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#4 言葉が生きるための条件


読むと、思わずやる気が出てくるような言葉。
毎日着実に自分を鍛えあげたスポーツ選手が、
結果を出したときにはじめて話す、充実感に満ちた言葉。
聞いただけで、「うわぁ、かっこいい!」と
思わず興奮しちゃうような、映画の中で語られるセリフ。

人を鼓舞させる言葉は、世の中に溢れていて、
一生懸命な気持ちをひきだしてくれる言葉が
そこらへんに、たくさん転がっているからこそ、
次のように感じる人は、少なくないのかもしれません。

「一九歳や二〇歳の頃は、
 『好きなことは増えて、嫌いなものは減る一方だから、
  じゃあ、歳をとればとるほど暮らし生き生きなのか?』
 と、漠然と思っていたりしました。
 ただ、今年二五歳になる私が何となく思うことは、
 『好きなものがなくても平気。でも確実に空しい』です。
 映画やら音楽やら美術やら、うまく楽しめません。
 分かってないくせに知ったような気になる自分自身にも
 時折うんざりします。いいかげん、いろいろなことを
 選ばなくてはならない年齢なんですよね、きっと……」

「哲学者の言葉の中には
 意味がわからないものも多く、
 役に立たないものも、けっこうあると思うんです。
 ぼくにとっての哲学は、言葉に納得するか、
 感心するか、良く分からないと思うかのどれかであって、
 そこから先が、続いてゆきません」


前回の「#3」にいただいたメールには、
こんなふうな悩みが書かれたものが、ありました。
「いい作品があったとしても、それをたのしめない。
 好きなものとか、コレだというものがなくて空しいから」
「哲学の言葉がおもしろいおもしろくないかは別にして、
 実生活には役に立たない。言葉は言葉で独立している」
すごくおおざっぱなまとめかたをしてしまえば、
ふたつのメールは、こんな風に要約できるかもしれません。

「感動した言葉があっても、自分の中で生きていかない」
という感覚は、なんとなく、わかるような気がしますが、
それは、なぜ、起きてしまうのでしょうか?

言い換えると、偶然、どこかで受けとった言葉を、
自分の中で生かすには、どうすればいいのでしょうか?

今回は、哲学者の生涯のテーマについてではないのですが、
この「言葉が生きる条件」について、おとどけいたします。
まわり道に感じられるかもしれませんが、話を続ける上では
大切だと思えることなので、ぜひ、読んでみてくださいね。

冒頭に、今年二五歳になる方のメールを紹介しましたが、
これを書いている木村は、その一歳上の、二六歳です。
「ほぼ日」と関わりはじめて、そろそろ四年になるところ。
まだまだ、至らないところだらけなんですが、この数年、
自分なりに、インタビューや対談やメールを通して、直接、
真剣に、人の話を聞きつづけることをしてきたつもりです。

わかりやすく、数で言うとするならば、
対談やインタビューで話を聞いた人の数は百人以上、
読んだ感想メールの数は十万通以上になっているはずです。
それだけの数の人の声に触れた数年間、
言葉が生き生きしているかどうかについては、
節目節目で、何度となく、考えさせられてきました。

どうして、この人の言葉って、じょうずにハマるのか?
どうして、この人の話を、ずっと聞いていたくなるか?

たとえば、ということで、ひとつ思い出す会話は、
今年の春、「ほぼ日」の取材で、
経済学者の岩井克人さんと会ったときのものです。

「言葉は、何かを媒介するもので、
 自然の中にも人の中にも存在するものではない。
 言葉は、人と人のあいだにしかないものだけど、
 人と人とを媒介するものがあるからこそ、
 人は人らしくあることができる。
 人が文学を持っているのは、
 ひとつの意味だけを指し示さない、
 ウソもつける媒介があるからであって、
 人間であるということは、つまり、
 ウソも、真実よりも真実らしいことも
 述べることのできる存在であるということです。
 人の社会をおもしろく、予測を難しくしているのは、
 ウソもつける、この媒介があることでして……」


言葉があるからこそ人は人であれるし、
言葉が、ウソをつくこともできるものだからこそ、
人の社会はおもしろい、という岩井さんの話には、
ご本人の「いつも本質を見ていたい」という生き方が
反映しているよう気がしました。

ここでは、
「アメリカで成功を約束されていたが、
 そのときに、もっとも重要だと思うテーマを扱うならば、
 当時の経済学の主流派から外れてもいいと感じた」
などの、岩井さんの経歴を詳しく語るのは避けますが、
「語る言葉の筋道に、これまで本人の試してきたことが、
 まるごと、乗っかっている」
という実感がありました。

インタビューやメールを通して、
自分が、最も心を惹かれるというか、動かされるのは、
ぼくにとっては、そういう言葉だったような気がします。

その人の持っている固有の物語を、
話す中で一緒に体験してゆくというのが、自分としては、
インタビューが持つ、ひとつの側面だと思っていますが、
「話し手本人の物語が乗っかっていること」というのは、
きっと、言葉が生きる条件なのではないでしょうか。

たとえば、小説の冒頭に一行だけ、
「人は孤独なものである」とだけ書いてあっても、
その言葉は、乾いたものに見えるだけだと思います。
だけど、昔から、そういう結論の物語はずいぶん書かれ、
そして、人は、そういうものに、感動し続けてきました。

やる気を引き出してくれる本を熱心に読んで、
ほんとうに人生が変わってしまう人と、
数日経つと、すっかり忘れてしまう人との間には、
「自分自身の物語を、そこに乗せちゃうかどうか」
という差が、あるのかもしれません。

「こういう視点も、おもしろいかもと思うこと」と、
「そういう視点の上に、自分を乗せてみること」には、
観客席で批評している人と、試合中の人ほどの違いがある。

たとえば、哲学上の問題について思いをめぐらすときも、
「先人の結論を味わい、いいか悪いか判断すること」と、
「先人がある問題に固執した理由も踏まえつつ、
 なぜそこに全力で自分自身を賭けたのかを知りながら、
 じっくりと問題に入りこんで、考えの筋道をたどること」
とでは、結論は同じ数行ではあっても、
その言葉の響き方は、違ってくるのではないでしょうか。

ある言葉に、自分自身を乗せきってしまうなら、
その言葉は、生きたものになるはず、というのは、
「同じ言葉でも、
 感情をこめるとこめないのとでは、
 聞き手にとっては、まったく印象が異なる」
ということに、似ているタイプの話だとは思いますけど。

たくさんのメールを読んでいたり
人にインタビューをしていて強く思うのは、
そういうことなので、今日はその印象を、お伝えしました。

もしかしたら、参考になる先人の話を求めて
このページを読んでいる人もいるかもしれないので、
リルケという詩人が、今回の話題に似た話題の中で、
かつて「言葉を生かすもの」について述べた考えを、
要約して、おとどけしておきましょう。

「人は一生かかって、
 蜂のように、蜜と意味とを、集めなければならない。
 そうしてやっと最後に、
 おそらくわずか十行の、立派な詩を書けるのだ。
 詩は、ほんとうは、経験なんだ。
 一行の詩のために、あまたの都市、あまたの人々、
 あまたの書物を見なければならない。
 思いがけない出会い、遠くから近づくのが見える別れ。
 まだ意味がつかめぬまま残されている少年の日の思い出。
 喜びをもたらしてくれたのに、よくわからなかったため
 悲しませてしまった両親のこと。閨の営み。産婦の叫び。
 死んでゆく人々の枕もとについていなければならないし、
 明け放した窓が風にかたことと鳴る部屋で
 死人のお通夜もしなければならない。
 こうした思い出が、血になり、目になり、表情になり、
 名前のわからないものになり……そしてもはや、
 自分自身と区別することができなくなって、はじめて、
 ふとした偶然に、詩は、ぽっかり生まれてくるのだ」


そして最後に、もうひとつだけ、
とても暗く見えるかもしれませんが、
三年半前に、「ほぼ日」読者からいただいた
メールを、紹介してみたいと思います。

「私は、『自分の残りゲーム時間』が、
 去年、突然、ほぼ、設定された三四歳の女性です。
 今は某FM局でフリーアナウンサーをしながら、
 ウェディングや企業イベント等の
 企画・演出・司会をする仕事をしています。
 長い間準備した仕事が、やっと調子が出てきたところで、
 突然去年、乳がん宣告。しかも早期発見ではなく……。
 右胸を半分失い、再発転移しやすいということで、
 放射線治療、抗がん剤投与と術後も次々と続きます。
 徹夜続きの毎日でも風邪もひかない健康体を
 自負してきた自分がこんなことになるなんて、驚きです。

 現在はまったくガンには見えない様子で
 仕事に復帰していますが、初めて死と直面し、
 私の中身はがらりと変わりました。
 今までのゲームのルールもふっとんじゃいました。
 人にどうみられているかなんてどうでもよくなったし、
 仕事でもお金を儲けようなんて思わない。
 ああでもないこうでもないと青筋立てている面々にも、
 まーまーと目を細めてうなずいている、
 でも、そっぽを向かず受けとめている。
 人にはそれぞれいろいろな事情があるのだから、
 もの申すより、気持ちの添い寝をしていよう、とか。
 そんなことを思っていると、
 この病は、人生の問い直しチャンスだったのだなと
 思えるようにもなるのですけど。

 しかし実際、『自分ゲーム時間』が設定されたら、
 『ほぼ』でも、まじでこわいです。
 だからがんばれるとかそんなかっこいいことじゃなくて、
 もっと、ただ、なんていうか、ありのままの、
 人間のそのままになっていくっていうか。
 受験や就職なら、それに向かって、
 よっしゃーと奮起できる楽しみ?もあるけど、
 生きるというゲームはなかなかそうはいかないですね。
 今、先を行った人にきいてみたいことは、
 ゴールが見えてきたとき、
 その人は何を杖に歩んだかということかな。
 それとも、杖など必要ないぐらいになって見えたのが
 本当のゴールなのかな?」


「自分自身の物語を乗せた言葉」
を考えるときに、実は、まっさきに思い出したり、
くりかえし読んでいたのが、このメールなのでした。

参考に、なりましたでしょうか。
あなたはこのメールを読んで、どんなことを思いましたか?

次回に、続きます。

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                  木村俊介
 

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2003-09-30-TUE

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