私立灘高等学校のある生徒さんから、
糸井重里に依頼のメールが届きました。
それは「あのメール、すごかったね」と
社内で話題になったほど、
熱意と真摯さのあふれた文面でした。
彼の依頼をきっかけに、灘高校の
「ひときわ癖ある、議論好きな生徒」さん18名と、
糸井が言葉を交わす場が実現。
全員で、粘り強く答えを探すことそのものをたのしみ、
ほかにない対話をかたちづくりました。

この対談の動画は 「ほぼ日の學校」でご覧いただけます。

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第3回 それは、自分が選べるんだよ。

Iさん
ほぼ日では、
「好き」が企画の中心になっている
イメージがありますが、
「好き」の感情に没入しすぎないように、
みなさんは意識なさっているのでしょうか。

糸井
没入し切ってつくったコンテンツは、
ほとんどないと思います。
かといって、取材対象やテーマに対して、
冷たくなっているわけではありません。
必ずしも「好き」が不可欠ではないけれど、
その代わり「これは欠かしてはいけないな」
と思っているものはあります。
それは「敬意」です。
「その存在があってよかった」、あるいは
「その存在を守る手伝いをしたい」
「応援したい」「学びたい」とか‥‥、
そういう気持ちは全部「敬意」で、
「好き」以上に重要なんだと思う。
それをなくしたら、たぶんだめなんじゃないかな。
僕は、たとえ好きになれない人でも、
「あの人、こういうところはすごいんだよな」とか、
「彼に比べて、自分はこういうことができないから、
彼がいる場所に立たなかったな」と思うことは
ものすごくあります。
だから、「敬意」は「嫌い」を超えて、あります。
‥‥あ、いま、「なんていいこと言ったんだろう」
って、自分で思いました(笑)。
一同
(笑)
Iさん
「敬意」という言葉について、
ひとつ思い出したことがあります。
僕は、学校の先生から言われた言葉のなかで、
とくに大きな影響を受けたのは
「人から応援されるような人になれ」
ということなんです。
人から応援される、もしくは
リスペクトされるような人になろう、
という意識が、長いあいだ頭に残っていて。
でも、「敬意を持たれる人になること」を
ずっと意識しながら動くのは、
少し嫌な気もしているんです。

糸井
それはきっと、くたびれるよね。
Iさん
だからといって、
他人をまったく気にしない人間になりたいわけでも
ないんです。
その塩梅について、お聞きしたいです。
糸井
ここにいるみんなは、たぶん、
ずっと応援されて生きてきた人でしょう。
Iさん
はい。いまの自分の環境があるのは、
間違いなく周囲が応援してくれたからだと
感じています。
糸井
「あなたはすごい、敵わない」と
言われることも多いと思います。
でも、みなさんも知っているとおり、
勉強の世界も、運動の世界も、上には上がいます。
「こんなに勉強ができるのに、なぜかモテない」
という壁もあるかもしれないし。

糸井
自分たちが「すごいね」と言われているジャンルは、
限定的な空間なんだなということを、
すでにみなさんは知っているし、
これからも感じるでしょう。
なので、
「人が自分に活躍を期待しているジャンルだけで、
期待に応え続けようとするのは、どうなんだろう」
という疑問は、ずっと着いてくると思います。
その疑問に対する僕の考えは、
「これは応えたいし、応えよう」と感じる期待と、
「俺はこれは応えない」と断っていい期待がある、
ということです。
たとえば仕事と家庭のどちらを優先するか、
といった選択では、
どちらを選んでも全員が満足することはありません。
「よし、この分野で、応援される人間になろう」
と思って期待に応えるのはすごく気持ちがいいし、
期待している人にとってもうれしいことです。
だけど、「それは俺、やめとくよ」ということも、
自分で決めていいんだと思う。
極端な話をすると、
大勢で戦いの最前線に立ったとき、
囮として斬り込んでいく役って、
誰もやりたくないですよね。
でも、どうしても誰かがやらなければならない場合、
ひとりが「俺がやるよ」と引き受けたおかげで
みんなが助かるかもしれない。
機械が論理的に考えたら絶対に選ばない選択肢を、
人間は信念や良心に従って
選ぶ場合があるということは、
頭の隅にあったほうがいいと思います。
「それは、自分が選べるんだよ」ということは。
そうじゃないと、ほかの選択も、
嘘になっちゃうと思うんです。
「俺はそこは譲らないんだ」というところが、
その人の美意識であり、生き方だから。

糸井
僕は、生き方というものは、
すべてに優先できるような気がします。
さっきの戦いのたとえで言えば、
「俺はここで逃げるぞ」あるいは
「俺は裏切る」という選択も、ひとつの生き方です。
それらも選択肢に入っているのが
人生だと思うんです。
Iさん
さきほど「好き」のテーマが出た際、
ある対象に熱狂することに、
人は物語としてのおもしろさを感じるという
お話がありました。
きっと、熱狂している最中は、
自分が選択しているとは感じていなくて、
あとから振り返ったときに
「自分はこういう生き方を選んでいたんだな」
と気づくことが多いのだと思います。
でも僕は、あえて「そんな選択をするの?」と
思われるほうを選ぶことでつくる物語も、
あると考えていて。
選択をするときに
「自分はいま、あえてこの生き方を選んだぞ」と
気づいていたほうが、
僕はおもしろい人生を送れる気がするんです。
糸井
うん、うん。
Iさん
僕は、自分で
「いやぁ、おもしろかったな、この人生」
と振り返れる人生を送りたいのですが、
周りを見ていると、
「あれ、案外、人生におもしろさを求めている人って
少ないのかな?」と感じて。
糸井
あははは。そうかもしれないね。
Iさん
「みんなほんとうに、とりあえず大学に上がって、
就職ができればいいのかな。
もちろん、それは大事だけど‥‥」
というところで、自分と周りのギャップを
感じてしまいます。

糸井
たぶん、多い価値観と少ない価値観とがあって、
その多い少ないは「正しいか、間違っているか」とは
関係ないんです。
たとえば、ジャズが好きな人と、
K-POPが好きな人の数を比べて、
K-POPが好きな人のほうが多かったとしても、
「K-POPが正しくて、ジャズは間違っている」
とはならないですよね。
だから、
価値観は比べる必要がないと思います。
「この大学に行って、ここに就職すれば、
気が合う人たちといられそうだし、
自分を活かせそうだ」と思ったら、
「大学に行って、就職しよう」と考えるのは
自然なことです。
なので、自分の価値観と違っていても、
まずは「そう思うこともあるよね」と
理解するのが大事なんじゃないかなあ。
つまり‥‥あの、海のなかで、
シャチがめっちゃ強いじゃないですか。頭もいいし。
だけど、「シャチ、すごいな。
こんなに強いなら、陸にいるトラっていうのと、
ちょっと戦ってみないか」
って誘われても、シャチ、
ついて行っちゃだめですよね。
一同
(笑)
糸井
逆に、トラも「シャチのところに行かないか」
と誘われたら、
「いや、俺、行かない」って言っていいんです。
もしかしたら、そのうちシャチとトラが
違う会い方をするかもしれないし。
「他者と比べるとき」と「比べないとき」
というのも、自分で決められるんですよ。
だから、人生の全部の時間が
つながっていると思わずに、
色分けしてもいいんじゃないでしょうか。
ある時期のなかで、
「いい大学に行って、いい会社に勤めて」
という練習をしてみるのもいいと思うんです。
それで、向いてないなと思ったら
違うことを考えてもいいし、
疑いを持ちながら続けてもいい。
僕自身のことを言えば、
ものを書くことは嫌いなんですよ。
なのに、こんなに長いこと書いて生きてきちゃった。
シャチが陸に上がってしまったようなことで。
一同
(笑)

糸井
そういうシャチをやっているんですけど、
これはもう、僕の生き方なので。
画家の横尾忠則さんも、
「絵は嫌いだ」と言いながら、
88歳になっても毎日、
ものすごく大きな絵を描いています。
しかも、絵を売ったら何千万という値段がつくのに、
売る気がないんです。
横尾さんにとっては、
通帳の残高が増えることは意味がない。
「横尾さんはなんで描くのか?」という理由が、
いまの社会のなかでは説明つかないんです。
でも横尾さんは、
ものごとにお金を絡ませることで
成り立っている社会と、
その社会の考え方に馴染んでいる人たちを
否定するわけではなく、
「そういう考えもあるよね」と理解したうえで、
きょうも絵を描いているんですよね。
それはまさに、横尾さんの生き方です。
憶測ですが、もしかしたら、大谷翔平選手も
すでにそうかもしれません。
たぶん、彼はもう、通帳の0を増やすためには
野球をやってないですよ。
みんなが
「うわあ、大谷選手がここで打ったらいいなあ」
と思っている場面で打てたら、
10億円もらうよりもうれしいですよね、きっと。
僕自身が、なにかに秀でていたわけではないのに
なんとかなったのは、簡単に結論付けてしまえば、
運がよかったからです。
でも、運だけのおかげではないです。
きょうお話ししたような、
「好きな食べものはどうして好きなんだろう」
と考えたり、嫌いな人の「ここはすごいな」
というところに気づいてみたりしたことの
積み重ねに意味があったんだと思います。
たとえば、
「僕と誰かがどんな対談をしたら、
人がおもしろがってくれるかな」
ということを考えていくと、
実現するチャンスが出てきます。
さらに、対談相手が僕にとって新しい事実を
教えてくれるかもしれないし、
別の誰かを紹介してくれるかもしれない。
ひとつのきっかけを掴んだときに、
そのまま「連れてって」と、
相手の場所に遊びに行ったり、
相手をこちらに呼んで遊んだりしていくことで、
自分の世界がこう、モクッと増えるんです。
そうやって世界を足していったものが、
「自分」であり、自分の価値観なんじゃないかな。

(明日に続きます)

2025-06-08-SUN

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