさんです(『ゴッホのあしおと――日本に憧れ続けた画家の生涯』、幻冬舎新書)。

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 ゴッホ研究者の圀府寺司(こうでらつかさ)さんに取材した「ゴッホの贋作を見て覚えた感動は本物か。」(「ほぼ日刊イトイ新聞」10月10日〜15日)の連載記事を読みながら、その言葉を思い出しました。

 連載第1回の冒頭からいきなり意表をつかれます。

<――圀府寺先生は、はじめて見たゴッホの絵に感動し、その後、ゴッホ研究を志して、いまではゴッホ研究の第一人者として活躍されていますが‥‥。
圀府寺 はい。
――その「はじめて見たゴッホ」が、なんと、のちに贋作だったと判明したと。
圀府寺 そうです。倉敷(岡山県・引用者註)の大原美術館にある絵です。
――その話が、すごいと思いました。だって、のちの人生に少なからず影響を与えた感動が、贋作から受けたものだった。
圀府寺 ははは、そうですねえ。>

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 ハッとさせられる導入です。ましてや、私の場合はなおさらです。

 というのも、ほとんど圀府寺さんと同じ体験を、ゴッホとの出会いでしているからです。同じ大原美術館で、同じ「アルピーユの道」を見て――。

 60年ちかい昔です。小学生の時でした。美術館というものに足を踏み入れた、それが最初の経験です。水彩画しか知らなかった小学生が、あれだけたくさんの油絵をまとめて見たのも初めてです。

 もっともその時は、ルオーの「道化師」の衝撃がともかく強烈過ぎたので、ゴッホの印象はそれに比べて控えめでした。ただ、画家の名前はしっかり脳裏に刻まれて、以来ゴッホに関して書かれたものや、彼の作品、画集にはなるべく注意を払うようになりました。

 圀府寺さんのお話は、その時の思い出をよみがえらせる強烈なフックになりました。

 「はじめて見て、心の底から感動した」と圀府寺さんのいう「アルピーユの道」は、のちに贋作だということが判明します。「20世紀のはじめに何十枚もの贋作を世界にばら撒いた」オットー・ヴァッカーという「ベルリンの画商」の仕業でした。

 ワシントンのナショナル・ギャラリーや、オランダのクレラー・ミュラー美術館など、世界の主要美術館にも、この“ヴァッカー贋作”は入っているとか。

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 ゴッホ研究の最高権威とされた鑑定士のお墨付きを得て、1935年に大原孫三郎が購入し、1940年から「アルピーユの道」は公開されます。1984年、オランダのゴッホ研究者から「本物とするには非常に難しい」と指摘され、いまでは展示を控えています。

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 けれども、「あの絵が大好きな人がたくさんいる」というので、圀府寺さんは大原美術館に招かれて、「その絵」を傍らのイーゼルに載せて、「これが有名なニセモノです」という講演をしたことがあるそうです。

 「さすが大原美術館さん」「なかなかできることじゃありませんよ」と圀府寺さんは語ります。真作・贋作の騒ぎだけでなく、芸術がもたらす感動についていろいろ考えさせられる話です。

 さて、そんなこんなで導かれるように、開催中のゴッホ展(東京・上野の森美術館、11月29日まで)に出かけてきました。

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 10月12日に行くつもりが、台風19号のせいで臨時休館に。17日、ギリギリに飛び込もうとしたら、寸前で入場締切に。3度目の正直で、18日、ようやく入場がかないました。ところが‥‥

 わっ、混んでる! 日本とゴッホの「相思相愛」は、少しも衰えていないことがわかります。

 思い出すのは、戦後間もない1947年3月の「泰西名画展覧会」(上野・東京都美術館)に出かけた小林秀雄の文章です。

<折からの遠足日和(びより)で、どの部屋も生徒さん達が充満していて、喧噪(けんそう)と埃(ほこり)とで、とても見る事が適(かな)わぬ。仕方なく、原色版の複製画を陳列した閑散な広間をぶらついていたところ、ゴッホの画の前に来て、愕然(がくぜん)としたのである。>

 ここからが、小林秀雄ならではの批評です。

<それは、麦畑から沢山の烏(からす)が飛び立っている画で、彼が自殺する直前に描いた有名な画の見事な複製であった。尤(もっと)もそんな事は、後で調べた知識であって、その時は、ただ一種異様な画面が突如として現れ、僕は、とうとうその前にしゃがみ込んで了(しま)った。
  熟れ切った麦は、金か硫黄(いおう)の線条の様に地面いっぱいに突き刺さり、それが傷口の様に稲妻形で裂けて、青磁色の草の緑に縁どられた小道の泥が、イングリッシュ・レッドというのか知らん、牛肉色に剥(む)き出ている。空は紺青(こんじょう)だが、嵐を孕(はら)んで、落ちたら最後助からぬ強風に高鳴る海原の様だ。全管絃楽が鳴るかと思えば、突然、休止符が来て、烏の群れが音もなく舞っており、旧約聖書の登場人物めいた影が、今、麦の穂の向うに消えた――僕が一枚の絵を鑑賞していたという事は、余り確かではない。寧(むし)ろ、僕は、或る一つの巨(おお)きな眼に見据えられ、動けずにいた様に思われる。>(『ゴッホの手紙』小林秀雄全作品20、新潮社)

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 複製であろうと(圀府寺さんのように「贋作」であろうと)、まぎれもない感動が心の中にわき起こったという端的な事実が記されています。

 それに続く文章も鮮烈です。

<文学は飜訳で読み、音楽はレコードで聞き、絵は複製で見る。誰も彼もが、そうして来たのだ。少くとも、凡そ近代芸術に関する僕等の最初の開眼は、そういう経験に頼ってなされたのである。飜訳文化という軽蔑的な言葉が屢々(しばしば)人の口に上る。尤(もっと)もな言い分であるが、尤もも過ぎれば嘘になる。近代の日本文化が飜訳文化であるという事と、僕等の喜びも悲しみもその中にしかあり得なかったし、現在も未だないという事とは違うのである。どの様な事態であれ、文化の現実の事態というものは、僕等にとって問題であり課題であるより先きに、僕等が生きる為に、あれこれの退(の)っ引(ぴ)きならぬ形で与えられた食糧である。誰も、或る一種名状し難いものを糧(かて)として生きて来たのであって、飜訳文化という様な一観念を食って生きて来たわけではない。(略)現に食べている食物を何故ひたすらまずいと考えるのか。まずいと思えば消化不良になるだろう。>(同)

 複製画の前に「とうとうしゃがみ込んでしまった」批評家の、「のっぴきならない」事態というのを想像しながら、2019年のゴッホ展会場を歩きます。

 今回の展示は、ゴッホがゴッホになっていく過程を、オランダとフランスにおける2つの出会いに焦点をあてて、その変化と発展をたどっています。ひとつは1880年、聖職者への道を断念し、画家になる決意をかためた27歳のゴッホが、最初に故郷オランダで絵の手ほどきを受けた「ハーグ派」の人々との出会いです。「ハーグ派」の画家たちの作品が、今回の展示で見ることができます。

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 田園地帯の風景や、働く人たちの素朴な暮らしを主に描いた「ハーグ派」の絵は、これまで見たことがありませんでした。ゴッホの有名な初期作品「ジャガイモを食べる人々」が、どういう修行を経た後に、いかに周到な準備を重ねた上で描かれたものかがよくわかります。ミレーの絵にも触発され、貧しい農民の働く姿や日々の暮らしをありのままに描こうとしたゴッホの決意が伝わります。

 もうひとつが、1886年、画商の仕事をしていた弟のテオを頼り、突然パリに移り住んだゴッホが、モネ、ピサロ、シスレー、ベルナール、ゴーギャン、トゥールーズ=ロートレック、スーラ、シニャックなど、「印象派」の画家たちと交流し、画風を一変させていく軌跡です。

 突然のパリ行きを決行した後のゴッホの変貌は劇的です。オランダ時代、「いま塗ってある色は泥だらけで皮も剥(む)いていない本物のジャガイモの色のようだ」(弟テオへの手紙より)と言っていた暗めの色彩から、印象派の躍動する明るい色に刺激を受けて、オレンジと青、赤と緑、黄色と紫など補色関係にある鮮やかな色彩が使われ始めます。

 タッチが次第に奔放になり、いわゆるゴッホのスタイルに近づきます。

 改めて驚くのは、37年という短いゴッホの生涯で、画家として活動したのは、実質わずかに最後の10年だという事実です。さらに、私たちがよく知る彼のエネルギッシュで、絵具がうねうねしている独自のタッチと、息をのむほど鮮烈な色遣いの名作は、ほとんど最後の2年半ほどの間に集中しているという事実です。

 「‥‥どれだけ才能があったとしても、人生を楽しみながら趣味的に絵を描いている人と、ファン・ゴッホのように、一日パン2きれで、死にものぐるいで絵を描いている人では、結果はだいぶちがうと思います」

 「とにかく、すさまじい生活なんですよ。ろくにものも食わず、朝から、ずーーっと描いているんです。ヘロヘロになったら、小説を読んで、弟へ手紙を書いて‥‥」

 「まず、生命を賭して絵を描いていた。そのことは間違いないし、そのことは、どうしたって絵から伝わってきます」

 先のインタビュー記事で、圀府寺さんはこう語ります。やはりゴッホの話は胸に響きます。読んだばかりの物語にそって、次回ももう少し、ゴッホについて書いてみたいと思います。

2019年10月24日

ほぼ日の学校長

ほぼ日の学校オンライン・クラスに、「万葉集講座」第5回授業が公開されました。講師は、翻訳家、日本文学研究家であり、詩人でもあるピーター・ジェイ・マクミランさんです。