張律/チャン・リュル。
中国の吉林省でうまれた朝鮮族3世、映画監督。
氏の2本の最新作が、
惜しくも閉館の決まったシネスイッチ銀座で
同時公開となります。
1本は釜山で、別の1本は東京で、
映画祭の優秀賞をあわせて3つ、受賞しました。
なぜ、チャン・リュル監督の映画を観ると
「かつて、そこにいた」ような気がするのか。
その物語世界へ「還っていきたくなる」のか。
理由を知りたくて、お話をうかがってきました。
担当は「ほぼ日」奥野です。

>チャン・リュル監督のプロフィール

チャン・リュル プロフィール画像

チャン・リュル

1962年、中国・吉林省延辺朝鮮族自治州生まれ。中国朝鮮族3世。小説家として活動後、映画監督へと転身。長編デビュー作、『唐詩』(2003)、『キムチを売る女』(2005)、『豆満江』(2010)、『群山』(2018)、『福岡』(2019)、『柳川』(2021)、『白塔之光』(2023)など多数の作品を発表。2025年には、『春樹』が第38回東京国際映画祭コンペティション部門に、『ルオムの黄昏』が第30回釜山国際映画祭コンペティション部門にそれぞれ選出され、3冠を獲得した。

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第3回 自分たちの言葉=自分たちの空間

──
監督の映画の重要なカギになるものとして、
「場所、空間」の他に
「言語、言葉」が挙げられると思います。
たとえば『春樹』では言葉が「壁」となり、
『柳川』では、
おたがい別々の言語を話しているのに、
なぜか通じ合っているようなシーンがある。
言語や言葉というものが、
これまた
ひとりの登場人物のように躍動しています。
中国・吉林省の延辺朝鮮族自治州に
朝鮮族3世として生まれ、
文化大革命でお父さんが逮捕されたのち、
幼少期に「下放」された農村で
中国語を習得したという監督は、
言語や言葉について、
どのようなお考えをお持ちでしょうか。
チャン
ある意味で、言語も空間だと思っています。
ですから、
たがいに置き換えて考えることができます。
たとえば中国・成都の言葉も、
あるいは韓国語も、
それぞれ固有の空間を形づくっていますが、
そこへ権威的な言語、
たとえば「英語」が介入してきたとき、
地域の言語によって表現される
ちいさな感情は、
まるでないものにされてしまったりする。
自分の言語を失うことは、
自分の空間を失うことと同じだと思います。
──
自分の居場所がなくなったら‥‥。
チャン
誰しも、生きてはいけないでしょう。
わたしの映画『春樹』の主人公は、
映画界のメインストリームへ行こうとして
自らの言語を捨てました。
そのことで自分の空間をも失ってしまった。
だから、流浪しているんです。
公園のベンチで寝ているような状態ですね。
しかも彼女は、
自らの居場所を失っていたということに、
ずいぶんあとになってから気づく。

──
言語と空間との関連性。
監督のお考えに、とても興味をそそられます。
監督の映画では、思いがけない人が、
思いがけない言語を突然しゃべり出しますね。
それまで韓国語を話していた
食堂の女主人や、
ずーっと何も話さなかった自閉症の女性が、
突然、明瞭な日本語を口にしたり。
そのことによって、
急に「正体不明な、謎めいた感じ」が出る。
言葉というものには、
そういうマジカルなところがあると感じます。
チャン
実際の生活の中では、
突然さまざまなことが起こるじゃないですか。
じつは日本語を話せるけど、
ふだんは話さない韓国人もふつうにいますね。
めずらしいことでもないし、
むしろ自分では当然のことだと思っている。
でも、他の人にしてみたら、
不思議だなあって思えることだったりもする。
──
はい。
チャン
わたしはむしろ、そんなふうに、
不思議だなと思える出来事のほうがふつうで、
わかっているつもりでいても
本当にはわかってはいないこと‥‥のほうが、
世の中には多いと思っています。
──
たとえば‥‥。
チャン
たまに、息子の顔を見ていて
「なんでおまえは、俺の息子なんだろう?」
と思うことがあります。
もちろん口にはしませんけどね(笑)。
反対に息子の方でも
「なんであんたが、俺の父親なんだ?」
と思うことって、きっとあると思いますし。

──
たしかに監督の映画では、
そういう「あたりまえの不思議」を大切に、
でも、さらっと描いている気がします。
言語や言葉の話に戻るのですが、
自分はヴェトナム戦争の映画をよく観ます。
いまはほとんど製作されていませんが、
かつては、戦争に傷ついたアメリカが、
自らを癒すように、たくさん製作しました。
チャン
はい。
──
日本で観ることができるのは、
それらアメリカ製のヴェトナム戦争映画で、
そこでは、
ヴェトナム語が物語の中から奪われている。
映画に出てくるヴェトナム人は、
流暢な英語を話すアメリカの協力者か、
一切訳されない謎の言葉をしゃべり続ける
未開で野蛮で不気味な敵か、
最悪の場合、
ただ泣いたり笑ったりしているだけの存在。
チャン
ええ。
──
つまり、言語や言葉というものが、
無理解や分断の道具として機能しています。
一方、監督の映画では、さまざまな言語が、
そのままの姿で飛び交っていて、
それなのに、なぜか通じ合ったりしている。
魔法的な仕方で人と人とを結びつけていて、
不思議なんだけど、
同時に、
本来はこうなのかもと思わせられたりする。
チャン
現代のわたしたちの生活環境は、
そもそも「多言語」の状態にありますよね。
わたしたちのさまざまな感情が、
そうした状態からうまれてくる。
──
それが現代。
チャン
ソウルに10年ほど住んでいたんですけれど、
町を歩いたり、
地下鉄やバスに乗ったりしていても、
毎日、中国語や日本語が聞こえてくるんです。
何を言っているかはわからないんだけれども、
この人は、いったいどういう人なのか、
どんな考えを持っているのか、と興味を持つ。
そこに
ひとつの関係性が表出していると思うんです。
──
言葉がわからない人同士の、関係性とは。
チャン
それは「何を言ってるんだろう」でも何でも、
「相手に興味を持つ」ということこそが、
いい関係を生むきっかけになる、ということ。
逆に、相手にまったく興味を持てなかったら、
何の関係性もうまれません。

──
なるほど。それだと、
相手のよろこびも、痛みも想像できませんね。
チャン
1949年に
いまの中華人民共和国が成立してから
1990年代に至るまで、
中国の映画は
すべて「標準語」で撮られてきました。
標準語があらゆる権力の中心にあったわけで、
映画の中では、先ほど話に出た
ヴェトナム戦争映画の英語みたいな立場です。
ヴェトナム戦争映画の中で
ヴェトナム人が尊重されてこなかったのは、
ヴェトナム人を尊重するより、
映画の興行収入のほうが優先されていたから。
だから、ヴェトナム語への尊重もなかった。
──
はい。
チャン
そのことはイコール、
ヴェトナムの人たちが住む空間への尊重もない、
ということだと思います。
──
そうか。空間への尊重がなければ、
ナパームや枯葉剤を大量に投下する物量作戦で、
ヴェトナムの国土を破壊することにも
躊躇を覚えない‥‥覚えることができませんね。
チャン
映画『春樹』には
上海語や成都の方言が出てくるんですけど、
わたしは、それらの言語を
まったく聞き取ることができないんです。
それでも、地元の人たちが、成都の方言、
つまり、自分たちの言葉を話しているときって、
やはり「表情がちがう」んですね。
標準語で話しているときの成都の人の顔には、
さほど豊かな表情はあらわれない。
でも、地元の方言をしゃべりはじめたとたんに、
みるみる豊かな表情を見せるようになる。
──
監督の映画って、登場人物に心を寄せてしまう、
好きになってしまうことが多いんですが、
そのことは、もしかすると、
「自分たちの言葉をしゃべってる」ってことと、
深く関係しているのかも。
チャン
そうかも知れませんね。
とにかく、わたしは
自分たちの言葉を話している人の表情が
好きだということです。
そして、映画そのものにとっても、
そういう表情はとても重要だと思います。

(つづきます)

2026-07-01-WED

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  • 2025年9月、
    第30回釜山国際映画祭コンペティション部門にて
    最優秀作品賞を受賞した『ルオムの黄昏』。
    また、その姉妹作『春樹』も、2025年10月の
    第38回東京国際映画祭コンペティション部門にて
    最優秀監督賞および最優秀男優賞を受賞。
    母語、アイデンティティ、急に消えた恋人‥‥
    それぞれに異なる「喪失」を描いた
    チャン・リュル監督注目の2作品が公開されます。
    個人的に、どちらも2回ずつ観たのですが、
    チャン・リュル監督の物語世界には、
    なぜか「還っていきたくなる」魔法がかかってる。
    東京での公開は、今年10月に閉館が発表された
    シネスイッチ銀座。
    どうしても、この伝統あるミニシアターで
    観てほしかったと配給のサニーフィルム有田さん。
    公開は、2026年7月3日(金)より。
    くわしくは、映画の公式サイトでチェックを。