COLUMN

旅のまなざし。

小林和人

2週にわたった旅のエッセイ、ラストをかざるのは
「ほぼ日」でもおなじみ、小林和人さんです。
いっしょに旅をするような気持ちで、どうぞ。

こばやし・かずと

セレクトショップ「Roundabout(ラウンダバウト)」、
「OUTBOUND(アウトバウンド)」オーナー。
店舗にならぶのは、
食器類、カトラリー、服、雑貨、文房具など、
さまざまな生活道具。
すべて小林さんが世界のあちこちで出会って

「いいな」と思った、
さりげないけれども、質の良いもの。
買ったあとで「選んでよかったなあ」と
思えるものばかり。

Roundabout
OUTBOUND

訪れる土地ごとの風土が織りなす眺め。
そして、立ち昇っては霧散する光景の数々。

旅は短い。
しかし、その余韻は長く生き続け、
人生における無意識の営みに滋養を与えてくれる。

印象深い旅は数あれど、今から十数年前、
友人と共にドイツとチェコを車で巡ったことは
良き思い出である。

フランクフルトで待ち合わせ、
アウトバーンを車でひた走り、
ドレスデンのエルベ川沿いの蚤の市を経由して
プラハで数泊滞在、その後ベルリンまで上り、
最後は再びフランクフルトへ。

その道程の中で、
私たちは様々な風景を共有した。

夏が終わり、秋に差し掛かる頃の高い空。
遠くの丘の上に見える小さな砦。
葦が茂る池の畔に集う、ボートを担ぐ男たち。
檻の中の猿の物憂げな背中。
国境付近の森に突如現れた半裸の娼婦。

まるで白昼夢の様な、
或いは路地裏で拾った
古いスライドの様なイメージの断片。

いずれも些細といえば些細な出来事ながら、
その旅を語るのに、
もはやどの一葉とて欠かせないほどの重要性を帯びて、
瞼の裏に焼き付いている。

それから何年か後、古書店にて時期を隔てず、
二冊の本に出会った。

批評家として知られるロラン・バルトによる『偶景』、
そして画家の大竹伸朗による『カスバの男』。

前者は、バルトが60年代の終わりに
モロッコで出会った
様々な「偶発事(アンシダン)」の
ランダムな記録集である。


「メディナ。午後六時頃。点々と露店商人の姿が見える通りで、一人のみすぼらしい男が、歩道の脇で、たった一本の包丁を売りつけている。」

「タンジールの浜辺で(家族、男娼、少年たち)、年取った労働者たちが、大昔の動きのとても遅い昆虫のように、砂をならしている。」

──ロラン・バルト『偶景』
(みすず書房  沢崎浩平/萩原芳子訳)より

具体的な出来事の描写にも関わらず、
とりとめのなさが生みだす大きな余白には、
何か別の抽象的なイメージが湧き上がってくる。

後者『カスバの男』も、同じく舞台はモロッコ。
こちらは旅行記の体裁がとられているが、
文章とドローイングの隙間に時折差し込まれる断章に、
バルトのそれに近い趣きを感じる。


「遠くに見事な桜。じっと見入る。」
「広いガーデンの中の建物、中で男がガット・ギターを練習している。」

「先のとがった丸い鉄の棒を、車を運転する女に乗せてもらおうとするが、断られる。」

──大竹伸朗『カスバの男』(求龍堂)より

『偶景』も『カスバの男』も、共通して伺えるのは、
些細な出来事がいつまでも後を引くその余韻、
そして「観察者としての視点」である。

ふと思った。このことは、
旅について考える鍵になりはしないか。

旅は単なる移動でない。
そこに「観察者としての視点」が介在することで、
移動という行為が初めて旅になる。

ひいては、その視点の持ち様によっては、
日常ですら旅になり得るかもしれない。

日常そのものの捉え方が、
旅を生きるという事に繋がるのだとしたら、
そこで生まれる様々な余韻は、
再び日々の営みに還流し、
その時間を重層的に、
より豊かなものにしてくれるのではないだろうか。

2018-09-25-TUE