
元気な男の子ふたりを育てる
シングルマザーのなおぽんさん。
ふだんは都内ではたらく会社員ですが、
はじめてnoteに書いた文章が話題になり、
SNSでもじわじわとファンを増やしています。
このたび月1回ほどのペースで、
子どものことや日々の生活のことなど、
なおぽんさんがいま書きたいことを、
ちいさな読みものにして
ほぼ日に届けてくれることになりました。
東京で暮らす親子3人の物語。
どうぞ、あたたかく見守ってください。
石野奈央(いしの・なお)
1980年東京生まれ。
都内ではたらく会社員。
かっこつけでやさしい長男(12歳)と、
自由で食いしん坊な次男(8歳)と暮らす。
はじめてnoteに投稿した記事が人気となり、
SNSを中心に執筆活動をはじめる。
好きなものは、お酒とフォートナイト。
元アスリートという肩書を持つ。
note:なおぽん(https://note.com/nao_p_on)
Twitter:@nao_p_on(https://twitter.com/nao_p_on)
「あーもう、ケーキがなくなっちゃう」。
兄のバースデーケーキに包丁を入れた瞬間、
弟がぼやいた。
まだ一口も食べていないのに。
7月の終わり、長男が12歳の誕生日を迎えた。
大きなイチゴのショートケーキを6等分に切り分ける。
主役の長男、脇役の次男、わたしと祖父母。
余ったひとつは当然のように、
次男が「予約」と称して指でペロリ。
兄の名前入りチョコプレートも横取りし、
台紙についた生クリームまできれいに舐めとった。
「次は、ぼくの誕生日かー」。
半年以上先のケーキに思いを馳せ、天井を見上げる。
こうして、今年も夏休みが始まった。
長男は、春から通い始めた塾の夏期講習に毎日通っている。
朝から夕方までスケジュールはびっしり。
模試の結果も上々で、
もともと良かった頭にさらに磨きがかかってきた。
一方の次男は、夏の宿題一式を学校に置き忘れ、
早々に担任から連絡が入った。
課題と一緒に、学校で育てていたホウセンカの鉢まで
取りに行く羽目になったが、本人はどこ吹く風だ。
毎日、何十枚もの画用紙に電車の展開図を描き、
オリジナルのペーパークラフトを量産している。
「自由研究、それでいいんじゃない?」と水を向けると、
「それは別」と即答。あくまで趣味らしい。
午前中は虫とり、
午後は冷房の効いた部屋でペーパークラフト。
できることなら、その体力と集中力を、
ほんの少しだけ勉強に回してほしい。
自由を謳歌する弟を横目に、
塾から戻った兄は
祖父母の家の前で黙々とバットを振っていた。
仕事から帰るたび、息子たちは少しずつ黒くなっていく。
全身で夏を吸いこんでいるようだった。
今の職場にはお盆休みがない。
まとまった休みが取れないから、
夏休みの旅行や遠出は難しい。
せっかくの長期休みなのに、
子どもたちは少しさびしく感じているかもしれない。
そのぶん短くても一緒に過ごす時間を濃いひとときに、
そう心がけている。
今年の野球練習、兄は6年生でラストイヤー。
これまで弟につきっきりだったが、
今年はできるだけ兄の練習につき添った。
チームは念願の都大会進出を果たした。
初戦の会場は大田スタジアム。
その日は弟も午後の練習を休み、兄の応援に駆けつけた。
浜松町駅、東京モノレールを待つホームで、
次男が目を輝かせる。
「母さん、なんと最古参の1000形がきた!」。
流通センター駅で降り、会場へ向かう道すがらも、
頭上の高架路線を走るモノレールから目を離さない。
「10000形開業時塗装車きたー! はやくカメラ!」、
「2000形もきたよ、動画撮って!」。
騒がしい次男がやっと黙ったのは、
スタジアムへの橋を渡ったときだった。
羽田空港に着陸間近の飛行機が、
頭上を低くかすめていった。
あまりの迫力にあっけにとられ、見上げる次男。
その耳に、木々の間からセミの声が降り注ぐ。
スタジアムの応援席に着くころ、
次男の手の中にはミンミンゼミがいた。
1週間後は野球チームの夏合宿。
今年はわたしも一眼レフだけでなく
運動着を持って参加した。
深夜まで荷造りし、ほぼ徹夜で出発。
日中は炎天下の練習、夜は保護者たちの大宴会。
午前3時まで飲み語らい、6時には起床。
そのまま親子リレーに参加し、
大人げない本気のダッシュを見せつけた。
兄弟は誇らしげに腕を組んでいた。
翌週は地区の団体キャンプへ。
説明会は親子で参加したが、本番は子どもだけで参加。
不安げだった表情も、出発の朝には笑顔に変わった。
2泊分の荷物を詰めたリュックは体をすっぽり覆い、
背中は少しだけ頼もしく見えた。
夏の終わりが見えてきたころ、町内の盆踊り大会へ。
「チョコバナナ、あんず飴も。
焼きそばと‥‥あと、たこ焼き!」。
次男は屋台を次々に制覇し、
口のまわりをチョコと青のりで
真っ黒にしながら笑っていた。
お腹が満たされると、盆踊りの輪に飛び入り参加。
見たことのない謎ダンスを楽しげに繰り出す。
その隣で、長男は射的に狙いを定め、
ハンターのような目をしていた。
撃ち落としたのは、小さな塩ビのキティちゃん人形。
ふだんなら絶対に興味のない戦利品を手に、
満足げに微笑んだ。
小さな神社の境内に、やぐらが立ち、
屋台の灯りがまばゆく並ぶ。
太鼓の音に混じって、
セミが最後の力をふり絞るように鳴く。
赤く照らされた人々の顔、
かき氷の行列、笑い声、浴衣のすそ。
ふと、時間が止まったような気がした。
「ずっとこの時間が続けばいいのに」。
心の中でそう願った。
しあわせで、平和で、笑顔に満ちた時間が、
永遠に続けばいいのに、と。
けれど、季節は進む。
わが家もまた、次のステージへ向かっている。
長男は来年、中学生。次男はまだ小学生。
三学年違いのふたりの歩幅は、
これから少しずつずれていく。
進学先が違えば、行事も、塾の時間も、
夏休みの予定も変わる。
自由研究を並んでやることも、合宿で一緒に騒ぐことも、
来年にはもうないかもしれない。
「あーもう、夏が終わっちゃう」。
わたしが次男の真似をしてつぶやくと、
「何言ってんの、明日も暑いんだよ」と、
兄弟ふたりが声をそろえてツッコむ。
たしかに明日も暑い。
きっとまた笑い合える日々は続くだろう。
けれど今年の夏は、ひとつの区切りだった。
夏の夜、彼らが捕まえたセミの幼虫が、
ベランダの網の中で羽化を果たした。
薄緑の羽を広げ、
朝になるころには空へと飛び立っていった。
残されたひとつの抜け殻は、空っぽなのに、
しっかりと網に足をくい込ませ、
落ちることなく残っている。
まるで「ここにいた」という証のように。
季節は過ぎても、
彼らとの夏の日々はちゃんとわたしの中に残っている。
風のように駆け抜けた時間も、笑い声も、焼けた肌も、
頬に残るチョコバナナの匂いも。
どれもが、抜け殻のように。
静かに、しかし確かに、心にくい込んでいる。
家は今、ダンボール箱に埋もれている。
抜け殻のようなこの部屋で、
最後の荷物をまとめたら、来月は引っ越しだ。
イラスト:まりげ
2025-08-25-MON