元気な男の子ふたりを育てる
シングルマザーのなおぽんさん。
ふだんは都内ではたらく会社員ですが、
はじめてnoteに書いた文章が話題になり、
SNSでもじわじわとファンを増やしています。
このたび月1回ほどのペースで、
子どものことや日々の生活のことなど、
なおぽんさんがいま書きたいことを、
ちいさな読みものにして
ほぼ日に届けてくれることになりました。
東京で暮らす親子3人の物語。
どうぞ、あたたかく見守ってください。

>石野奈央(なおぽん)さんのプロフィール

石野奈央(いしの・なお)

1980年東京生まれ。
都内ではたらく会社員。
かっこつけでやさしい長男(12歳)と、
自由で食いしん坊な次男(8歳)と暮らす。
はじめてnoteに投稿した記事が人気となり、
SNSを中心に執筆活動をはじめる。
好きなものは、お酒とフォートナイト。
元アスリートという肩書を持つ。

note:なおぽん(https://note.com/nao_p_on
Twitter:@nao_p_on(https://twitter.com/nao_p_on

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借りぐらしのナオポンチ

「この家?」
「わーボロ!」
「ボロー!」
「お化け屋敷みたい!」

これから住むあたらしいわが家を見た兄弟が叫ぶ。
まるで『となりのトトロ』の冒頭シーンだ。

裏の神社では、夏の名残りを惜しむように、
セミが鳴いていた。
縦格子の引き戸を開けると、
古い家らしい広い取次が、どんと構えている。
息子たちは「うわー!」と歓声をあげ、
靴を蹴飛ばすように脱ぎ捨て、
バタバタと二階へ駆け上がっていった。

わたしは湿気のこもった空気に眉をひそめながら、
雨戸を開け放った。
光が流れ込み、空気が動いた。
不安と嬉しさがないまぜになった、
引っ越し初日の匂いがした。

夏の終わり、わが家は引っ越しを決めた。

以前の住まいは、2DKアパート。
洋室と和室が5帖ずつ。
家賃は5万円台。
都内にしては破格だった。

もちろん、安さには理由がある。

三階までエレベーターはなく、
狭い折り返し階段を毎日上らねばならない。
大きな家具家電は間口に入らず、
欲しくても買えなかった。
わが家には小さな冷蔵庫が2つ並んでいた。
洗濯機は外置きで、黄砂でいつも汚れていた。
キッチンにくっついた風呂は
洗面台と一体のユニットで、脱衣所はない。
駅からはかなり遠く、
土地勘がなければ暮らすのは難しい。

けれど、それらは大きな問題ではなかった。
隣に住む大家さんが、
いつも家族のように見守ってくれた。
わたしたちは十分幸せに暮らしていた。

しかし入居から5年が過ぎ、
次の更新時には長男は中学生、次男は小学4年生になる。
狭さだけなら耐えられたが、
男子ふたり、しきりにコソコソとあやしい行動を見せ始め、
それぞれに居場所を与える必要を感じていた。

自分の居場所を欲していたのは子どもだけではない。
風呂から上がり、キッチンから服を取って
着替えようとすると、背中にじっと視線を感じる。
かつて甘えん坊だった男児の顔が、
いまや思春期に片足を突っこんだ男子の顔。
母としても落ち着かない。
「そろそろ限界かな」と思い始めていた。

目標はシンプル。
ひとり1部屋。脱衣所つきの独立風呂。
追い焚き機能があればなお良し。
できれば今より駅に近いこと。
予算は倍の10万円まで。
大それた希望ではないと思っていたのに、
いざ探すとなかなか見つからない。
願いを叶えるには、予算プラス数万円が必要。
やはり前の家は、奇跡の安さだった。

そんなある日、目に飛び込んできた新着物件。
今の家から500メートルほど先。
大通りを越えて駅に近づく場所に、
3部屋とダイニングキッチン、独立した風呂と脱衣所、
広いベランダ、室内洗濯機置き場まである。

しかも「戸建て」だった。

天井は高く、昔ながらの木造。
築年数はわたしとほぼ同い年。
あちこちガタがきているが、
外観は小綺麗にリフォームされていた。

それなのに家賃は予算を下回る格安。
怪しい。どう考えても訳ありだ。
それでも不安より胸の高鳴りが勝った。

引っ越しは勢いである。

この5年で間違いなく最大の出費だったが、
わたしはあっという間に契約を済ませた。

ただひとつ、大家さんへの報告だけが胸に引っかかった。
デパ地下で少し気の利いた菓子折りを選び、
「本当にお世話になりました」と頭を下げると、
大家さんは一瞬驚いた顔をしてから
「ちょっと待って」と足を止めた。
冷蔵庫から熟れた桃を3つ取り出し、手渡してくれた。
「ありがとう」と笑う大家さんの顔が、
アパートでの最後の思い出となった。

引っ越し当日。
息子たちが駆け上がっていった二階からは
「キャー!」「わー!」と弾む声と、
大型動物が駆け回るような足音が響く。
「梅干しの匂いがする!」と次男が叫んだのは、
新しい畳の香りだった。

追いかけて上がり、二階の雨戸も開けると、
そこにはプラスチック製の広いベランダがあった。
子どもたちはドタドタと足を踏み鳴らす。
ふと足の裏を見ると、真っ黒になっていた。

兄が「ススワタリだ!」と目を輝かせ、
弟は「まっくろくろすけだー!」と叫ぶ。
完全にトトロの世界の再現だった。
家族3人、気持ちがひとつになった。
「なんてステキなボロ家なんだ」。

段ボールを運び終え、ひと息ついたところで、
裏の神社に三人で挨拶に行った。
手を大きく打ち鳴らし、
「これからどうぞよろしくお願いします」と深く一礼した。

荷物は想像以上に多かったが、
新居の押し入れに収まると部屋はがらんとしていた。
そこでようやく気づいた。

家具が足りない。

テーブルも椅子もソファもない。
フローリングにレジャーシートを敷き、夕食をとった。

ひとつ増えた部屋の照明だけは用意していた。
常夜灯にすると、天井にやわらかく灯りがにじむ照明で、
ひと目で気に入った代物だった。
夜、3人でその灯りを眺めているうちに、
いつの間にか眠っていた。

新しい暮らしは始まった。

朝は窓をすべて開けて湿気を逃がし、
床を拭き掃除しながら洗濯機を回す。
終わるころに子どもたちを起こし、
食卓を見守りながら洗濯物を二階のベランダに運ぶ。
布団を片づけ、着替え、自分の準備を整える。
毎朝のルーティンは、旧居の倍にも膨らんだ気がする。

一番足りないのは家具ではなく人手だと悟った。

「あーもう人手がほしい」と思わず声にすると、
「母さん、ヒトデがほしいの?」
「ヒトデ! パトリックスター!」と
子どもたちが合唱する。
戦力にはならない男子ばかり。
けれど、イライラより笑いがこみ上げる。
家が大きくなったせいなのか、
気持ちの器も少し大きくなった気がする。

金魚は鉢の大きさに合わせて育つという。
息子たちは、この家でどれほど大きく育つのだろう。

ボロでもいい。訳ありでもいい。
この「器」がわたしたち家族を包みこみ、
成長を支えてくれるなら、それだけで十分だ。

玄関に表札をつけ忘れていた。
養生テープをペタリと貼り、マジックで苗字を書いた。
角が少しめくれて、風に揺れていた。

イラスト:まりげ

2025-09-26-FRI

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