だんだん、ムーミントロールは腹が立ってきました。
彼は立ち上がって、
ふぶきにむかってどなりつけてやりました。
ところが、いくらどなっても、だれにも聞こえないのです。
彼は少しばかり泣き声になって、雪につかみかかりました。
そのあげくは、とうとうへばってしまいました。
彼は、ふぶきに背をむけて、ふかれるにまかせていました。
そのときはじめて、ムーミントロールは、
ふいている風があたたかいのに気づきました。

                       『ムーミン谷の冬』
              (トーベ・ヤンソン著 山室静訳)より
森下
重松さんと横里さんと武井さんが
3人でムーミンを語られたときにも、
ボロッと言いましたけども、
わたし、忘れられない経験がありました。
重松さんが、ラップランドの雪原‥‥湖に氷が張って、
そこに雪が積もってるその雪原の上をずっと歩かれていた。
そして、フッとある瞬間に、
「この風はさ、誰にも触れてないんだよね」
って、おっしゃったんです。
わたし、あの‥‥。
重松
(笑)。
森下
いや、わたし、そのときにいちばんしたかったことは、
その重松さんの言葉を、
フィンランド人に聞かせたいと思ったんです。
トーベ・ヤンソンのことで思い出したけれども、
ああ、これはフィンランド人が聞いて、
フィンランド人が「うん」って言う言葉だと思ったんです。
重松
うんうんうん。
森下
わたしの発言は、どうやら
「日本人が見るとそういうこと思うんだ?」
というような言葉が多いんですけれど、
重松さんはちがいました。
フィンランドのことが、スッと言葉にできるんですね。
重松
トーベ・ヤンソンの言葉で、
仕事がうまくいかないときに無人島にいたらどうなるか。
孤島ね。ポツンとした、離れ小島でね。
「孤島というものは、己が何者であり、
 何を感じ、何をなすのかということを
 突きつけられる存在なのだ」と。
つまり島にいるとさ、自分は何者なのか、
何感じてんだ、何やってんだっていう。
こういうのに、ぼくは、山頭火とか尾崎放哉の、
自由律の俳句を感じるんです。
「うしろすがたのしぐれてゆくか」とかさ、
「咳をしてもひとり」みたいにね、
ああいう世界を感じます。
ひとりであることととか、孤独。
でも、考えてみればさ、
孤独じゃなかったら自由じゃないよね。
森下
はい。
重松
多分。
森下
うん。
重松
自由と孤独って対立する概念じゃなくて、
自由であろうとすると、孤独がもれなくついてくるし、
孤独になれば、その分自由ももれなく
ついてくるかもしれなくて。
その面ではね、トーベ・ヤンソンって、
孤独を生きてきて、
孤独を書いてきたんだなと思うんだ。
『トーベ・ヤンソン』の最後のページにあったのが、
「孤独には百の顔がある」という言葉。
孤独の百の顔を描き続けていくのも文学ですよ。
百通りの孤独が書ければ、
それは寂しいというだけじゃない孤独だよね。
孤独を百通り書き続けるというのも、
ひとりのその作家なり、文学者、芸術家の
テーマとしてありうるよねと思った。
じゃ、その孤独というものの百の顔を
ムーミンのシリーズに当てはめていくとさ、
「うわ、みんな孤独だった」って気がつくわけ。
それはモランもそうだしさ、みんな孤独なんだ。
ぼくのすごく好きな詩人が、
草野心平っていって、蛙の詩を書く人なんだけど、
ちょうどみんな冬眠してるとこなんだよ、蛙が。
みんな孤独で、その孤独がつながり合うのを
秘かに感じながら眠っているというね。
「あ、なんかムーミン谷じゃん、ここ」って思う。
だからぼくは、ムーミン谷に、
いろんな文学、それこそ草野心平の蛙なんかが
紛れ込んでいても不思議じゃないなと思う。
これを美しい共同体とか
ユニークな仲間たちが揃った桃源郷や
理想郷だと思っちゃうと、
多分、本質を勘違いしちゃうだろうと。
むしろ、孤独‥‥いろんな孤独を
書いてきた人なんじゃないかな。
森下
だから、誰が読んでも伝わるのかな。
重松
そう。同時に、子どもが読んだら、
まったく本当に本能的に惹かれるものがあるだろうし、
本能的に怖いと思うものもあるだろうと。
大人は、逆に自分の人生で当てはまる場面が
たくさんあるだろうと。
森下
共感を得ますよね。
重松
ほら、ムーミンのシリーズの原作が、
児童文学としてはどうかっていう批評も
多かったわけでしょう。
それは、子どもが本質的に持っている孤独への恐れを、
かき立てるものがあるんだと思うんだよ。
森下
あります。フィンランドでは、
ムーミンによって感情の新しい言葉を学ぶ子どももいて。
夜中に何かの音がパタパタパタと聞こえてきたのを、
起きたときに「怖い」と言った女の子がいたんですね。
お母さんはこの子はその言葉を知らなかったはず、
と思ってたけれども、
多分、ムーミンの中で何かを読んで、
「怖い」という言葉を学んでたんじゃないかな、
って言っていて。
重松
それが本を読む意味だと思うんだよね。
新しい言葉を知り、新しい感情を知る。
何でもかんでも「ムカつく」だけじゃダメなんだよ。
多分、ムカつくにも百の顔があるはずだし、
嬉しいにも、あるいはおいしいにだってさ、
百通りの顔があるはずなんだよね。
多分ね、優れた物語とか言葉や絵というのは、
そのグラデーションを
たくさん見せてくれるんだと思うんだ。
パソコンの色が、16色から始まって256色になり、
何百万色になり、みたいな感じで、
どんどんどんどん解像度が上がるっていうかさ。
同じように感情とか人間関係とか、
いろんなものの解像度をしっかり上げていったら、
説明できなくなることがいっぱい出てくると思う。
もしくは合理的な説明ができないというか、
辻褄が合わないことって。
でね、多分その辻褄の合わなさというのは
いっぱいあるんだよね。唐突さであるとかね。
森下
はい、あります、あります。
重松
だけど、それはなんとなく、
もしかしたらフィンランドの文化の中では、
みんなで共有できてるものかもしれないな。
日本で、すごく人気があるじゃない、ムーミンって。
両方知ってる森下さんから見て、
その日本でのムーミン人気のありようと、
フィンランドでのムーミン人気のありようの
違いがあるとしたら、どんなとこなんだろう。
森下
多分、もし日本で何かを質問されるとしたら、
例えば「ムーミンの中の好きな言葉は何ですか」とか、
すごく理路整然とされた質問をされると思うんです。
何かを抜き出さなきゃいけないような。
だけど、フィンランドの人たちって、
漠然としてる感じでいいんです。
理路整然としてなくていい。
わたし、実は大学を途中でやめるんですけど、
そのやめたきっかけのときに
トーベの弟さんにはっきり言ったのは、
わたしはムーミンのことを、
最初、一覧表にしようとしたり、
いろいろ時間軸を作っていったり‥‥。
重松
年表を作ったりとかね。
森下
そう、したんだけれど、ことごとくダメなんですよ。
例えばムーミンの大きさひとつ、全然違ってきたりする。
そのときに思ったのは、このムーミンの世界って
誰が読んでも共感できるところがあり、
こうやって手を広げてくれてるのにもかかわらず、
それを切り刻もうとすると、
トーベ・ヤンソンは、
そこは触れちゃいけないよというところで
パッと閉じてしまう。
「だから、触れちゃいけないところがあるってことに
 わたしは気づきました」っていうふうに説明したんです。
「わたしはこれを学問として続けていくことはやめて、
 別の形で何かムーミンが紹介できるようになれば
 いいと思ったんです」と。すると弟さんは、
「あなたはそれでムーミンのことを、
 わかったんじゃないかな」
っておっしゃってくださいました。
あ、じゃ、それでいいのかな? と。
よくよく考えると、わたしはやっぱり
「ムーミンが好き」の中でも、
最初は分かりやすく理解しやすいことをやろうとしていた。
多分、日本の人たちはそういう人も多いと思うんですね。
名言集が好きだったりとか。
重松
文庫にもなってる。
森下
そこに感動する人たちがたくさんいるのも
すごくわかります。
フィンランドにも名言集はあったりします。
でも、フィンランドの人たちは
もっと漠然としたところで
ムーミンが好きなんだろうなというふうに思います。
しかも、とても自分たちに近いということを知っている。
重松
いわゆるトロールってやっぱりいると思ってるのかな。
森下
ええ、やっぱりいると思っていますよ。
サンタの話になっちゃうんですけども、
フィンランドの人たちって、
ちっちゃい頃に1回ぐらいは、
「あのときのサンタは本物だった」という
サンタ体験がどこかにあるんですよ。
一生の中でどこかに。
だから、テレビとかでいろんな有名人が
サンタになっていても、
「子どもの夢を壊す」なんて言う人は全然いなくて、
いろんなサンタがいていいんです。
ただ、ひとりひとりの中に、
あのときのサンタは絶対本当のサンタだっていう
サンタがどこかにいるんですよ。
小学校の高学年の教科書に、
「サンタはいません」という
一文が出てくるらしいんですけど、
そういうのを見ても、みんななんか笑ってて、
「まあ、そうだよね、サンタはいないかもしれないけど、
 でも、自分が4歳とか5歳のときに会った、
 あのサンタは本物だよね」
という感覚を持ち続けてる人たちなんです。
その人たちが読むムーミンって、
やっぱり理路整然としてなくて全然いいんですよね。
重松
もっと言っちゃえばさ、
キャラクターとしての固有名詞なしでもいいんだよね。
だから、普通あり得ないことなんだけれど、
外見が同じものがいっぱいいたりとかさ、
名前もついてなかったりさ‥‥。
森下
そうそう、そうですよね。
ヘムレンさんもいっぱいいます(笑)。
重松
そう。だから‥‥ディズニーが、
ミッキーは世界中でこの時間には
ここにしかいないっていうのとはちょっと違う。
森下
はい、違います。
重松
あまねくいるわけで。
森下
(笑)。

「わたし、北風の国のオーロラのことを考えていたのよ。
 あれがほんとにあるのか、あるように見えるだけなのか、
 あんた、知ってる?
 ものごとってものは、みんな、とてもあいまいなものよ。
 まさにそのことが、わたしを安心させるんだけれどもね」
                   ──おしゃまさん

                       『ムーミン谷の冬』
              (トーベ・ヤンソン著 山室静訳)より
(つづきます)
2015-03-13-FRI