医療におけるコミュニケーションエラーを
解消しようとするお医者さんたちの活動
「SNS医療のカタチ」のイベントで、
自身も血液がんの患者である
写真家の幡野広志さんと、
糸井重里の対談がおこなわれました。
依頼のあったトークテーマは、
「効果の疑わしいさまざまな治療法」について。
病気になるとすすめられることの多い
効果のはっきりしないさまざまな治療行為
(健康食品、民間療法、お祈りまで)について、
どう考え、どう向き合っていけばいいのか。
ふたりが自分たちの経験をもとに、
手探りで話していきました。
幡野広志(はたの・ひろし)
「#SNS医療のカタチ」について
SNSで情報発信を続ける現役医師の方々が
2018年に立ち上げた、
新たな医療のカタチを模索するプロジェクト。
「医療をもっと身近に感じてほしい」
「多くの方に医療を知ってほしい」
「医療者と患者の垣根をなくしたい」
「医療におけるコミュニケーション
エラーを解消したい」
といった思いのもと、幅広く活動をされています。
メインメンバーは、
皮膚科医の大塚篤司先生、
小児科医の堀向健太(ほむほむ)先生、
病理医の市原真(ヤンデル)先生、
外科医の山本健人(けいゆう)先生の4名。
大阪の小さな会議室で行われた
一般向けボランティア講演を皮切りに、
各種メディアなどの支援を受け、
全国各地で講演イベントを開催。
2020年には、YouTubeを利用した
一般向けに医療をやさしく解説するウェブ講座
「SNS医療のカタチ」チャンネルをスタート。
2020年8月にはオンラインイベント
「SNS医療のカタチTV」がスタート。
本コンテンツは、その第2回である
「SNS医療のカタチTV2021」
(2021年8月に開催)でのイベントトークを
編集し、記事にしたものです。
- 幡野
- 効果の疑わしい治療法にもいろいろあって、
なかには病院で取り寄せてもらえて、
看護師さんやお医者さんが
注射をしてくれるようなものもあるんです。
- 糸井
- それは、病院で受けられるけれど、
効果があるかはわからない?
- 幡野
- まともな標準治療をやっている
お医者さんたちに聞くと、はっきりと
「効果がない」と言うようなものですね。
看護師さんや薬剤師さんからも
「あれは効かないよ」という話は
よく聞きますし。 - ぼくの知り合いでも、やっていたけれど
亡くなった人が多くて、
そういう話を聞くたびに「効果ないな」と思うし、
ぼくもやろうとはまず思わないものですけど。 - だけど病院で取り寄せてはもらえるんです。
害はないけれども、効果もないと思われるもの。
ただ、見た目はほんとに医療。
そういうものもあるんですね。
- 糸井
- はぁー。
- 幡野
- 効果の疑わしい治療をやっていた方に、
使う理由を聞かせてもらったことがあるんです。 - そうすると、ひとつの側面として、
がん治療って治る方はいいんですけど、
治らない方も半数ぐらいいるわけです。
だからやれることを順番に試していって、
最終的にどの治療も効かなくなると、
できることがなくなってしまうんです。 - それで「することがありません」となったときに、
患者さん側は絶望を感じるんですよね。 - いままで一緒にやっていたお医者さんたちから
「もうできることがありません」と言われ、
治療がないから、ほかの病院に転院するとか、
ホスピスに行く、緩和ケアに行くとかしか
なくなってしまう。
ある意味、切り捨てられる感覚に陥るんです。 - そのとき、効果はわからないけれども、
病院で取り寄せてもらえて、
なおかつ看護師さんやお医者さんが
注射をしてくれる。
そこでの安心感って、たぶん相当あると思うんです。
自分もまわりもそれで安心する。 - だからぼくは一種の「緩和ケア」だと思っていて。
しかも払えるくらいの金額なんです。
- 糸井
- ああー。
- 幡野
- ぼくは効果の疑わしい治療的なものは
まったくやってないし、やるつもりもないけれども、
もしも自分がやるんだったら
そういうものかもしれないなと思うことはあるんです。 - できる治療がなにもなくなったとき、
たとえば妻や子どもがすごく心配して
不安に陥るぐらいだったら。
まぁ、まず効かないけど、注射する素振りというか、
それを見るだけで家族が安心感を得られるなら、
それはそれでいいのかなって、
ちょっと思ったりもするんです。
だから一概に否定もすこし難しいなと思います。 - ただ、ぼくがそういうものをやると言ったら、
標準治療のお医者さんたちは
絶対反対すると思いますけど。
- 糸井
- なるほどね‥‥。
- 幡野
- かたや、こういうケースもあるんです。
- ある娘さんが、自分のお母さんががんになって、
いろいろな治療をしたあとで
「もうできることがありません」
という状態になってしまったと。
それで困っていろんなことを探していたら、
出会った宗教系の人から
「ご先祖さまと、あなたの日頃の行いが悪いのよ」
と言われたらしいんですね。 - そのとき彼女はその人から
「1か月お祈りをして鎮めてあげるから」
と言われて、言われるままに
50万円を支払っちゃったらしいんです。
- 糸井
- まあ、ねぇ‥‥。
- 幡野
- だから、そういった効果の疑わしい治療のなかでも、
かなり松竹梅があるというか。
すべてをひとくくりにするのも
また違うような気がするんですよね。
- 糸井
- ぼく「テレパシーで病気を治します」
という人も知っていますよ。
- 幡野
- (笑)
- 糸井
- いろんなことを思いますけど、
そういう話って、時代が変わっても、
完全に無くなることはないと思うんです。
そこはもう「投げる人」がいて、
「受け止める人」がいれば成立するわけだから。 - ぼく自身もこれまで、いろんな話を
すすめられたことがあるし、
自分にとって大切な人がそういうことをやっていて、
「いちおう話を聞く」みたいにして
過ごしてきた経験も、やまほどあります。 - それで思うのは、こういうものってきっと、
やっている本人にとっては、
それをしなくなったら生きがいが
なくなっちゃうようなものなんですよね。 - つまりこの話って
「私が生きて、夢をみる権利」と、
ほぼイコールなんですよ。
- 幡野
- はい。
- 糸井
- たとえば、
「もし幡野さんが断っても、私のほうで
遠隔治療の先生にお願いしといたから。
明日起きたらきっと
『あ、どうしてこんなに体が楽なんだろう』
って思うはずよ」
みたいに言われたら、
「あ、はい」と言うしかないじゃないですか。
- 幡野
- 実際そういうことを言われたことは、
けっこうあります(笑)。
- 糸井
- そこはもう「あ、はい」で済むなら
それでいいじゃない、とも思うんです。
そういうのって絶えることがないものですから。 - つまりそれって、夢を見たい人のための
一種のポルノグラフィーというか。
そういうファンタジーなんですよ。 - 小説とかにある
「振られたけど、きっとあの人は事情があって、
私と付き合えないって言っているだけなんだわ」
みたいな考えと同じで、
科学の話じゃないんですよ。
- 幡野
- でもぼく、これまでそういう
「祈っといたよ」みたいな方と
何人も会ってきて、
ちょっとずるいなとも思うんです。 - ぼくの痛みが落ち着いたり
体調がよくなったりするのは、
実際には医療の力と製薬会社の開発のおかげ。
痛みをなくすって、そういうことですから。
- 糸井
- まあ、そうですよね。
- 幡野
- ぼくは昔
「あなたのために祈っといたよ」という方が、
同時に4人発生したことがあって。
- 糸井
- すごい祈り(笑)。
- 幡野
- そのときは、ほんとに最悪ぐらいに
痛みがあったときだったんです。
それでそのあと、放射線治療で
腫瘍を治療したことで、
ぼくの痛みは劇的に無くなったんです。
だから楽になったのは放射線の力で、
放射線技師の方と放射線科医の方の
おかげなんですけど。 - だけど「体調良くなったよ」と伝えたら、
4人が4人とも「自分のおかげ」ということを
主張しはじめたんですよ。
ぼくはそれはちょっと嫌だったんです。
- 糸井
- たしかに。
- 幡野
- 「いやいや、医者と科学のおかげだよ」と思って。
それはなんだか放射線科の人たちが
侮辱されている感じもして。
みんなぼくを治療するために、
すごいがんばってくれたわけですから。 - しかも放射線治療を否定する方も多くて、
それぞれの信仰の手柄にしそうだったんですね。 - だからぼくそのとき、ちょっと意地悪ですけど、
「いや、あっちの宗教の人にも
祈ってもらったんだよね」
みたいなことをポロッと言ったんです。 - そしたらそこで、それぞれが
別の宗教を否定しはじめて、
一種の宗教戦争みたいなことになったんです。 - だからそのとき、なんだかすごく
底の浅さを感じちゃったんですよね。
「結局、自分の手柄にしたいだけなんだな」
と思って。
- 糸井
- そのあたりの話って、ぼくもこれまで
さんざん考えてきたことなんですけど、
そこで「祈っといたよ」と言う自分がいないと、
その人は自分の存在価値が
認められにくいところがあるんですよね。 - 「お前なんかいなくてもいいんだ」
から逃れるために、
オカルトとかはあるわけで。
- 幡野
- ああ。
- 糸井
- たとえばぼくは青年期って
オカルティックだと思うんですけど、
その時期って、安定した社会みたいなものの中で、
自分は大きなハンディを
背負ってるわけじゃないですか。 - そのとき「もっと幸せな世界を作るんだ」とか
「自分がもっと認められるにはこれではいけない」
といった思いがあっても、
目の前に見えているものだけしかなくて、
どうにも現状を変えられそうにない。 - そういうときって、いろんな
「見えないものの力」を借りたくなるわけです。 - 「祈りの力」とか、人によっては「音楽の力」とか。
「UFO」とか、さらには「愛」まで含めて。
なにかオカルトのようなものに頼らないと、
問題を解決できる目処が立たなくて、
心が不安定になってしまうというか。
- 幡野
- はい、はい。
- 糸井
- だから「祈りの話」にしてしまうのは、
そんなふうに現実に向き合ったときに
解決方法が見えない状態での、
よくある反応のひとつなのかもしれなくて。 - そういう、みんなが
「自分が認められるにはここが足りないな」
と思っている隙間を埋めるものは、
絶えず要るんです。 - だからそういう「夢を見る権利」と
「勝手に祈っとく権利」って、
しょうがないところがあると思うんですよ。
- 幡野
- そうなんですよね‥‥いや、
ぼくも正直、それが正解だと思うんです。 - 治療や医療って、治らない場合には、
いずれ離れていくものですから。 - やれることがなにもなくなったとき、
最終的に行き着くのは宗教だと思います。
「なにかにすがる気持ち」とか「信じる気持ち」とか、
そこにやっぱり行くと思うんですよね。 - ぼく自身がいま、そういうものに頼ることなく
「外国製のベッドを買う」などの判断を
できているのは、
これが自分の病気で、
お金の使いみちも自分で決められて、
自分に決裁権があるからだと思うんです。 - 「自分でなんとかしていこう」と思えるから、
合理的に考えられますけど、
たとえばこれが妻や子どもの病気だったら、
たぶん同じことはできないです。 - 子どもががんになりました。
子どもが痛みで苦しんでいます。
そのときに
「じゃあ外国製のベッドを買おう」とは、
たぶんならないですよ。
- 糸井
- ならない。
- 幡野
- ですよね。
- 糸井
- もっとなんていうんだろうな、
心の話をしたくなっちゃいますよね、きっと。
(つづきます)
2021-10-17-SUN