
100歳まで元気に生きられるなら、
100歳まで働いていたいと思っていました。
わたしの周りの働いている先輩たちが、
かっこよかったからです。
でも益田由美さんに出会って、
その考えは揺らいでいます。
定年後の充実した日々も、
自分次第でたぐりよせられるようです。
日々たのしそうな益田さんにお話を伺いました。
担当は、ほぼ日の下尾(しもー)です。
益田由美(ますだ ゆみ)
1955年2月11日生まれ。1981年から15年も続いた国民的人気番組「なるほど!ザ・ワールド」のリポーターとして6年半、世界を飛び回り、その体を張ったリポートで人気を博した。民放の女性アナウンサーとして定年まで勤め上げるのは非常に珍しく、フジテレビでは女性アナウンサーの定年退職者第一号。約40年にわたって現場にこだわり続けた。現在、経験と知識を活かして様々な分野で活躍中。
HP:https://www.firstagent.jp/masuda-yumi/
Instagram:https://www.instagram.com/yumi__masuda/
- ──
- それにしても、ずいぶんと
過酷なロケをされていたように思いますが、
意外と身体は大丈夫だったんですか?
- 益田
- ずっと「医者いらずの由美」と言われていましたが、
番組が始まって2年半くらいたって
ハイチから帰ってきた翌朝、
ベッドから起き上がれなかったんですよ。
過酷なロケで腰をかなり痛めていたんです。
- 益田
- その1週間後には中国の奥地で道なき道を
全部、馬で移動するロケの予定でしたが、
3ヶ月のドクターストップがかかりました。
しばらくは腰の治療をしながら国内でロケをして、
3ヶ月後に、また海外に行くことに。
その後も、腰に悪いロケばかり。
動物園に送るキリンの生け捕りの撮影も大変でした。
- ──
- なんとっ!
- 益田
- タンザニアのサバンナの道なき道を
トラックの荷台に
投げ縄を持ったキリンハンターと一緒に乗って、
キリンと同じ速度で走るんです。
荷台にふたつ、
タイヤのチューブがくくりつけてあって、
投げ縄ハンターと私が、それぞれそこに入りました。
チューブのおかげで
サバンナには放り出されないけれど、
もんのすっごい衝撃!!
- ──
- くー。しんどいですね。
- 益田
- 他には、タヒチの漁師さんの伝統漁法の撮影です。
漁師さんと私しか乗れないような小さな漁船に乗って、
太平洋を今度は
マヒマヒと同じ速さで追いかけていくんです。
信じられない速さで、
海上をターンターンターンとすべっていく感じ。
それが腰にガンガンきて。
海に放り出されないように、
ただただ船にしがみついていました。
ずっと追いかけていくと、
マヒマヒが疲れて海面にあがってくるので、
それを棒で叩くという古くからの漁法です。
- ──
- 益田さんが疲れ果てちゃいますね。
- 益田
- そう、だからこのままだと
取り返しがつかないことになるなと思って、
自分でゴールを決めることにしました。
意を決して半年後に卒業したいと、
アナウンス部の部長に伝えたら大賛成でした。 - 実は最初に腰を痛めたときから、
心配していたそうなんです。
でも私が一生懸命だから
見守ってくれていたみたいで。
それで1988年の3月に
『なるほど!ザ・ワールド』を卒業して、
4月から6カ月間、
腰の治療のために休職しました。
- ──
- そんなに働き続ける生活をしていたら、
急に休んで立ち止まることが
怖くはなかったですか。
- 益田
- 最初に腰を痛めたとき
「私がいなくちゃ」番組が
成り立たないのではないかと思っていたんです。
でも実際には、私がいなくても
何事もなかったかのように
番組は進んでいくという事実と、
思いあがっていた自分にも気づくことができました。
だから、卒業も決断できました。
休むことは怖くなかったです。
体調をよくすることを第一に考えました。
- ──
- 半年後に復帰してからは、どんな働き方を?
- 益田
- とある番組のリポーターを担当しました。
ただ、そのうちお声がかからなくなっちゃって。 - 『なるほど!ザ・ワールド』をやっているときは、
ゴールの見えないマラソンを
全速力で脇目も振らずに走り続ける感覚だったのですが、
自分でゴールを決めて卒業してからは
歩くペースになったんですね。
そうするといつでも立ち止まれるし、
脇道にも入っていけるようになる。
それまでは外国にばかり目が行っていましたが、
日本の自然のすばらしさに気づきました。 - 待っていても仕事は来ないので、
自分がやりたいことを
信頼する大好きなスタッフとやれるような、
そういう番組を作りたいと企画書を書き始めました。
- ──
- ご自分で企画書を出すアナウンサーは、
当時いなかったんじゃないですか?
- 益田
- いなかったですね。単発はあっても、
レギュラー番組の企画を出した人はいませんでした。
日本は、こんなに自然が豊かで、
すばらしい国だということを伝えたくて、
アウトドアの企画を提出しました。 - 1992年の終わりぐらいから、
編成部に何度も何度も企画を出しては
アドバイスをもらって、10回以上書き直して、
枠があかないと言われながらも、提出しつづけたんです。 - そうこうしてるうちに94年になり、
4月から『ニュースJAPAN』が始まることに。
ニュースだから報道局の担当です。
そこで報道にも企画書を出してみようと思いました。 - ちょうどそのころ多摩川を歩いていたら、
小魚がピョンピョンと、さかのぼっていたんです。
魚に詳しい人が
「これアユの稚魚、稚アユだ」と教えてくれて、
それがすごくショックだったんです。
- ──
- どうしてですか?
- 益田
- 私は小さいころに多摩川の近くに住んでいて、
よく行っていましたが、
高度経済成長の時代の多摩川には
生活排水が流れ込んで、臭いもすごいし、
広い河川敷で遊ぶことはあっても、
川には近づかないようにしていました。
その多摩川に、その頃から30年くらいたって、
環境に左右されるアユが戻ってきているという事実に
衝撃を覚えたんです。 - しかも多摩川って、私はよく上を通っていたんです。
電車であったり車であったり、
きっと何百回、何千回行き来していたかもしれないのに、
身近な多摩川の変化に気がついていませんでした。
これはおもしろいなあと思って。 - まず身近な川から見ていって、全国の川へ。
そこに住む川と密接に結びついている人の取材をして、
その自然や川の素晴らしさを伝える番組をつくりたいと、
今度はニュース番組に企画を出してみたら、
トントン拍子に「やってみよう」と、通りました。 - そして1994年の4月から
『益田由美のリバーウォッチング』というタイトルで、
日本全国の川をめぐって、
毎週10分のコーナーを作っていたら、
「10月から土曜日の朝30分空いたんだけど、
ずっと言ってたアウトドア番組できるよ。」
と編成からも声をかけてもらったんです。 - 本当は『リバーウォッチング』だけでも大変でしたが、
ここでやらないと一生できないと思って、
「できます」と即返事をして、
『晴れたらイイねッ!』が始まりました。
私、最初の1年は100本のロケに全部行ったんですよ。
- ──
- 100本!? あれ? いつの間にかまた
過酷なスケジュールになっていますね(笑)。
- 益田
- そう(笑)。
1週間は7日しかないのに、
日本全国で2本のロケをして、
さらに『リバーウォッチング』は
ナレーションも別日に録っていました。
- ──
- よく回せましたね。
- 益田
- 始めたのは39歳だったんですが、
パワーがありましたよね。
自分の企画だし、
自分が信頼しているスタッフと、
自分がやりたい番組ができるしあわせ。
『リバーウォッチング』は6年、
『晴れたらイイねッ!』は12年半続きました。
- ──
- そんなに長く!?
益田さんはプロデューサー兼、出演者として、
どのように振る舞われていたんですか?
- 益田
- 私は座って何かを教えるのが、とても苦手なんです。
でも現場に行くと、立ち位置について、
カメラに映らないところで
後輩をスッと引っ張ってあげたり、
前に押し出してあげたりして教えられるんですよ。 - あとはロケに行くって、
そのとき限りの出会いかもしれないけれど、
絶対に仕事の名前で相手を呼ばないように、
例えばカメラさん、ドライバーさんというような
呼び方はしないようにと伝えていましたね。 - 最初に顔合わせをしたときに、
名前をみなさんに言っていただいてから
始めるようにしていました。
小さいことなんだけれども、現場だからこそ、
教えてあげられることがあったかなと。 - 部屋での研修だと、どうしても技術の話になるけれど、
それよりももっと、人として大切なことを
現場で、先輩として伝えられたらなと思っていました。
(つづきます)
2025-08-13-WED
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ヘアメイク:真知子(エムドルフィン)
写真=武井義明(ほぼ日)