ほぼ日WEB新書シリーズ
1970年、ハイジャックされた飛行機、
「よど号」に乗り合わせ、
無事に日本に帰ってきてから、
日野原さんの「第二の人生」がはじまった。
聖路加病院の名誉院長として、
いまなお多忙な日々を送る日野原さんの
「教育論」について、
「人との接し方」について、
「生き方」について、うかがいます。
きっと、たくさんの人が、
日野原さんに元気をもらえるはず。
第8回
終わりに向けてのクレッシェンド
日野原 冒険というのは、楽しいなぁと思う。
学生にしても、クラスに出ていると、
ドローンとした目で、聞いているのかどうか
わからないし、「質問は?」とたずねてみても
質問を言わないけれども、たとえば行事で
ミュージカルなんかをやるとすると、
衣装は彼らが自分たちでみんなつくるわけだし、
バックもつくって、宣伝はこうやって何やってって、
ぜんぶ自分たちでやれるわけですよね。
その巧みなこと……。
だから、能力はそうとうあるんですよ。
やりたいから、できるんだ。

ところが、クラスや実習というのは
やらされているからダメなんです。
やろうと思えば、だいじょうぶ。

だから、ぼくは行事での学生の姿を見てから、
いくらナースの点数が悪くても、
現場ではやるだろうと思った。
糸井 なるほど。
日野原 ぼくはね、入学式に言うんですよ。
「あんたたちは、ここでいい点を
 取るというのでなしに、低空式で
 60点さえ取れればだいじょうぶだから、
 なるべく学外のことをやりなさい」と。

もっと学外のことを勉強しなさい、
それがナースとしての人間形成に必要だ
ということを伝えたい。
ほかの教授の先生は、ぼくの言うことを聞いて
変に思うかもわからない。
成績はどうでもいいといっているんだからね。
糸井 でも、学校での成績ぐらいなら
大した違いはないということですね。
日野原 ええ。
つまり自分でやるという、
動機づけをしさえすれば、
押し出せばいいんです、先生は。
あんまり手をとって足をとってって
やるから、よくないんです。
糸井 ある種の、何というんだろう、
それはもう、逆に「スパルタ教育」ですよね。
大きい意味ではね。
日野原 自分だって、やりたいことを、今も
チョッチョッと医学以外のことをやっている。
糸井 その「チョッチョッ」が大きいですねえ。
日野原 「先生は65年も医者をやっているけど、
 今度、改めて生まれたら何になりたいですか?」
なんて聞かれるとき、フッと考えて、
「そうだねえ、
 交響楽団の指揮者になるのもいいし、
 劇の演出家もいいなあ」
なんて思うんです。
いまもやってみたいなんて思うぐらいです。

ふつうの人から考えたら、ただでさえ
「食べないで寝ないで、よくやってるよな」
と思うだろうけれど、自分からやりたいことだから、
疲れを感じない。
糸井 その方法は、マネしたいですね。
日野原 いつ何か起こるかもわからないし、
それはもういつ来れば来るというね。

やっぱり自分が何か人にアドバイスを与えたり、
失望している人に望みを与えることが
できるような職業になっていることには
ものすごく感謝しています。

みんな、体を回復する力を持っているのだから、
ちょっと支えてあげれば、回復できるんですよね。
それと、発想の転換ね。
それさえあれば、とてもさわやかな気持ちで
毎日の生活ができると思います。
糸井 ありがとうございます。勇気が出ました。
やっぱりお声で聞くと、また違いますね。
活字で読んでいるときにも、勇気をいただくのですが、
お会いすると、印象がまた全然違いますね。
日野原 あなたはそれで今、お幾つ?
糸井 53です。
日野原 53でしょう?
そうすると、ぼくからいえば、40年あるんだよ。
糸井 ありがたいですねえ。
日野原 40年ですよ、これから。
糸井 40年たっても
日野原さんのようなら、やってみたいですねえ。
日野原 旧約聖書には、200歳とか400歳だとか
500歳の年齢が出てくる話がある。
ぼくはあれは物語だと思っていたけれども、
このごろ考え直しました。

たとえば、悲しんでいる患者さん、
エイズになって絶望的になっている患者さん、
輸血でエイズになったという、
その話を聞くと、ほんとに気の毒でしょう?
自分の体験のように思うんです……。

そうするとわたしは、人の話は、
「生涯」をもらっているの。
だから、人の生活もらって経験しているから、
いまの年齢の何倍も生きているよ。
糸井 そうですね。
日野原 ぼくは、だから、
ふつうの人の300歳ぐらいの経験をしてる。

というのは、主人にはいえないことを
奥さんがぼくに訴える、
お父さんにはいえないことを話しに青年が来る。
そういうことの聞き役になって、
私はいろんなことをやっているから、
ほんとに世の中における、「本当の生活」がわかる。

それを知るのには長い長い生活をしないと
いけないけど、職業柄、やっぱりそういう……。
糸井 命のかかったようなものが
全部先生のところにいらっしゃるわけですからね。
日野原 そうですよ。それで、1人の人が
それに耐えたというストーリーを、
すでにあったストーリーを、次の人に伝えると、
リアリティーがあるものだから、
「先生、わたしもできるんですねえ」
「できますよ」というだけで、支えられる。
糸井 勇気……わいてきますねえ。
ああ、やっぱり会うってすごいことですね。
日野原 出会いね。
糸井 ええ。
日野原 だれかに出会う。
糸井 耳の鼓膜をふるわせたもので感じるのというのは、
すごいですね。改めて思いました。
ありがとうございました。
日野原 声というのは本当にすごい。
たとえば、ぼくが電話をかけた時に、
出た人が「日野原先生ですね」という場合がある。
ぼくも努力しようと思ってるんだけど。
電話がかかったら、
「花子さんですね」とでも言いたい。

声というのは、もう本当にいろんな要素を持って
人間が交わるものなんです。
だから、目が見えなくなると、不自由でしょう?
でもね、聞こえるでしょう、声がね。だからいい。
ところが、耳が聞こえなくなると、
目で見ても、何しゃべっているのか、笑っているのか、
テレビを見てても、おもしろくないでしょう?
糸井 そうなんですよ。
一見、目のほうが大切に見えるけれど。
日野原 声の方は、じかに訴えるから。
糸井 ヘレンケラーも耳が欲しかったそうですね。
三重苦といわれるけど、
一つだけといったら何といったら、
耳だったらしいですね。
日野原 人がいよいよ最後に亡くなるときにも、
目が見えなくても、物がいえなくても、
聞こえている場合が多いということを、
僕は体験しているの。

だから、亡くなる前に、お孫さんでも、
「おじいちゃん、天国に行ってね。
 花子も後から行きますね。
 わかったら手を握ってください」
と言うと、手を握ります。
糸井 あぁー……。
日野原 握るという反射は、割合ずっと続くの。
あれは子供のとき以来、あるからね。
そうやって、
「これでよかったなあ」という気持ちになったり、
生まれてきて感謝だなあという気持ちになったり、
去り行く人がそうなれば、もうそれがいちばん。
糸井 何よりですよねえ。
日野原 人生の99%が悲劇でも、
最後、別れる時に、
生まれてきてよかったねえとか、
意味があったよというか。
“終わりよければすべてよし”
というシェイクスピアの言葉です。

で、年をとるというのは終わりだからね。
だから僕は終わりに向かっての
クレシェントが、人生なんだと言ってるんです。
(日野原重明さんと糸井重里の対談は
 これで終わりです。
 お読みいただきまして、ありがとうございました)
 
2014-08-14-THU
(対談収録日/2002年9月)


第1回
自分の葬式を見た
第2回
一粒の麦
第3回
死を考えるエクササイズ
第4回
禁止はおもしろくない
第5回
レッツの教育
第6回
19時間、もう労働ではない
第7回
失われた1年間
第8回
終わりに向けてのクレッシェンド