私立灘高等学校のある生徒さんから、
糸井重里に依頼のメールが届きました。
それは「あのメール、すごかったね」と
社内で話題になったほど、
熱意と真摯さのあふれた文面でした。
彼の依頼をきっかけに、灘高校の
「ひときわ癖ある、議論好きな生徒」さん18名と、
糸井が言葉を交わす場が実現。
全員で、粘り強く答えを探すことそのものをたのしみ、
ほかにない対話をかたちづくりました。

この対談の動画は 「ほぼ日の學校」でご覧いただけます。

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第2回 ずっと噛んでいられるか。

Iさん
僕も、ほぼ日のように、新しいものに対して
自分を柔らかくしておく姿勢が
大事だと思っています。
「自分はこれが好きだから」という思いを基準に
新しいものに対応していくと、
どんどん考えが偏って、
世界が狭くなってしまう気がして。
僕はそれがすごく嫌で、学校や世間から
「こういう基準で判断しなさい」
と渡される基準ではなく、
自分だけの基準を見つけたいです。
糸井
うん、うん。
Iさん
でも、その「自分だけの基準」って、
案外見つけづらいのかなと、最近は感じていて。
どこから見つけてくればいいんだろう? と、
考え込むことがあります。

糸井
いまは
「あなたは好きなものを持ってる?」
と聞かれたときに、
「あるといえばあるけど、
ものすごい熱量があるわけではない」
と思ってしまって、手を挙げられない人が
多いのかもしれませんね。
僕もそのひとりです。
Iさん
そうなんですか。
糸井
正直なところ、夢中になって
「何々が好きだ」と言える人は、
うらやましいです。
たとえばの話、
好きな野球チームに
全力で声援を送っている応援団を見ると、
「彼らに比べると、俺、
あんまり野球が好きじゃないのかもな」と思う。
でも、よーく観察したら、
応援団のなかのひとりくらいは、
もう、野球自体を見てないんですよね。
その人はもしかしたら、
観客席の人たちにアピールすることが
目的になってしまっているのかもしれない。
Iさん
ということは、なにかに没入するだけでは、
自分のほんとうの基準は
見つけられないんでしょうか。
糸井
「没入してるふり」をするのが、
人はとても好きです。
「俺はあいつが好きだ」「俺の方が好きだ」って、
より好きな方がいいとされがちです。
それは、登場人物が抱いているエモーションや、
目標に置いている価値が高ければ高いほど、
物語がおもしろくなるからなんです。
どんな物語でも、
「俺、あんまりやる気ないんだけど、
あの敵と戦わなきゃな」という主人公は
あまりいません。
ボルテージの高いものは目立ちますし、
物語のなかでは好かれるんです。

糸井
いまは「いいか、悪いか」などを
判断する材料が多いから、あるものごとに対して、
100%肯定的になれることは少ないと思います。
そうすると「100%夢中になれている人」の
ボルテージの高さに引け目を感じたり、
「夢中になれている人のほうが純粋なのかな」
と思ったりしてしまう。
でも、「自分はこれが大好きだ」と決めて、
そこから動かない状態は、うーん‥‥、
言葉を選ばずに言うならば、
思考を停止してしまっている気がします。
思考を止めるのもある種の知性だと思うので、
選択肢のひとつとしては間違っていないのですが。
たとえば、結婚相手の両親に挨拶に行ったとして、
「君は本当に娘を幸せにする自信があるのかね」
と聞かれて、考え込んだら負けですよね。
Iさん
その場合はきっと、
「はい」と即答することが美しいとされますね。
糸井
そう。ほんとうに幸せにできるかなんて、
即答できることではないじゃない? 
だから「即答はできませんが、
一生幸せにするためにいろんな我慢をします」
と答えるのがほんとうの知性かもしれません。
でも、そこで「はい!」と即答するという
「その場における正しさ」を選んで、
思考を停止しておくというのも、選択肢なんですよ。

糸井
そのときそのときのシチュエーションに合わせて、
どうやって自分が、あるいは、
自分の周辺が幸せになるかを考えて
僕たちは選択しているわけだから、
「純粋に知的な行為」って、きっとないんですよね。
たとえば「好き」という気持について
考えてみましょう。
僕が「好き」について最初に考えたのは、
たぶん、小学生のときでした。
そのころ、僕はあんまり、
チーズをおいしいと思わなかったんですね。
でも、チーズといえば「大人が好んで食べるもの」
というイメージがあったから、
「好きじゃない」と言うと
子どもっぽいと思われそうで、
ずっと「チーズが好きだ」と言い続けていたんです。
ずっと嘘をついている自覚があったから、
心は苦しかった(笑)。
大人になってから、
「あれはなんだったんだろう」って考えたんです。
「どうして、ほんとうは自分がチーズを好きじゃない
ことを、いまの俺は知ってるんだろう」と。
そして思いついた答えは、
「ほんとうに好きだったら、
ずっと噛み続けていられるんじゃないか」
ということで。
一同
(笑)
糸井
反対に「ふきのとうの天ぷらなんて、苦いから嫌」
と思っていたとしても、
ずっと噛んでいられるんだったら、
その人はふきのとうの天ぷら、好きなんですよ。
きっとね。
つまり「好きだ」と言っていても
ほんとうは好きじゃないという場合も、
その逆の場合もあるんですよ。
それくらい、じつは「好き」は曖昧な概念だから、
エモーションの大きさを大事にしすぎると、
間違えることがあります。
戦争の前の熱狂や、
「叩いていい」とされる人が現れたときの熱狂に、
スッと乗っかってしまうから。
でもほんとうは、僕たちは、
熱狂的なエモーションの渦に対して
「待てよ」と思いながら
生きていくこともできるんです。
みんなが「好き」に価値を置いている前提で
社会が成り立ってるから、
「自分には『好き』がないなあ。これでいいのかな」
と感じてしまうんだと思います。
だけど、自分が好きなものは、
「案外長く噛み続けてるな」とか、
「なんだか自分、これはやめないな」
みたいなところにあったりするんです。
あるいは、
「俺、死ぬまで好きなものなんにもなかったな」
って言って、ニヤニヤ笑いながら終わるのも、
ひとつの人生だと思うんですよ。

(明日に続きます)

2025-06-07-SAT

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