怪・その39

「白い雲」



82歳で倒れるその日まで元気で過ごしていた父が、
亡くなってからちょうど10年経ちます。
父を見送ってまもない頃は、
ひとりになってしまった母が心配でもあり、
遺品整理のために、仕事の休みの日に
たびたびその当時住んでいた北海道の自宅から
大阪の実家へと通って1泊か2泊していました。

父の部屋は二階にありました。
窓に向かって書斎と寝室が繋がっていて、
部屋から出た廊下にトイレ、洗面所、
お風呂が並んでいて、お風呂の角の先に、
一階へ降りる階段がありました。

いつものように実家に泊まったある日、
朝起きて、洗面所で顔を洗って顔をあげると、
目の前の鏡の中に、
私の後ろ、高さ1メートルくらいのところを、
真っ白な細長い雲がすぅーっと
けっこうな速さで進んでいくのが見えました。

なぜだか咄嗟に、「お父さん?」と呼びかけて、
慌ててお風呂場の角を
階段のほうに追いかけてみましたが、
階段には何もいませんでした。

なぜ唐突に父だと思ったか、
後で考えてみると、
父は生前たいてい書斎で
書き物(父は退職するまで大学教授でした)をして、
一日何度も下のキッチンに
カップとソーサーを持ってコーヒーを淹れに行き、
コーヒーを入れたカップを
ソーサーに乗せてそろそろと階段を上がってくる、
という生活をしていて、
亡くなってからも何ヶ月にも渡り、
母も私も、父が書斎で机から立ち上がった気配、
廊下を歩いて階段をゆっくり降りてきて、
キッチンの引き戸を開ける寸前までの一連の気配を、
何度も何度も感じていたのです。

キッチンの戸が今、引かれる、と思った瞬間、
ドアを見ていても、
開けられることはありませんでした。
父はもういないのですから。

とにかく、その白い雲のようなものが、
その動きがコーヒーを淹れに行く
父のようだったのです。

その後何ヶ月かのちに、
もう一度その雲を見ました。

もう終盤に差し掛かった遺品整理で、
その時はお盆休み、暑いさなかでした。

天井まである本棚に
びっしり並んでいた本もあらかた片付いて、
本棚が空っぽになりつつあり、
書斎の景色が変わってしまったわね、
と壁一面を覆っている本棚を眺めていた時です。

あの細い白い雲が、今回はずいぶん薄く、
ずいぶん弱々しく、
向こうが透けるようになっていて、
本棚下から2段めくらいのところから、
本棚の後ろ側へとすぅっと入っていきました。

また私は「あっお父さん」と呼んで
手に持っていたクイックルハンドワイパーのふわふわで
本棚の後ろの隙間を引っ掻き回しました。
後日そのことを弟に怒られたものでした、
「そんな、親をモップで!」と。

白い雲を三回めに見たのは、
意外にも北海道の自宅でした。

父が絵画教室でお稽古に描いたという油絵を、
母が額をあつらえて、
形見にとうちに送ってくれたのです。

届いた日に早速ベッドの横の壁に飾りました。
その夜、いつも私のベッドの上で寝ている
ゴールデンレトリバーが
いつものように横にはならず、
しっかり座ったまま、私の頭上、
天井の方をぼーっと見あげているのです。

それも、なぜか下瞼が少し下がって、
瞼の裏側の赤目が見えていて、
そんな表情は見たことないな、と思いつつ
あまりの眠さに
頭の上を見上げて確かめることもなく、
あんたも寝なさい、と犬に声をかけて
なでてやり、寝てしまいました。

ところが次の夜、また同じように、
犬が静かにおすわりをして、
私の頭の上をぼーっと見て、
赤目になっています。

さすがに変だと思って、
なに見てるの? と言って
上半身を起こして頭の上を振り返って見上げると、

なんとあの白い雲が
以前より小さくなって
ふわふわ浮かんでいるのでした。

「え? お父さんこっちに来てたの?
あ、もしかして絵について来たの?」
というと、ふっと消えてしまいました。

白い雲を見たのはそれが最後です。
(m)

こわいね!
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2022-08-29-MON