
「本当はちょっと、大学に行ってみたい」。
昨年2月、夜の図書室でぼくにそう
進学への思いを打ち明けた定時制高校の男の子は、
たくさんの大人たちに背中を押されながら、
その年の暮れ、「東京理科大学 理学部第二部」に合格します。
合格の報せをもらって、
ぼくはもう一度田北くんに会いにいきました。
これまでいくつかのことを諦めてきたじぶんには、
この18歳の男の子が描いてみせた小さな大事件が、
たしかにひとつの、「希望の物語」に思えたのです。
ほぼ日のサノが担当します。
- 約束の時間は、あっという間に終わった。
ぼくとデザイナーの畑は、
毎週火曜日数学で会話してきたふたりの
「4年間の日常」を写真におさめさせてほしいと、
最後に提案した。
- 島田先生
- まあ、たしかに「日常」ですね。
- 田北
- 日常、日常。
ええー、じゃあ、教室に行きますか。
- 「日常」。
- 田北くんの卒業まで、あと1か月。
階段を降りて教室に向かうふたりの後ろ姿に
少し胸をぎゅっとさせながら、ついていく。
- 島田先生
- 田北、まだ緊張してますね。
- サノ
- あ、普段と違いますか?
- 島田先生
- はい。けっこう緊張しいなんですよ。
- 田北
- でも、俺、緊張してるわりに、
今日、すげえ流動的にしゃべれた。
ちゃんと話せた気がした。
- 浅見先生
- それはお前、サノさんのおかげだよ。
プロなんだから。
- サノ
- そう、プロなんだよ、じつは。
- 教室に着いた田北くんが、チョーク片手にキャハハと笑う。
「取材」の緊張感が解けていく。
約束の日がゆるやかに終わりに
向かっていくのを、肌で感じる。
- 田北
- じゃあ、なんか好きなやつ、書こうかな。
- 島田先生
- うん。あなたが今やってるやつ、書けば。
- サノ
- あ、この絵、いいな。
先生と生徒の立ち位置が、逆になるんですね。
先生が、生徒側の椅子に座って。
- 島田先生
- 黒板、自分で書きたがるんです。
火曜日は16時くらいに来るんですけど、
私がちょっと遅れて行ったりすると、
もう黒板がこうなってます。
気づくともうワシャーって書いてあって、
「これがああだ、あれがどうだ」って言われて。
- 浅見先生
- ヤバい、ヤバすぎる。変態だ。
- サノ
- なんか、ちょいちょい英語が書いてある‥‥?
- 島田先生
- 大学数学って、日本語の部分が少なくて。
証明とかも全部、「英語」ばかり使うんです。
だから「英語で数学を書く」っていう勉強も、
いま、彼はやってます。
- サノ
- えええー。まったくわかんない。
これは‥‥「ばなーは」?
- 田北
- BANACH(バナッハ)。
バナッハ=タルスキー(Banach-Tarski)の定理かな。
- 島田先生
- 数学者の名前です。
モデル論とか、空間論とか?
- 田北
- そこらへんです。
- サノ
- 何の話をしてるんですかね。
- 浅見先生
- すげーー‥‥
田北、ほんとに数学者になっちゃうよ。
- 田北
- ‥‥‥‥キタ、ここ。
ここを理解したいっていうのが、いま、俺がやってることで。
俺はまだ、ハーン-バナッハの定義が示してる13個のうちの、
4個しか進んでないんで、
いまはまだ、動画を観ててもわかんないんですよ。
だから、何時間もかけてこれを繰り返し書いて、
自分なりに解釈して、なんとなくわかっていくっていう。
- サノ
- 単純に疑問なんだけど、
数学って、写経をして理解できるものなの?
- 田北
- まあ、解読っすね。解読してるような感じ。
- 島田先生
- 「謎解きゲーム」みたいな感じなんですよね。
田北はずっとこのやり方で、数学を勉強してるんです。
とにかく写す。ノートとか黒板にビャーっと書いて、
そこから1個1個、意味を理解していく。
- 田北
- 今日は、こんぐらいでいいや。
これ以上書くと、命題に入っちゃうので。
- サノ
- 命題って‥‥「サビ」ってこと?
- 田北
- あはははは! サビ(笑)!
- 島田先生
- サビというよりは‥‥
えっと、まあ、「ラスサビ」みたいな(笑)。
- サノ
- 数学、「ラスサビ」あるんだ。
- 田北
- たしかに、「1曲目のラスサビ」って感じですね。
今から、そこに入っていくところです。
ただ、俺のなかでサビって思うのが‥‥
- サノ
- 「俺のなかのサビ」があるんだ。
- 田北
- 俺が個人的に好きなのは、2個上の、えっと‥‥ここ!
- 島田先生
- あはは、そうなんだ(笑)
- 田北
- これは、これは、あれなんですよ、
ここでBメロ入って‥‥
ここがCメロに入ったあたりなんですよ。
で、ここからラスサビで、これ以上書いたら
黒板が足りなくなっちゃうんで、もう終わり。
- 島田先生
- じゃあ、ここの図だけでも描きなよ。
- 田北
- 図? いや、描けるわけない。
だって、ここしかわかんないぞ、俺。
なに、これ。アークサイン1/3だから、えっと、そうだな‥‥
- サノ
- ‥‥浅見先生。
この光景って、ちょっと奇跡的ですよね。
- 浅見先生
- いいですよね。
さっきサノさんもおっしゃったように、
「数学の変態」の手綱を引ける大人がこの学校にいて、
本当によかったなっていう。
- サノ
- ぼくはそこに浅見先生がいたことも、
やっぱりとても大きかったと思うんです。
いろんな人と引き合わせて、背中を押しつづけてくれて。
この3人の景色が、なんというか、すごく尊いんです。
- 浅見先生
- 4人でしょう、サノさん。
ここに来てくださったんだから。
今日、私からひとつお伝えしたかったのは、田北は本当に、
サノさんにパワーをいただいた感じだったんですよ。 - というのも、
これまでたくさんの登壇者の方々をお招きしてきたなかで、
田北が自分から話をしにいったことは、一度もないんです。
テレビに出ているような方も来ていただいたなかで、
田北が「ちょっとお話いいですか」って一歩を踏み出したの、
サノさんのときだけなんです。
- 田北
- (くるっと黒板から振り向いて)
はい。選んだ。選びました。
- 浅見先生
- そうだよね。田北はサノさんだから話をしにいった。
しかも、かなり長い時間、お話ししてた。
「ああ、きっとすごく波長が合ったんだ」と思って、
サノさんを呼んだ身としては、すごくうれしくて。
子どもごとに「響く大人」ってやっぱり全然違っていて、
田北にとっては、サノさんがはじめてそういう人だった。
田北、本当にそうだよね。
他の人に話しに行ってるの、見たことないから。
- 田北
- 行ってないですねえーー。見てただけで。
- 浅見先生
- たぶん、何かが刺さったんだよね。
- 田北
- 生い立ちとか、刺さったかもしれないです。
サノさんの不安とか悩み方みたいなのが、
なんか、俺とすげえ似てて。
つい声をかけちゃうくらい、刺さりました。
この人だったら話せるかも、みたいな。
で、その人が「走ったほうがいい」って
言ってくれるんだったら、突っ走ってみようかなって。
で、走ってみたら、合格しちゃいました!
- サノ
- あはははは。
- 浅見先生
- なあ。でも、田北があのとき
勇気を出してサノさんに相談をしたことが、
こうして受験をすることにつながって、そして見事合格して、
今日また、こうしてサノさんと向き合って話をしている。
田北がここまで来れたっていう‥‥‥‥
この、いまの目の前の光景が、
私は教師として、本当に、すごく、グッとくるんです。
- 「はい、これで撮影もバッチリです。
もし修正してほしいところとかあったら、なんでも。
髪の毛の色も、変えようと思えば変えられます」
写真を取り終えた畑が、カメラを下ろして言った。
田北くんが、おおげさにのけぞる。
- 田北
- ええーっ!
- 浅見先生
- 変えてもらえ(笑)。
- サノ
- でも、髪色も含めて、田北君が10年後に見返したときに、
お守りになるようなコンテンツになったらなと思います。
「あのとき、たしかにがんばった」
っていうのを、残してあげたい。
- 田北
- あっ、それ、いいですね。
- 田北くんが再び黒板から目を離し、振り返る。
- サノ
- 島田先生とか、浅見先生とか、
「そのとき一緒にいてくれた人」のことも
思い出せるコンテンツになるといいよね。
- 浅見先生
- うん。すごくいい。「あのとき俺は」って、
振り返れる地点ができるってことだもんね。
ああ、いいコンテンツになりそうですね、ほんと。
私はコンテンツなんてまるで門外漢ですけど、
すごく、いいのができそう。超、いいっすね。
- サノ
- そしたら、じゃあ‥‥‥‥
このへんで、終わりにしようか。
今日はほんとうにありがとうね。
まずはとにかく、大学生活たのしん‥‥‥‥ああっ!
ずっと言えてなかった、
田北くん、合格、おめでとう!
- 田北
- ああ! ありがとうございます(笑)。
- サノ
- 完全に忘れてた。ちゃんと言わなきゃ。
おめでとう、おつかれさま! ‥‥がんばったね!
- 田北
- いや、もう、こちらこそ、ほんとうにありがとうございます。
- サノ
- よかったら、遊びに来てください、ほぼ日に。
- 田北
- ああ、いいな、行きます、会社!
インターンあったら、行こうかな。
- サノ
- ああ、いいかもね(笑)。
- ほぼ日のインターンは、金髪OKだよ。
ああ、というか、いまだから言えるけどさ、
めちゃくちゃビビったよ、金髪。
- 田北
- あああー、あの、じつはこれは、
離婚しちゃったお父さんの真似っていうのが、
ちょっとあるんですよ。
- サノ
- えっ?
- 田北
- 覚えてるんです、モヤモヤーっと、ちょっとだけ。
5,6歳までの記憶ですけど。
ちょっとだけ印象があるのが、すごい髭が伸びてた。
ハンサムな方だったかな。
まあ、あと、若いころの写真とかも、ちょっとあるんで。
お母さんとか、友達に意見をもらいながら、
ちょっとだけ真似してみました。
- 最後の最後に、なんて伏線回収だ。
(今日はこのまま、あとがき「19歳の田北くんへ」につづきます)
2026-01-03-SAT