
冒頭にわかりやすく言いましょう。
田口壮さんは元プロ野球選手です。
オリックスのレギュラーとして活躍し、
メジャーリーグでも8年にわたりプレイ。
なかなかすごい野球選手だったのです。
もうひとつ言っておきましょう。
田口壮さんは文章がおもしろいのです。
真面目な野球解説ももちろんできますけど、
日常を書かせたら「本業ですか?」というほど
軽快で愉快で魅力的なものを書かれるのです。
そんな田口さんが、現役引退のあと、
コーチや二軍監督の仕事に一区切りをつけて、
ひさしぶりに「フリーに」なりました。
その隙を見逃さずほぼ日がオファーして、
この素敵な連載がはじまったというわけです。
野球も、野球以外も、思い出話も、雑談も、
田口荘から田口壮がお届けいたします。
田口壮(たぐちそう)
1969年7月2日生まれ。
兵庫県西宮市出身。蟹座B型。
社会人野球の選手だった父、
そして2歳上の兄の影響で、
小学校から野球をはじめる。
「二人がキャッチボールをしてるのが羨ましくて。
ボールを受けられたら入れてあげると言われて、
3歳の僕は必死で練習しました」
小中学校時代のポジションは内野手。
兵庫県立西宮北高校に入学。
高校まで片道40分かかる8キロの急な山道を
毎日ランニングで通っていた。
「毎朝ランニングで登校する田口壮」の姿は
地元では有名で、いまも語り草になっている。
近隣の駅から練習試合の高校生が
西宮北高までタクシーに乗ろうとすると、
かなりの確率でその話になるという。
西宮北高校時代、甲子園出場はかなわなかったが、
田口選手のポテンシャルはしだいに話題になり、
高校2年のときに1球団、
最終的には全球団のスカウトが視察に訪れた。
甲子園出場経験のない高校の選手が注目されるのは
当時、異例のことだった。
その際、スカウトから提示されたのは
「ドラフト2位での指名」だった。
進学か、プロ入りか‥‥悩む田口選手に、
あるスカウトはこう言った。
「大学に行って経験を積み、
もっと上を目指すのもひとつの道。
順位があがらなかったら
成長がないということだ」
そのことばに感銘を受けた田口選手は、進学を決意。
関西学院大学に進むことに。
ちなみに、田口選手のお父さんもお兄さんも
関西学院大学の野球部出身。
「あの時のスカウトさんのおかげで今があります」
と田口さんはいまも語る。
進学後は関西学生リーグで打ちまくり、
通算123安打という記録を樹立する。
この記録は現在も破られていない。
そして1991年、4年のときのドラフトでは、
日本ハムファイターズと
オリックス・ブルーウェーブが
田口選手を1位で指名。
抽選の結果、
オリックス・ブルーウェーブが指名権を獲得し、
ドラフト1位でのプロ入りが決まった。
また、ドラフトの際には、
阪神タイガースも獲得に乗り出すと噂され、
それを受けて田口選手が
「阪神に行きたくない十ヶ条」を
スポーツ紙面に掲載させる、という事件が起こった。
しかしこれは田口選手本人が語ったことではなく、
阪神愛が強すぎるとある関係者が、
自分自身が物申したかったことを
「田口壮が語ったことにして」
スポーツ紙に掲載させたというのが真相だった。
いまも続く誤解について、田口さんはこう語る。
「阪神さんはFAのときもお声がけくださって、
本当によくしていただいていますし、感謝しかありません。
地元の人間として阪神を嫌う理由はひとつもないです。
しかし、当時生まれた誤解はいまも根強く残っています。
熱狂的なトラファンの父と兄は、あの一件以来
周囲からかなり厳しい言葉を受けたようです。
僕がそう言ったと信じているファンだって、
好きなチームをけなされて悔しかったと思います。
こういうのって、どうやったら終わるんでしょうね?」
このご本人監修のプロフィールによって、
誤解や風評被害がなくなることを祈るばかりである。
プロ入りした田口選手は、
期待の新人遊撃手として開幕一軍、スタメンを勝ち取るも、
「投げ方を直したほうがいい」という一部首脳陣の
アドバイスを生真面目に聞きすぎた結果、
イップスと突発性難聴を発症。
「それまでの野球人生で、
ほとんど指導を受けたことがなかったので、
結果的に自分にあってなかったアドバイスを
真面目に取り入れ過ぎてしまったんだと思います」
早くも引退の危機に追い込まれたが、
次期監督となった仰木彬氏のアイデアで外野手に転向し、
1995年の初受賞を皮切りに、合計5回の
ゴールデングラブを受賞するまでになった。
ちなみに田口選手がレフトを守っていたとき、
ライトのレギュラーはイチロー選手。
イニングの合間には、ともに強肩である
田口選手とイチロー選手がレフトとライトの間で
キャッチボールを行い、ファンを喜ばせた。
外野への転向について、田口さんはこう語る。
「今でもショートはええなあ、かっこええなあ、
って未練がありますよ。外野はね、遠いんです。
乱闘になるとマウンドまで走るのが大変でした」
田口選手とイチロー選手らの活躍により、
オリックスは1995年、1996年にリーグ連覇。
1996年には仰木監督悲願の日本一に輝く。
田口選手は2001年にFA権を取得し、
メジャーリーグ、セントルイスカージナルスに移籍。
以来、何度もマイナー落ちを繰り返しながら、
最終的にスーパーサブとしての立場を確立し、
カージナルスとフィリーズで
合計3度のワールドシリーズ出場、
2度の世界一を経験した。
メジャーリーグ在籍8年間で、
メジャー、マイナー、教育リーグを含め、7球団に所属。
誰よりも「縦に深く」アメリカ野球を経験した
日本人野球選手となった。
帰国後、古巣のオリックスに復帰。
若手を牽引しながらプレイを続けるも、
2012年、現役引退を表明。
その後はNHKなどで野球解説者を務める。
2016年、オリックスの二軍監督として現場に復帰。
以来2024年まで、一軍のコーチなどを務めた。
そして2024年秋、ひさしぶりに野球の現場を離れ、
野球解説者に転身。現在に至る。
(※2025年2月時点)
●田口壮さんへのお仕事のご依頼(ホリプロのページ)
https://www.horipro.co.jp/taguchiso/
夏の高校野球が終わると、
西宮にほんのわずかに、涼しい風が吹き始めます。
たくさん集まっていた
全国各地の地名のナンバープレートも見かけなくなる。
まだ暑い、暑いのだけれど、
もうちょっとだけ我慢すればいいんや、
という気持ちにさせてくれるのです。
あの頃、練習が終わって高校の門を出ると、
ひたすら山を降りて行く道はすでに暗く、
眼下に広がる夜景がとても綺麗で、
近所ではカップルが車を停める道としても有名でした。
そこで彼女の手を握りしめていた、
なんていう素敵な青春とは無縁の高校生だった僕は、
でもキラキラ光る景色の見事さには毎度心を躍らせて、
谷村新司さんの「昴」を調子っぱずれに歌いながら
帰途につくのが日課。
しばらく山を降りていくと、その煌めきの中に
ひときわ明るく照明を光らせる甲子園がありました。
近くて遠い、なんていう言葉があるように、
甲子園はまさにそんな場所でした。
プロになってからは
甲子園出場経験者がゴロゴロまわりにいますので、
「懐かしいよなあ」なんていう話になるたび、
おそらく彼らは輝いていたあの暑い夏の日のことを、
一方僕は西宮市の中学生なら出場できる、
中学校連合体育大会、通称「中連体」で組体操をした
あの日のことを思い出していました。
ちなみに「小連体」は雨で中止になりました。
そんなことはどうでもいいのですが、僕も甲子園に出た。
これは紛れもない事実なのです。
高校の野球部の監督は、器械体操部出身の先生で、
野球はそこまでご存知なかったかもしれません。
しかし、鉄棒で大車輪ができました。
それだけでもう尊敬の対象で、
そして、とても熱い方だったのです。
先生たちの負担を少しでも減らすために、
部活動がどんどん減っている今の時代を考えれば、
自分がやったことのない競技の担当教員となり、
土日を全部坊主頭の高校生に捧げていた
監督には感謝しかありません。
そんな野球部ですから、
ただでさえ強豪がひしめき合う兵庫県のトップを目指すには
なかなかハードルが高い。
けれど、目指すのは勝手で自由なのです。
ゲームセットのその瞬間まで、
何が起こるか分かりません。
相手がどんなに強くたって、
自分が諦めた瞬間に勝敗は決まってしまう。
僕たちは一つでも上へ、一つでも先へ、という思いを胸に、
大車輪の得意な監督のもと、
高校球児として日々の練習に明け暮れていました。
そして秋季大会のくじ引きで、
超有名な高校の野球部と当たろうものなら、
アカン負けるやん! という絶望感と同時に、
どことなく自分たちもその一員であるかのような、
俺たちはすごいチームの対戦相手なんやぞ、
という誇らしい気持ちにもなっていたのです。
僕の高校野球を語ろうとすると、
二つの出来事にたどり着きます。
一つは、3年生の先輩が怪我をして、
急遽僕がファーストで出場することになった1年生の夏です。
1回戦、2回戦と勝ち進み、
いやが上にも盛り上がる3回戦のその日、
僕がショートバウンドの牽制球を弾いて、
ファーストランナーはサードへ。
続いて転がってきたファーストゴロを僕がトンネルして、
サードランナーがホームイン。それが決勝点となりました。
野球をご存知ない方のために簡潔に申し上げますと、
僕のせいで負けたのです。
監督も、先輩も、その時、何も言いませんでした。
僕は「やってもーた」という
自己反省の中に閉じこもっていました。
3年生の先輩たちの夏を強制終了させてしまったあの思い出は、
今でも心の中でヒリヒリとした火傷のように残っています。
もう一つは、毎朝のランニングです。
実家のあった西宮北口から、山の上にある高校まで、
片道8キロを欠かすことなく走って通った日々。
僕がプロになってからはそのエピソードが、
あちこちでニュースになりました。
その坂が近年「ハルヒ坂」と命名されたのは、
超有名な「涼宮ハルヒの憂鬱」という作品の原作者である
谷川流さんが僕の高校の一つ下で、
漫画の中には近隣の風景が描写されており、
ファンにとっては聖地となって、
学校近辺にカメラを持った人たちが
よく集まるようになったからでしょう。
引退した3年生の先輩たちの進路が決まった時、
「お前のせいで俺らの人生が変わった」
と冗談半分、本気半分でお叱りを受けました。
あの夏、先輩たちの人生を
変えてしまったかもしれない僕のエラー。
もし4回戦まで行っていたら、もし全国大会に出ていたら。
今年も暑かった甲子園の夏。
先輩たちの人生は、僕が変えてしまったのなら、
どうかいい方向に変わっていてほしい、
ハルヒ坂は、通る時心の中でちょっとだけ、
「‥‥たぐちざか‥‥」と呟くのを許してほしい。
あの夏の記憶が少しだけセンチな感じに思い出されるのもまた、
もの思いにふける秋、の訪れのサインなのかもしれません。
2025年8月24日 田口壮
ああ いつの日か 誰かがこの道を
2025-08-24-SUN

