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#14 一人歩きしない言葉を求めて


「読んでいて、自分で言葉を見つける途中にいる人ほど
 急いで完成度の高い言葉を借りたがる、という言葉が
 私に響いてきたのは、今の私に近いからなのでしょう。
 勉強も仕事も遊びも、心底楽しいとは思わない時期が
 もう、どれくらい続いているのでしょうか。
 答えを早く出さないとって焦ってしまって、
 でも本当はゆっくり考えて、一言を言いたいんですよね。
 言葉だけが一人歩きする状況は、とても、空虚ですから」

「大学の頃、仏文をかじり、哲学にも興味をもちながら、
 用語の難解さに辟易し、極めることはありませんでした。
 ただ、このごろ、哲学的な考えは、人にとって、
 当然の営みではないか、とも思うようになっています。
 『なぜ生まれてきたか?』
 『死が訪れた後は、本当に無になってしまうのか?』
 考えはじめたらきりがなく、容易に答えがでない命題。
 けれど、それらの命題は、日々をどのように生きるか、
 どんな仕事を選択するか、人とどうつきあうか、という
 問題に直結していて、私としては、この現代で、毎日を
 よりよく生きてゆこうとすると、その問いにどうしても
 戻ってゆかざるをえなくなります。『コンビニ哲学』では
 世界に参加しないと言葉は空しいものとなる、という風な
 表現がありましたが、そのへんがとても気になりました。
 好きなことしか語れない、ではないですが、まさに、
 参加を伴わない言葉の多用は不毛と思っていたからです」


"#12"に、このような感想を送ってくださった方がいます。

話が抽象的になった後に、いただいたメールで感じたのは、
働いたり生活したりしている最中の人の実感に則しながら、
話を、戻したり揺さぶったりして進めたいということです。
論理だけが一人歩きしないように。
参加を伴わない言葉ばかりが、先走ってしまわないように。

ここ数年で、ぼくには、ほんとうにいろいろな立場の人の、
「いろいろな角度から、頭を抱えたりうれしいと思ったり、
 毎日を過ごしているときに、核になるような実感の数々」
が、「ほぼ日」への膨大なメールで、伝わってきています。

そこを出発点にして進めば、過去の哲学者と
研究者のためにとってのみ重要とされている細かい議論や、
時間だけがたっぷりある学生には有用だけど、
子育てをはじめた人にはなんだか空しく響く言葉遊びとか、
そういうものからは、離れてゆくはずだ、と思っています。

例えば、かつて "#1" でも紹介した
遅刻に関するさまざまなメールの中には、少数の会社で、
遅刻しないで会社に来ているのが数名しかいないことを
思いなやむうちに、だんだん、
「この会社は、結局、人との約束を守らないのではないか」
「周囲の腐敗を止めきれず、会社の生む価値が減っている」
などと考え、心が冷えきってしまった事例も、ありました。

そこから、話をはじめてゆくことだって、できるはずです。

周りの人の行動と自分の自立との間で思い悩んだ後に、
冷えきった心で、誰にも言わない考えを、心で推し進める。
裁判の資料を作成するように、周囲の腐敗を、数えあげる。

「あの人は、この三か月、定時に来たのはニ日だけだった。
 寝込んで『様子を見る』と言いわけを重ねた後、いつも、
 『何時には着きます』という時間にさえ必ず遅れている。
 夜になって会社に来たと思ったら夕食に出かけてダベり、
 夜は、交際相手との電話や私用メールを重ねているだけ。
 結局、数十分もあれば済む仕事しかしていない日も多い。
 数人しかいない会社で働く風紀は少しずつ乱れてきてる。
 それでも、その人は自分のことを有能と感じてるようで、
 自分のことを棚に上げ、他人や他社を強く非難している」


……たとえば、こんなように、
誰かのことを、冷えきった目で見つめて分析してしまうと、
相手に直接伝えるか、上司に進言か、または、別角度から、
「自分の実力を上げて、そんなことで悩まないでいいほど
 仕事に入り込む方が、自分の健康にはいいのではないか」
と一周まわって考え直すか、などといった、思い悩みの
冷えた循環に、長く入り込んでしまうのかもしれません。

非難や進言をしたりすると決めても、伝えるための準備に、
思わぬ時間が取られてしまうことだって、よくあるわけで。

ところで、冷えた目で人の欠点を数えてゆくこの思考法は、
どういうところに人を導くか、あなたには、わかりますか?

この考え方が、もしも、どこかでまちがっているとしたら、
あなたは、その「まちがい」はどこにあると思いますか?
(まちがっていないと考える場合、どこが正しいですか?)

このことは、後に触れてゆく予定なので、ぜひ、前もって、
あなたの考えを、寄せてくださるとうれしいです。

……さて、ここで、話をもう一度、『怒り』に戻しますと、
こういった、冷酷な分析に身をまかせてしまうときや、
自分で止めたほうがいいと思う考えに囚われるときにさえ、
前回、ハイデガーの話を紹介したときには「自分なり」と
伝えた、そういう自分の貴重な立地条件は、あるのでして。

いったん、実体験に引きつけるために、かつて、
「ほぼ日デリバリー版」というメールマガジンにいただいた
とても痛い一通のメールを、ご紹介したいと思います。

「二四歳です。四年間、恋していた人と別れました。
 理由は単純、もともと不倫で、世間によくあるような
 奥さんが出てきた三角関係として、捨てられた結果です。
 彼と彼の奥さんと、三人で直接会って話をしてきました。
 彼の奥さんは私を恨んでいます。私にはそれがわからず、
 私が彼からもらった想いの数々を話しました。
 最初は興奮気味だった彼の奥さんも、だんだん落ち着いて
 私の話を聞いてくれました。
 私は彼にだまされていました。彼は、家では、
 『家庭が一番、子どもも大事』と言っていて、私と会うと
 『一生、ふたりで暮らしたい』と言っていました。
 今日、三人で会って彼の矛盾がハッキリしました。
 私と一緒にいたいというのはウソなのか?
 問うても、彼はうつむいて、ほとんど話しませんでした。
 今まで、私と奥さんの両方にいい顔をしていたのでした。
 外では私と、家では奥さんと仲良くやっていました。
 『あと一年すれば離婚に決着がつく。
  お金の問題さえ解決すればいいんだ』
 かつて、彼はこう言って私を引き止めました。
 私は彼の言葉を信じましたが、離婚問題など出ていない。
 それどころか、彼は奥さん宛てに
 『いろいろ迷惑掛けてゴメン。
  お前ともケンカするけど、一緒に溝を埋めていきたい』
 と手紙を書いていました。

 彼は、会話の最中に、自分が人類の中で一番不幸だ、
 というような顔をしていました。きっとまだ、彼には、
 私や、彼の奥さんの痛みが分かっていないのでしょう。
 欲しい物を欲しがる。仕事で辛くなれば外で逃げ場を作り
 必要がなくなったのなら捨てる。
 彼は『人を傷つけたくない』としきりに言っていました。
 傷つく言葉を使わないことで、誰も傷つけていない。
 彼はそう思っていたのでしょう。私は彼に、
 『そうじゃない。あなたのしてることは
  ひどい言葉を言うよりも、人を傷つけているんだ』
 と言いました。今までの私は何だったんだろう。
 彼の何を見ていたんだろう。そう考えると、
 自分のみじめさに泣けてきます。彼の奥さんは、
 『今日、会えてよかった。あなたと話せてよかった』
 と言っていました。つらいけど、決着がつきました。
 自分の気持ちはまだ、不安定だけど、
 きっとまた、新しい時間がやってくるのだと思います」


例えば、誰かと別れてしまわざるを得ないときもあって、
「人は、人を切り刻むためだけに会うのだろうか」
と、きつい気持ちになる人も、いるのではないでしょうか。

話すほどに違和感がひろがっていってしまい、
そのうち、言葉が、あらさがしの凶器のようになった後に、
「今日はいっそ会わないほうがよかったなぁ」
と感じたことのある人は、案外、多いのかもしれません。

性急に相手を知ろうとし、自分の考えを伝えようとして、
一気にすべてを話そうとしても、機が熟していなければ、
よそよそしい誘導尋問のような言葉にまみれて、
辛くなってしまうだけになるようなときも、あるわけです。

たぶん、人に会うことが記者会見ではないように、
考えたり話したりすることの目的は、
人を分析したり解剖することだけには、ないのでしょう。

しかし、相手と無理に話を続けていって、熱に任せて、
人の境遇や気持ちまでも論理と分析の刃で切り刻んで、
おたがい疲弊してさようなら、という例も、
ずいぶん、世の中には、あるようです。
そういうメールなら、これまで、何百通も読んできました。
どれも、とてもつらいものですが、でも、そういう場所にも
「自分なりの地平」は、確かにあるはずです。

人の思考の仕組みや言葉の限界について、数学的に精密に
考えつづけた、ウィトゲンシュタインという哲学者は、
かつて、次のように語ったことがありました。

「言語に関して精密に考えれば考えるほどに
 言語と論理の純粋さの間の衝突が、はげしくなります。
 論理の純粋さは、空虚なものになろうとしているのです。
 純粋な論理について考えるとき、
 私たちはなめらかな氷の上に迷いこんでしまっています。
 そこには摩擦がなく、ある意味では理想的な条件だけど、
 しかし私たちは、そのために、実際の世界では
 先に進むことができません。私は、先に進みたいのです。
 だから、摩擦が必要なのだ……ザラザラした大地へ戻れ」


言葉を、純粋に見つめれば見つめるほど、
真空の状態で理科の実験をしているようなものになる。
実際の世界から、どんどん、遠ざかってくる気がする。

だから、言葉は、実際にそれが使われている
ザラザラとした土地と切り離すことができない……。
純粋培養の土地から離れる決意とも取れる言葉でしょう。

ザラザラした大地の、自分なり立場から、考えをはじめる。
既に何かを考えた人の都合にあわせながら、
誰かの発した言葉だけを先に歩かせるのではなく、
ちょうど今の立場から、自分にとっての言葉を探してゆく。

そういうことに触れた長い本に入ってゆく前に、まず、
今回は、助走のような話を紹介しておこうと思ったんです。

ちなみに、ハイデガーにしても、
実生活や、哲学をめぐる状況について、
不平や不満ばかりを感じていたという現実を、
おまけのように、ここでは、伝えておこうと思います。

「多くの教師は、体裁のいい組織営業のために身をおいて、
 学期ごとに学生連中を平然と愚弄するだけです。
 私の講義に、人は好奇心や視察でやってくることが多い。
 学生たちは、がむしゃらに試験のことだけを考えている。
 気のきいたことをはじめる相手となるような学生は、
 ここにはほとんどいないのです。
 学生連中は、みずから進んで勉強をしようとはしません。
 さしあたり学生に教育を施せることがあるとするならば、
 彼らが決まり文句を並べたり、ごまかしたりすることが
 ないようにするだけで。大部分の者にはこれで十分です。
 凡庸な学生は、凡庸な特定な仲間と、たがいに
 なれなれしく、くだらないことを話しあっています。
 まじめな勉強をしなくてもいいと思いこんでいて、
 私の講義から命題を聞きかじって、口まねしていれば、
 それでもう、儲けものと思っている学生たちなのです。
 だからこそ、私は、根本的な話や、手堅い研究作業や、
 素直で純真で事柄の核心を突いた講義に集中します」


これは、ハイデガーが友人に向けて書いた手紙の中身から
大ざっぱに要約したものですが、ほとんど、
今の学者が嘆いていることと、変わりがないと思えます。

昔も今も、人は最善の環境で何かに打ちこめるはずがない。
時間がなく、人材が揃っていないのは、
いつの時代にも、当たり前の状態なのかもしれません。
彼が、二〇世紀を代表するとされる哲学書を書いたときも、
学生や学者たちの腐敗に、腹を立てながら、だったわけで。

そう思いはじめて、まわりを見渡してみると、
「こんな環境で、何ができるっていうんだよ!」
と思えてしまうような場所にさえ、そこにいたからこそ
自分なりにわかることが、たくさんあるのかもしれません。

ハイデガーは、まわりが腐敗してゆく中で、
友人への手紙に、次のように記しています。

「人は、自分が孤独であることを語るべきではありません。
 しかし、孤独であるということこそ、考える人にとって、
 能力をふりしぼって立つ、唯一の場所なんだと思います」


彼がそういう気持ちで書いた本を、少しずつ、紹介します。

次回に、続きます。

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                  木村俊介




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2003-10-24-FRI

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