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#13 言葉を待つ準備


このコーナーは、少しずつ、
哲学者・ハイデガーが書いた未完の長い著作、
『存在と時間』の内容に近づいてゆくのですが、
今日は、その本を開くための助走の道を敷くように、
前に「ほぼ日」でぼくが紹介した哲学者の言葉の中から、
反響の大きかったものを選んで、話を展開してゆきますね。

"#8" では、ハイデガーの、一つの考えを、紹介しました。

「言葉が危険なのは、多くのことを隠すからでなく、
 語られていないものを放棄してしまうからなんです。
 今までの自分の考え方をこえてゆくことが、
 何かを獲得するということだとしたら、
 未知のものに出会う心の準備がある場合にのみ、
 本当の意味で語ることができるのではないでしょうか。
 語るテーマをがんばってしぼってしまうほど、
 私たちは、テーマを見失うという場合が、よくあります。
 逆に、先入観を持たず、会話の自由な歩みに任せていると
 私たちの前に、語られるべきものが、
 それ自身によって、目の前に近づく可能性があるわけで。
 だから、もしもやるのならば、
 好きなことに関して話したり行動したりするに限ります。
 人は、言葉が自ら語りはじめる状態を待つことによって、
 そして、言葉に注意深くなりつつ、感謝することにより、
 自分の知っていること以上のことを
 語ることができる瞬間に出会うときがあるんです。
 だから、自分の発言が、たとえ、しばらくは、
 既に知られていることのくりかえしであったとしても、
 問いの目的を縛りすぎて、答えを出すために急がずに、
 まずは、静かに待たなければならないでしょう」


無理に考えを進めようとしても、一歩も動けないのだから、
自分の予想もつかないような言葉を待って、未知のものに
出会う準備をしておいたほうがいい、という発言は、特に、
晩年のハイデガーがくりかえし語った重要な考えなのです。

ただ、この考えを示しただけでは、
「言葉を待つとは、具体的には何もしないことなんですか」
「好きなことを語るという方法が、いまいちわかりません」
当然、こういう疑問が、出てくることと思います。

ハイデガー自身は、どのように言葉を待ったのでしょうか?

彼は、学生たちと、特定の哲学者についてのゼミナールを
開くことを好みましたが、どの哲学者に関しても、いつも、
私たちの意図で、この人の考えを、修正してはいけません、
この人の考えを利用して勝手な飛躍をしても、いけません、
この人の言葉をよく聞いて、何を言ったのかに到達しよう、
というような諸注意を伝えた、という記録が残っています。

「待つ」という技術の一つには、こういった
「勝手に結論づけずに、本当には何を語っているか、よく
 耳を傾けるということ」を、挙げられるかもしれません。

思いあがった確信や結論を、最初から持っていると、
問おうとしている問題の範囲が狭まってしまうのだから、
自分自身を、これからいろいろな道に行くかもしれない
可能性に向けて開いたまま、人が発した言葉を聞く技法。

「常に一つの人格だけに
 結びつけられてしまうことは不自由です。
 人が衣服をとりかえるように、
 人格にも、清潔に保つための着替えが要ります」


こんな言葉が、世の中に多く残されているように、
自分の立場さえも自由に変えながら、人の話を聞きこむと、
あなたの中には、どのようなことが、起きるのでしょうか?

「とても重要な人の書いた言葉を読むときには、まず、
 そのテキストの中で明らかに不合理な箇所を探し出して、
 すごい人がなぜこんなことを書いたのかを、問うといい。
 答えが見えて、その文章の意味が、通るようになったら、
 以前、自分では理解したと思いこんでいた文章が、既に、
 その意味を変えていることに気づくのではないですか?」


先人の作家や哲学者の中には、
このような言葉を残している人が、かなり多いのですけど、
「待つ」ことによって、あなたが変わってゆくというのは、
例えば、こういうことなのかも、しれません。

人の言葉に、とことん耳を傾けるという技法は、
自分がまだ、どれだけ富んでいるのかがわからないときや、
自分の考えを完全に言葉にできるはずもないというときに、
とても向いているものなのかもしれません。
ある行動を終えた後になって、ようやく、
「私が望んでいたのは、本当はこういうことだったんだ」
と驚きながら声をあげることのできる瞬間を待つ……
という方法なら、どの地点にいる人でも実行できるのです。

ハイデガーは、ある講義の中で、
「考えるということの偉大さは
 考えを進める試みを、生々しく体験することにある」
と、学生に対して伝えたことがありました。
その考えが鋭いのか整っているのかどうかなんて、
そもそも、どちらでもいいとさえ、伝えているのです。

古い哲学者の結論や解答が、今は否定されているとしても、
それでも、「考えを生々しく進めたこと」には変わりない。

結論ではなく、プロセスを味わうということについて、
前に「ほぼ日」で反響を受けた、先人の言葉を紹介します。

「私たちは、ともすれば解釈をしすぎて、
 ものごとを、過剰に意味づけてしまいます。
 解釈が、何かをそのままでは放っておけない
 俗物根性に、過ぎなくなってしまっているのです。
 ものごとを、疑わしい理論によって分類するのならば、
 ものごとは、わかる範囲に留まる実用品になってしまう。
 吸収しすぎてしまっていては、息が詰まっちゃうんです。
 今の私たちの文化は、生産過剰に根ざしているので、
 わたしたちの感覚はどんどん鈍くなります。
 感覚を取り戻したいんです。もっと多くを感じたい。
 だから私は、何かの作品に触れても、
 その中から最高の内容を見つけたいとは思いません。
 すでにある以上の内容をしぼり出すこともしません。
 ものを見ることを薄めてしまってはいけないと思う。
 私の経験を、確かに実感のあるものにしたいのです」

「ほとんどすべての小説が、
 行動と事件の因果関係だけに基づいています。
 そういう小説は、狭い街路のようなもので、
 登場人物たちは、その道筋に沿って、
 鞭で追い立てられてゆくことになります。
 クライマックスというものは、
 小説に負わされてしまった呪いなんです。
 なにしろ、それがすべてを支配するのですから。
 小説の中に、最高に美しい文章であっても、
 最高に驚くべき場面や考察があったとしても、
 すべてを、最後の盛りあがりにつなげるための
 単なるひとつの段階に、おとしめられてしまい、
 すべての場面の意味が、最後の盛りあがりに向けて、
 集中させられてしまうのなら、つまらないでしょう。
 その盛りあがりの緊張の火に焼かれて、
 ほとんどの小説というものは、
 麦わらの束のように、燃え尽きてしまうのです。
 最後の盛りあがりに向かうための
 熱狂的な競争のようなものでない小説は、退屈ですか?
 私は、そうは思いません。
 おいしい料理を食べているとき、退屈をしていますか?
 あなたは、ゴールを目指して、急いで食べていますか?
 たぶん、反対だと思います。
 あなたは、食べものが、できるだけゆっくりと、
 あなたの中に入っていって欲しい、と願うはずでしょう。
 その味が、いつまでも残っていて欲しいと願いますよね。
 それと同じです。
 私は、小説が、競走に似たものになるのではなくて、
 たくさんの料理が出てくる宴に似たものになって欲しい」


「結論を急がない」というハイデガーの考えへのヒントを、
これまで示した流れで、あなたが感じることができたなら、
とてもうれしいと思います。

更に話を先に転がしてみると、ハイデガーが、
「待つ」ということと同じように重視したものは、
「自分なりに地に根を張った考えに基づくからこそ、
 自分自身の外に超える考えを、発することができる」
という、一度聞いただけでは、わかりにくい考えなんです。

ハイデガーの、数々の言葉を読みすすめると、
「独創的であること」よりも、「自分なりということ」に、
かなり、こだわっているように見えてきます。

確かに、誰かに褒められている程度の独創性ならば、
その褒めている人の土俵の上に立っているに過ぎないと
自白しているようなものかもしれませんし、
ほんのちょっとだけの独創性だったら、
それは、新しい価値を発明したのではなくて、
新しい騒ぎを発明したに過ぎないのかもしれません。

新しいものは偶然のぶつかりあいでできるのだから、
運がいい人だけが、偶然いいものを作る、という考え方や、
どこかに誰かの新しい発見があったというのなら、
それは、その人が立っている土地が新しいのであって、
最初から新しく生まれてきたのではない、という考え方も、
世の中では、かつても今も、よく、語られています。

そもそも、独創的な考えそのものよりも、
それを表現するやりかたのほうが重要なのだ、
という信念さえ、古くから、言い伝えられているわけです。
例えば、テニスをしている二人は同じ球を使っているのに、
必ず、どちらか片方がよりうまく球をさばくというように、
誰かと同じような考え方を示そうとしても、
同じような言葉の使い方を試したとしても、
かならず、明らかな違いがそこには出てくるのですから。

モノマネが、あらゆる文化の手段なのであって、
どんな天才も、まずはモノマネをすることによって
他人の感じ方や、ものの捉え方を学び、
天才であるほど、過去の天才の作ったものを勝手に盗んで、
自分のために利用して作品を作るんだ、そもそも独創性とは
そういうものだという言葉も、世の中には残されています。

自分の外にあるものについては、自分なりに捉えてみないと
「あれの印象は、こうだった」
とさえ思うことができないし、誰かの書いたものに対して、
個人的な、自分なりの印象を抜きにして客観的に伝えると、
個人的な印象に入りこみ、生き生きと書かれた内容でさえ、
ミイラのように、生気を失ったものになるかもしれません。

書かれたものの真実味や客観性よりも、
「書かれたものごとにこめられた異常な衝動」や、
「書こうとするにいたった個人的な世界の捉えかた」の方が
読み手にはずっと魅力的に映るのだ、ということだって、
かつて、これまた何度も、語られてきているわけなのです。

……こんな話を、まずは、きっかけとして投げ出しながら、
今後は、ハイデガーが語る「自分なりの地平」についても、
言葉を重ねたりくりかえしたりして、触れようと思います。

今回の最後には、前回と同じく、
ハイデガーが二〇代でのめり込み、夢中になって
読んだであろうニーチェの言葉を、おとどけしておきます。

「世の中全体のためだけに動く人には、欲望がなく、
 外界の鏡に過ぎず、自分の目的さえ持っていません。
 自分と他人をたやすく取り違えてしまいもする人は、
 いかにして立つべきなのかを知ることがなくなります。
 世界に対して誠実でも、自分に対して率直になる時間を
 もはや、失ってしまっているのかもしれません。
 自分勝手に肯定することも否定することもできないなら、
 もはや、世界の中の一つの道具にしか過ぎなくなります」


ぼくとしては、ここで出る「道具」というものの捉え方は、
ハイデガーの「待つこと」や「自分の根を張ること」にも
関係していく言葉と感じているので、ご紹介してみました。

あなたが、自分に対して率直になれる時間は、いつですか?

「待つ」や「自分なり」とは、あなたにとって、何ですか?

さらに、次回に、続きます。

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                  木村俊介
 

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2003-10-22-WED

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