みんなの記憶に残る夏でした。
2006年、夏の甲子園決勝。
引き分け再試合を制した早稲田実業で、
マウンドに立ち続けた斎藤佑樹さん。
その夏から「ハンカチ王子」と呼ばれ、
つねに注目を浴び続ける人生を歩みました。
思い描いていた成績は残せなかったものの
「今度こそは!」と期待させる魅力があって、
糸井重里も、関心を寄せていたひとり。
「株式会社 斎藤佑樹」を立ち上げ、
自身の可能性を模索中の斎藤さんのもとを
糸井が訪ねて対談をしました。
斎藤さんの人生にはいつも、
野球とハンカチが交わっているんです。

>斎藤佑樹さんのプロフィール

斎藤佑樹(さいとう・ゆうき)

1988年6月6日、群馬県太田市生まれ。
早稲田実業高校のエースとして臨んだ
2006年、夏の甲子園大会では
駒大苫小牧高校との決勝戦で
引き分け再試合を制して全国制覇を成し遂げる。
その大会で投じた948球は、
現在でも最多記録として残っている。
その後、早稲田大学では
東京六大学野球で通算31勝をあげ、
ドラフト1位で北海道日本ハムファイターズに入団。
大きな注目を浴びるもケガや不調に悩まされ、
一軍と二軍を往復する日々が続いた。
2021年に現役を引退し、
株式会社斎藤佑樹の代表取締役として
「野球未来づくり」をビジョンに掲げて
さまざまな活動をしている。

オフィシャルサイト
Instagram

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(10)札幌と鎌ケ谷の100往復

糸井
プロに入ってからは、
期待は相変わらずあるんだけど、
今度こそ活躍してほしいって
みんなが思っていましたよね。
斎藤
はい。
糸井
特に、栗山監督ですよね。
ものすごく斎藤さんを買っていたから、
「できるはずなんですよ」と思ってたわけです。
すると、斎藤さんが鎌ケ谷(二軍本拠地)から来て、
「今度こそ!」の顔して出てくると、
「やっぱりだめだったか」となっていました。
それを、一番わかってるのは自分ですよね。
一軍で結果を残せないときに、
負けちゃったなって落ち込んでいたら、
また呼ぼうとは思えないんですよ。
斎藤さんの場合は、また次に呼びたくなる
空白期間を持っていたんです。
ここにぼくは、めちゃくちゃ感心するんですよ。
斎藤
ああ。

糸井
イメージとしては何度くらい、
「今度こそ」っていうことが?
斎藤
100回くらいあったかもしれないですね。
糸井
すっごくないですか、それ。
斎藤
そうですよね。
当時のぼくからすると、
ダメだったからもう一回挑戦して、
それの繰り返しなわけで、
過去に何回かは、数えてはいないんです。
糸井
そうでしょうね。
斎藤
終わってみてから振り返ってみると、
何回チャンスを貰ったんだろうって。
当時も思ってはいましたけど、
やっているこっちは、もう必死なんです。
ダメだったところはちょっと変えてみようという、
トライ&エラーなわけで。
糸井
前だけ見ているって感じですよね。
すごいなあ。
で、ブーイングは当然あるわけで。
「期待してたんだぞ!」とか、
斎藤さんにも聞こえてましたよね。
斎藤
はい、聞こえます。
糸井
そこも、薄くするわけですね。
斎藤
そうですね。
より明確にぼくが感じはじめたのは、
2年目のシーズンの後半に
肩の怪我をしたあとのことです。
糸井
はい。
斎藤
その次の年はシーズン中にほぼ投げられなくて、
そこまで大きな怪我をしたのが
野球人生で初めてだったんです。
トレーナールームとかトレーニングルームで
地道にトレーニングをしながら、
「なんでこんなことやらなくちゃいけないんだ。
本当はみんなと一緒に野球しなくちゃ」って、
年俸数千万って貰いながら
活躍できない自分に対して歯がゆかったんです。
でも、肩の怪我を治さないと投げられないし、
外での練習もできません。
それって、どれだけあがいても無理なんですよ。
だったら、そのよくわからない感情は一回捨てて、
いまはリハビリに集中する。
外野の声はあまり気にせず、
トレーナーさんの言葉だけを信じて。
そうした瞬間に、すごく気持ちが楽になったんです。
糸井
外野の声を聞いても、
よくなりゃしないですもんね。
斎藤
本当にそうです。
聞いても、自分の感情が悪くなる一方なので。
だったら、その言葉は無視して、
自分の向き合うべき人だけの言葉を
ちゃんと聞こうと思ったんです。
そこから、ある意味の鈍感力が身につきましたね。

糸井
そのときに頼りにできる、
言葉を信じられる人が
いろんな形でいたんですか。
斎藤
ファイターズの中にはたくさんいましたね。
糸井
ああ、いいですね。
斎藤
人って同じ空間に長くいると、
嫌なところも見えてくると思うんですが、
それが本当になかったんですよ。
まあ、ぼくの嫌なところは
見られていたかもしれないですけど(笑)。
でも、チームのみなさんの嫌なところは
ぼくにはまったく見えていなかったので、
「この人たちのために、もう一回マウンドに立ちたい。
活躍したい」って思えたんです。
糸井
怪我をしたときも、ムカついて爆発するだとか、
逸脱するみたいなことじゃなくて、
この次にやりたいことが見えるっていう、
また前を向いているんですよね。
斎藤
ぼく自身だけの力じゃ無理で、
素晴らしいスタッフの方たちがいたからこそ、
このマインドになれたんです。
糸井
「甲子園で優勝しなかったら」っていう話と同じで、
「怪我が治っても再起できなかったら」というのは、
自問自答したんじゃないかと思うんですが。
斎藤
たしかにおっしゃる通りです。
その不安については、
栗山監督のおかげで消せたんです。
糸井
おおーっ!
斎藤
栗山監督はすごくて、
「終わった後のことは、終わってから考えろ」と、
はっきり言えるんですよ。
糸井
なるほど。
斎藤
「いくらでも仕事はある。佑樹だったらなんでもできる。
でも、いまは野球だけを考えて、
この野球選手であるときにどれだけ必死で頑張って、
泥だらけになって、がむしゃらになっている姿を
周りに見せることができるかどうか。
ここで頑張れなかったら、この後も頑張れない。
もうそれだけを意識して頑張りなさい」って。
ずっと言われ続けました。1回だけじゃないです。
何十回、本当に100回くらい言われたかもしれないです。
会うたびにそればかり言われていたからこそ、
ユニフォームを脱ぐまではそれだけ考えて、
がむしゃらにやろうと思えました。
糸井
栗山さんが線を引いてくれたおかげで、
考えなくて済んだってことですね。
斎藤
そうです、そうです。
糸井
数字を見ると、球速は戻ったとか、
コントロールは戻ったとか、
「ああ、戻ってるな」とか「いいな」とか、
ご自分ではわかっているわけですよね。
斎藤
そうですね。
糸井
だから一軍に呼ばれるわけですよね、また。
それなのに、結果が残せなくて、
原因もわかんないところで
また二軍に戻らなきゃならない。
これを何回も繰り返すことって、
それこそ哲学の領域だと思うんですよ。
斎藤
期待してくれている周りの方がいたわけで、
栗山監督が一番歯がゆいのは当然だと思うんです。
で、ぼくも、一軍に上がって打たれて、
「なんでだよ」っていつも思いながら二軍に来て、
本当にその繰り返しだったんですよね。
それでもどうして立ち向かえたのかは、
ちょっとよくわからなくて。
本当にもう、とにかく必死でしたから。
応援してくれるファンの方がいて、
栗山監督の期待もわかっていて、
本当に申し訳ないとは思いつつも、
自分はやっぱり野球選手として成功したいっていう、
その夢に向かって必死だったので。

糸井
そこではもう、悪口とかブーイングじゃなくて、
人々がむやみに褒めたりもしなくなるし、
悪口もだんだん薄くなっていますよね。
で、そのときの方が逆に自分を守るのは厳しい。
斎藤
ああ、そうですね。
糸井
「なにくそ!」っていうんじゃないから。
斎藤
ある一定のところからは、
どんな悪口を言われたとしても、
耳に入ってこなくなるんですよ。
自分が自分に対して思っていることが、
一番の悪口なんです。
それ以上の悪口はないわけですよ。
糸井
斎藤さんみたいに、長きに渡って、
しかも、とんでもないピークを作っちゃって、
ずーっと衆人環視の中で
一軍と二軍の間を100回通う経験をした人は、
ちょっといないんじゃないかと思うんですよね。
斎藤さんの個性の中で
何が一番際だっているかっていったら、
二軍と一軍の往復の道が、千日回峰じゃないけど、
「それやった人、俺以外にいないよ!」って
言えるんじゃないのかな。
斎藤
ああ、言ってもいいですか。
糸井
言っていいと思うんですよね。
その間にも、
斎藤さんは壊れなかったんだから。

(つづきます)

2024-02-04-SUN

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  • 2006年の夏に「ハンカチ王子」と呼ばれ、
    ハンカチフィーバー、ハンカチ世代と、
    大きな注目を集めた、斎藤佑樹さん。
    甲子園の優勝投手であることよりも、
    ひとり歩きしていったハンカチと、
    いま、改めて向き合ったのだそうです。
    斎藤ハンカチ店の店主、
    斎藤佑樹さんプロデュースのハンカチ。
    うっすらと文字が見えてくるハンカチは
    贈りものとしてはもちろん、
    じぶんに向けたメッセージとしてもどうぞ。

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