効果の疑わしい治療法のこと、どう考えたらいいんだろう?

効果の疑わしい治療法のこと、どう考えたらいいんだろう?

医療におけるコミュニケーションエラーを
解消しようとするお医者さんたちの活動
「SNS医療のカタチ」のイベントで、
自身も血液がんの患者である
写真家の幡野広志さんと、
糸井重里の対談がおこなわれました。
依頼のあったトークテーマは、
「効果の疑わしいさまざまな治療法」について。
病気になるとすすめられることの多い
効果のはっきりしないさまざまな治療行為
(健康食品、民間療法、お祈りまで)について、
どう考え、どう向き合っていけばいいのか。
ふたりが自分たちの経験をもとに、
手探りで話していきました。

>幡野広志さんプロフィール

幡野広志(はたの・ひろし)

1983年東京生まれ。写真家。
元狩猟家、血液がん患者。

2004年日本写真芸術専門学校中退。
2010年広告写真家高崎勉氏に師事。
2011年独立、結婚。
2012年狩猟免許取得。2016年息子誕生。
2017年多発性骨髄腫を発病。
著書に
『ぼくたちが選べなかったことを、選びなおすために。』
(ポプラ社)
『写真集』(ほぼ日)
『ぼくが子どものころ、ほしかった親になる。』(PHP)
『なんで僕に聞くんだろう。』
『他人の悩みはひとごと、自分の悩みはおおごと。』
(ともに幻冬舎)
がある。

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>「#SNS医療のカタチ」について

「#SNS医療のカタチ」について

SNSで情報発信を続ける現役医師の方々が
2018年に立ち上げた、
新たな医療のカタチを模索するプロジェクト。
「医療をもっと身近に感じてほしい」
「多くの方に医療を知ってほしい」
「医療者と患者の垣根をなくしたい」
「医療におけるコミュニケーション
エラーを解消したい」
といった思いのもと、幅広く活動をされています。

メインメンバーは、
皮膚科医の大塚篤司先生、
小児科医の堀向健太(ほむほむ)先生、
病理医の市原真(ヤンデル)先生、
外科医の山本健人(けいゆう)先生の4名。

大阪の小さな会議室で行われた
一般向けボランティア講演を皮切りに、
各種メディアなどの支援を受け、
全国各地で講演イベントを開催。
2020年には、YouTubeを利用した
一般向けに医療をやさしく解説するウェブ講座
「SNS医療のカタチ」チャンネルをスタート。

2020年8月にはオンラインイベント
「SNS医療のカタチTV」がスタート。
本コンテンツは、その第2回である
「SNS医療のカタチTV2021」
(2021年8月に開催)でのイベントトークを
編集し、記事にしたものです。

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3 夢を見る権利と、祈っとく権利。

幡野
効果の疑わしい治療法にもいろいろあって、
なかには病院で取り寄せてもらえて、
看護師さんやお医者さんが
注射をしてくれるようなものもあるんです。
糸井
それは、病院で受けられるけれど、
効果があるかはわからない?
幡野
まともな標準治療をやっている
お医者さんたちに聞くと、はっきりと
「効果がない」と言うようなものですね。
看護師さんや薬剤師さんからも
「あれは効かないよ」という話は
よく聞きますし。
ぼくの知り合いでも、やっていたけれど
亡くなった人が多くて、
そういう話を聞くたびに「効果ないな」と思うし、
ぼくもやろうとはまず思わないものですけど。
だけど病院で取り寄せてはもらえるんです。
害はないけれども、効果もないと思われるもの。
ただ、見た目はほんとに医療。
そういうものもあるんですね。
糸井
はぁー。
幡野
効果の疑わしい治療をやっていた方に、
使う理由を聞かせてもらったことがあるんです。
そうすると、ひとつの側面として、
がん治療って治る方はいいんですけど、
治らない方も半数ぐらいいるわけです。
だからやれることを順番に試していって、
最終的にどの治療も効かなくなると、
できることがなくなってしまうんです。
それで「することがありません」となったときに、
患者さん側は絶望を感じるんですよね。
いままで一緒にやっていたお医者さんたちから
「もうできることがありません」と言われ、
治療がないから、ほかの病院に転院するとか、
ホスピスに行く、緩和ケアに行くとかしか
なくなってしまう。
ある意味、切り捨てられる感覚に陥るんです。
そのとき、効果はわからないけれども、
病院で取り寄せてもらえて、
なおかつ看護師さんやお医者さんが
注射をしてくれる。
そこでの安心感って、たぶん相当あると思うんです。
自分もまわりもそれで安心する。
だからぼくは一種の「緩和ケア」だと思っていて。
しかも払えるくらいの金額なんです。
糸井
ああー。
幡野
ぼくは効果の疑わしい治療的なものは
まったくやってないし、やるつもりもないけれども、
もしも自分がやるんだったら
そういうものかもしれないなと思うことはあるんです。
できる治療がなにもなくなったとき、
たとえば妻や子どもがすごく心配して
不安に陥るぐらいだったら。
まぁ、まず効かないけど、注射する素振りというか、
それを見るだけで家族が安心感を得られるなら、
それはそれでいいのかなって、
ちょっと思ったりもするんです。
だから一概に否定もすこし難しいなと思います。
ただ、ぼくがそういうものをやると言ったら、
標準治療のお医者さんたちは
絶対反対すると思いますけど。
糸井
なるほどね‥‥。
幡野
かたや、こういうケースもあるんです。
ある娘さんが、自分のお母さんががんになって、
いろいろな治療をしたあとで
「もうできることがありません」
という状態になってしまったと。
それで困っていろんなことを探していたら、
出会った宗教系の人から
「ご先祖さまと、あなたの日頃の行いが悪いのよ」
と言われたらしいんですね。
そのとき彼女はその人から
「1か月お祈りをして鎮めてあげるから」
と言われて、言われるままに
50万円を支払っちゃったらしいんです。
糸井
まあ、ねぇ‥‥。
幡野
だから、そういった効果の疑わしい治療のなかでも、
かなり松竹梅があるというか。
すべてをひとくくりにするのも
また違うような気がするんですよね。
糸井
ぼく「テレパシーで病気を治します」
という人も知っていますよ。
幡野
(笑)
糸井
いろんなことを思いますけど、
そういう話って、時代が変わっても、
完全に無くなることはないと思うんです。
そこはもう「投げる人」がいて、
「受け止める人」がいれば成立するわけだから。
ぼく自身もこれまで、いろんな話を
すすめられたことがあるし、
自分にとって大切な人がそういうことをやっていて、
「いちおう話を聞く」みたいにして
過ごしてきた経験も、やまほどあります。
それで思うのは、こういうものってきっと、
やっている本人にとっては、
それをしなくなったら生きがいが
なくなっちゃうようなものなんですよね。
つまりこの話って
「私が生きて、夢をみる権利」と、
ほぼイコールなんですよ。
幡野
はい。
糸井
たとえば、
「もし幡野さんが断っても、私のほうで
遠隔治療の先生にお願いしといたから。
明日起きたらきっと
『あ、どうしてこんなに体が楽なんだろう』
って思うはずよ」
みたいに言われたら、
「あ、はい」と言うしかないじゃないですか。
幡野
実際そういうことを言われたことは、
けっこうあります(笑)。
糸井
そこはもう「あ、はい」で済むなら
それでいいじゃない、とも思うんです。
そういうのって絶えることがないものですから。
つまりそれって、夢を見たい人のための
一種のポルノグラフィーというか。
そういうファンタジーなんですよ。
小説とかにある
「振られたけど、きっとあの人は事情があって、
私と付き合えないって言っているだけなんだわ」
みたいな考えと同じで、
科学の話じゃないんですよ。
幡野
でもぼく、これまでそういう
「祈っといたよ」みたいな方と
何人も会ってきて、
ちょっとずるいなとも思うんです。
ぼくの痛みが落ち着いたり
体調がよくなったりするのは、
実際には医療の力と製薬会社の開発のおかげ。
痛みをなくすって、そういうことですから。
糸井
まあ、そうですよね。
幡野
ぼくは昔
「あなたのために祈っといたよ」という方が、
同時に4人発生したことがあって。
糸井
すごい祈り(笑)。
幡野
そのときは、ほんとに最悪ぐらいに
痛みがあったときだったんです。
それでそのあと、放射線治療で
腫瘍を治療したことで、
ぼくの痛みは劇的に無くなったんです。
だから楽になったのは放射線の力で、
放射線技師の方と放射線科医の方の
おかげなんですけど。
だけど「体調良くなったよ」と伝えたら、
4人が4人とも「自分のおかげ」ということを
主張しはじめたんですよ。
ぼくはそれはちょっと嫌だったんです。
糸井
たしかに。
幡野
「いやいや、医者と科学のおかげだよ」と思って。
それはなんだか放射線科の人たちが
侮辱されている感じもして。
みんなぼくを治療するために、
すごいがんばってくれたわけですから。
しかも放射線治療を否定する方も多くて、
それぞれの信仰の手柄にしそうだったんですね。
だからぼくそのとき、ちょっと意地悪ですけど、
「いや、あっちの宗教の人にも
祈ってもらったんだよね」
みたいなことをポロッと言ったんです。
そしたらそこで、それぞれが
別の宗教を否定しはじめて、
一種の宗教戦争みたいなことになったんです。
だからそのとき、なんだかすごく
底の浅さを感じちゃったんですよね。
「結局、自分の手柄にしたいだけなんだな」
と思って。
糸井
そのあたりの話って、ぼくもこれまで
さんざん考えてきたことなんですけど、
そこで「祈っといたよ」と言う自分がいないと、
その人は自分の存在価値が
認められにくいところがあるんですよね。
「お前なんかいなくてもいいんだ」
から逃れるために、
オカルトとかはあるわけで。
幡野
ああ。
糸井
たとえばぼくは青年期って
オカルティックだと思うんですけど、
その時期って、安定した社会みたいなものの中で、
自分は大きなハンディを
背負ってるわけじゃないですか。
そのとき「もっと幸せな世界を作るんだ」とか
「自分がもっと認められるにはこれではいけない」
といった思いがあっても、
目の前に見えているものだけしかなくて、
どうにも現状を変えられそうにない。
そういうときって、いろんな
「見えないものの力」を借りたくなるわけです。
「祈りの力」とか、人によっては「音楽の力」とか。
「UFO」とか、さらには「愛」まで含めて。
なにかオカルトのようなものに頼らないと、
問題を解決できる目処が立たなくて、
心が不安定になってしまうというか。
幡野
はい、はい。
糸井
だから「祈りの話」にしてしまうのは、
そんなふうに現実に向き合ったときに
解決方法が見えない状態での、
よくある反応のひとつなのかもしれなくて。
そういう、みんなが
「自分が認められるにはここが足りないな」
と思っている隙間を埋めるものは、
絶えず要るんです。
だからそういう「夢を見る権利」と
「勝手に祈っとく権利」って、
しょうがないところがあると思うんですよ。
幡野
そうなんですよね‥‥いや、
ぼくも正直、それが正解だと思うんです。
治療や医療って、治らない場合には、
いずれ離れていくものですから。
やれることがなにもなくなったとき、
最終的に行き着くのは宗教だと思います。
「なにかにすがる気持ち」とか「信じる気持ち」とか、
そこにやっぱり行くと思うんですよね。
ぼく自身がいま、そういうものに頼ることなく
「外国製のベッドを買う」などの判断を
できているのは、
これが自分の病気で、
お金の使いみちも自分で決められて、
自分に決裁権があるからだと思うんです。
「自分でなんとかしていこう」と思えるから、
合理的に考えられますけど、
たとえばこれが妻や子どもの病気だったら、
たぶん同じことはできないです。
子どもががんになりました。
子どもが痛みで苦しんでいます。
そのときに
「じゃあ外国製のベッドを買おう」とは、
たぶんならないですよ。
糸井
ならない。
幡野
ですよね。
糸井
もっとなんていうんだろうな、
心の話をしたくなっちゃいますよね、きっと。

(つづきます)

2021-10-17-SUN

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