
- Iさん
- 僕も、ほぼ日のように、新しいものに対して
自分を柔らかくしておく姿勢が
大事だと思っています。
「自分はこれが好きだから」という思いを基準に
新しいものに対応していくと、
どんどん考えが偏って、
世界が狭くなってしまう気がして。
僕はそれがすごく嫌で、学校や世間から
「こういう基準で判断しなさい」
と渡される基準ではなく、
自分だけの基準を見つけたいです。
- 糸井
- うん、うん。
- Iさん
- でも、その「自分だけの基準」って、
案外見つけづらいのかなと、最近は感じていて。
どこから見つけてくればいいんだろう? と、
考え込むことがあります。
- 糸井
- いまは
「あなたは好きなものを持ってる?」
と聞かれたときに、
「あるといえばあるけど、
ものすごい熱量があるわけではない」
と思ってしまって、手を挙げられない人が
多いのかもしれませんね。
僕もそのひとりです。
- Iさん
- そうなんですか。
- 糸井
- 正直なところ、夢中になって
「何々が好きだ」と言える人は、
うらやましいです。
たとえばの話、
好きな野球チームに
全力で声援を送っている応援団を見ると、
「彼らに比べると、俺、
あんまり野球が好きじゃないのかもな」と思う。
でも、よーく観察したら、
応援団のなかのひとりくらいは、
もう、野球自体を見てないんですよね。
その人はもしかしたら、
観客席の人たちにアピールすることが
目的になってしまっているのかもしれない。
- Iさん
- ということは、なにかに没入するだけでは、
自分のほんとうの基準は
見つけられないんでしょうか。
- 糸井
- 「没入してるふり」をするのが、
人はとても好きです。
「俺はあいつが好きだ」「俺の方が好きだ」って、
より好きな方がいいとされがちです。
それは、登場人物が抱いているエモーションや、
目標に置いている価値が高ければ高いほど、
物語がおもしろくなるからなんです。
どんな物語でも、
「俺、あんまりやる気ないんだけど、
あの敵と戦わなきゃな」という主人公は
あまりいません。
ボルテージの高いものは目立ちますし、
物語のなかでは好かれるんです。
- 糸井
- いまは「いいか、悪いか」などを
判断する材料が多いから、あるものごとに対して、
100%肯定的になれることは少ないと思います。
そうすると「100%夢中になれている人」の
ボルテージの高さに引け目を感じたり、
「夢中になれている人のほうが純粋なのかな」
と思ったりしてしまう。 - でも、「自分はこれが大好きだ」と決めて、
そこから動かない状態は、うーん‥‥、
言葉を選ばずに言うならば、
思考を停止してしまっている気がします。
思考を止めるのもある種の知性だと思うので、
選択肢のひとつとしては間違っていないのですが。
たとえば、結婚相手の両親に挨拶に行ったとして、
「君は本当に娘を幸せにする自信があるのかね」
と聞かれて、考え込んだら負けですよね。
- Iさん
- その場合はきっと、
「はい」と即答することが美しいとされますね。
- 糸井
- そう。ほんとうに幸せにできるかなんて、
即答できることではないじゃない?
だから「即答はできませんが、
一生幸せにするためにいろんな我慢をします」
と答えるのがほんとうの知性かもしれません。
でも、そこで「はい!」と即答するという
「その場における正しさ」を選んで、
思考を停止しておくというのも、選択肢なんですよ。
- 糸井
- そのときそのときのシチュエーションに合わせて、
どうやって自分が、あるいは、
自分の周辺が幸せになるかを考えて
僕たちは選択しているわけだから、
「純粋に知的な行為」って、きっとないんですよね。 - たとえば「好き」という気持について
考えてみましょう。
僕が「好き」について最初に考えたのは、
たぶん、小学生のときでした。
そのころ、僕はあんまり、
チーズをおいしいと思わなかったんですね。
でも、チーズといえば「大人が好んで食べるもの」
というイメージがあったから、
「好きじゃない」と言うと
子どもっぽいと思われそうで、
ずっと「チーズが好きだ」と言い続けていたんです。
ずっと嘘をついている自覚があったから、
心は苦しかった(笑)。 - 大人になってから、
「あれはなんだったんだろう」って考えたんです。
「どうして、ほんとうは自分がチーズを好きじゃない
ことを、いまの俺は知ってるんだろう」と。
そして思いついた答えは、
「ほんとうに好きだったら、
ずっと噛み続けていられるんじゃないか」
ということで。
- 一同
- (笑)
- 糸井
- 反対に「ふきのとうの天ぷらなんて、苦いから嫌」
と思っていたとしても、
ずっと噛んでいられるんだったら、
その人はふきのとうの天ぷら、好きなんですよ。
きっとね。 - つまり「好きだ」と言っていても
ほんとうは好きじゃないという場合も、
その逆の場合もあるんですよ。
それくらい、じつは「好き」は曖昧な概念だから、
エモーションの大きさを大事にしすぎると、
間違えることがあります。
戦争の前の熱狂や、
「叩いていい」とされる人が現れたときの熱狂に、
スッと乗っかってしまうから。
でもほんとうは、僕たちは、
熱狂的なエモーションの渦に対して
「待てよ」と思いながら
生きていくこともできるんです。 - みんなが「好き」に価値を置いている前提で
社会が成り立ってるから、
「自分には『好き』がないなあ。これでいいのかな」
と感じてしまうんだと思います。
だけど、自分が好きなものは、
「案外長く噛み続けてるな」とか、
「なんだか自分、これはやめないな」
みたいなところにあったりするんです。
あるいは、
「俺、死ぬまで好きなものなんにもなかったな」
って言って、ニヤニヤ笑いながら終わるのも、
ひとつの人生だと思うんですよ。
(明日に続きます)
2025-06-07-SAT


