長谷川等伯という画人が描いた
東京国立博物館(=東博)所蔵の
国宝「松林図屏風」は、
聞けば聞くほど謎めく絵だった。
お正月には、この絵を見ようと、
たくさんの人がやってくる。
でも、誰が何のために描かせたか、
どこの誰の手にあったものかさえ、
わかっていない‥‥。
これは「下絵」だという説もある。
そこで、東博の松嶋雅人先生に、
等伯の人物像をも交えながら、
いろいろと、
おもしろいお話をうかがいました。
担当は、ほぼ日奥野です。
松嶋雅人(まつしままさと)
国立文化財機構文化財活用センター企画担当課長、東京国立博物館学芸研究部調査研究課絵画彫刻室研究員併任。専門は、日本絵画史。所属学会は美術史学会。
1966年6月、大阪市生まれ。1990年3月、金沢美術工芸大学卒業。1992年3月、金沢美術工芸大学修士課程修了。1997年3月、東京藝術大学大学院博士後期課程単位取得満期退学。東京藝術大学、武蔵野美術大学、法政大学非常勤講師後、1998年12月より東京国立博物館研究員。
主な著書に『日本の美術』No.489 久隅守景(至文堂 2007)、『あやしい美人画』(東京美術 2017)、『細田守 ミライをひらく創作のひみつ』(美術出版社 2018)など多数。
- ──
- それまでの所在が不明で、
それゆえに無名だった「松林図屏風」が、
急激に見い出され、
のみならず国宝にさえ選ばれてしまった。 - ロマンがあるというか、ふしぎというか。
- 松嶋
- 70年代に、当時の国鉄がPRしていた
ディスカバー・ジャパンという
旅行のキャンペーンがあったんですけど。
- ──
- ええ。
- 松嶋
- あのとき、この絵に描かれている風景が
自分の故郷の松林に見えた人、
たくさんいたんじゃないかなと思います。 - まだ海外旅行なんか高嶺の花だった当時、
日本を再発見しようと
各地の観光地をアピールしはじめたとき、
この絵を、
自分の心の風景みたいに感じて、
どんどん共感していったんじゃないかな。
- ──
- そういう社会や文化の動きも影響されて、
じょじょに、人々に知られていった。
- 松嶋
- そのあと、1999年にNHKが
「日本の美術品で、何がいちばん好きか」
というアンケートをとったんですが、
そのときに、この絵が1位になってます。
- ──
- 運慶快慶だとか、風神雷神図とかでなく、
洛中洛外図とかでもなく。へええ‥‥。
- 松嶋
- それまでは、長谷川等伯の作品の中では、
妙心寺隣華院の「山水図襖」だったり、
龍泉庵の「枯木猿猴図」などのほうが、
ぜんぜん、評価が高かったんですけどね。 - でもわたしが思うに、そんなふうにして
「松林図屏風」は、
国民的作品になっていったんじゃないか。
- ──
- ひとつ、御用絵師の狩野派に
等伯が切り込んでいったという構図が、
何だか19世紀フランスの
サロンと印象派みたいだなあ‥‥と
思ったんですけれども。
- 松嶋
- 時代的にリンクしてるかどうかはさておき、
日本でもヨーロッパでも、
工房制で絵にサインもしなかった時代から、
絵描きにも
近代的な個人の意識が芽生えていく流れは、
同じかもしれませんね。
- ──
- 工房制だった時代には、
画面に「フィンセント」なんて描く習慣は、
日本にもヨーロッパにも、なかった。
- 松嶋
- ないです。
- ──
- でも、時代が下るにつれて、
絵を描く人たちも、
どんどん自己を表明していくようになった。
- 松嶋
- 絵師個人のブランド化の動きは、
日本においては、
室町時代の雪舟なんかが嚆矢ですけれども、
やっぱり、当時は「へんな人」ですよ。 - そのことが一般化していくというのは、
日本では、
安土桃山・近世初期以降でしょうね。
- ──
- なるほど。
- 松嶋
- ちょっと話がズレるかもしれませんが、
西洋の場合は、
芸術をになったのは本来、権力者だけ。
- ──
- はい、絵を注文する人という意味で。
- 松嶋
- 日本では、江戸時代に
海外との交流を制限しましたが、
その間、江戸と上方では、
世界的にもちょっと類を見ないくらい、
市民社会が発達したんです。 - その中心を担ったのが商人で、
だから浮世絵が発達していったんです。
- ──
- ああ、庶民の芸術として。
- 松嶋
- そうです、浮世絵というのは、
まさしく市民社会の芸術活動なんです。 - 庶民が、
安価でクオリティの高い芸術を買えた。
そんな国はないです、そのころ。
- ──
- 市民社会の成熟度が、
芸術みたいなところにも現れていたと。
- 松嶋
- そう。
- ──
- ひとつ、等伯さんは、どうして、
狩野派の牙城を、
ある程度でも崩せたのでしょう。
- 松嶋
- 政治的なはたらきかけですよね。
一生懸命やったんですよ、それ。
- ──
- でも、田舎から出てきた等伯が、
どうやって、権力者との間の人脈を。
- 松嶋
- ひとつには、
等伯は日蓮宗の熱心な宗徒なんです。
七尾では絵仏師だったし。 - で、その日蓮宗には芸術家が多くて、
本阿弥光悦、尾形光琳、
下って葛飾北斎、歌川国芳‥‥とか。
- ──
- わあ。綺羅星のごとく、ですね。
- 松嶋
- 当時、日蓮宗は
京都を本拠地としていましたし、
政治的な力も持っているので、
信仰を通じて口利きができたんです。 - ただ、そうは言っても、
まだ狩野永徳が生きているあいだは、
負け続けてましたけど。
- ──
- ああ、そうなんですか。
- 松嶋
- 前田玄以という人に頼んで、
内裏の対屋(たいのや)って建物で
障壁画を描かせてもらうことに、
いったんは、なったんですけどね。
- ──
- ええ。すごいことなんでしょうね。
- 松嶋
- それを聞きつけた狩野派に邪魔されて、
話をナシにされたりしてるし。
- ──
- 悔しかったでしょうね‥‥それは。
- でも、権力の庇護下の体制派がいて、
そこへ挑みかかる個人‥‥
というような図式的な見方をすると、
なんとなく、
等伯のほうを応援したくなりますが。
- 松嶋
- ええ。
- ──
- 狩野派の絵だって、
もちろん、素晴らしいわけですよね。
- 松嶋
- 間違いないです。当然です、それは。
- 永徳の「唐獅子図屏風」にしたって、
「洛中洛外図屏風」にしたって。
- ──
- 国宝とか重要文化財のオンパレード、
だと思いますが、
先生は、どう思われていますか。 - 狩野派と等伯との関係性については。
- 松嶋
- いやあ、実際に等伯が横にいたらね、
うっとうしくてしかたないですよ。 - だって「俺が俺が」の人ですからね。
- ──
- あー。田舎から出てきて、必死で。
- 松嶋
- その点、永徳は完全な御曹司ですよ。
- 狩野家4代目くらいの当主なので、
完全にお坊ちゃんでしょうね。
だから、比較的、
優雅でおとなしい人じゃないですか。
- ──
- なるほど。
- 松嶋
- それでいて歴史に残る絵、
素晴らしい作品をバンバン描いてる。 - だから、付き合うんだったら、
永徳のほうが断然いいと思いますよ。
等伯はもうギラギラしてそうで。
- ──
- 友だちとして付き合うなら、という視点!
おもしろいです(笑)。 - 実際、北陸の田舎から上洛してきて、
権力の一端へ食い込むまでに、
どれくらいかかってるんでしょうか。
- 松嶋
- 30歳を過ぎてから京都に出て‥‥。
- ──
- え、そんなに遅いんですか!
夢見る青年期は過ぎていると言うか。
- 松嶋
- むしろ、当時だから、いい年ですよ。
人生50年の時代ですから。 - 32歳ころまで七尾で仏画を描いていて、
そのあと、
京都の本法寺で絵を描いてることが、
わかってるんです。
- ──
- ええ。
- 松嶋
- 七尾で描いてた最後のころの仏画を、
発見したことがあるんですが‥‥。
- ──
- え、それは、先生が?
- 松嶋
- はい、2003年の大日蓮展のときに。
富山の日蓮宗のお寺にあったものを。 - その後、新潟の日蓮宗寺院で、
もう1点発見しました。
- ──
- すごーい。
- 松嶋
- 展覧会のための調査に行ったときに
ひと目見て
「ああ、これは、等伯の筆だ」
といういうことがわかったんだけど、
それはまあ、ともかくにしても。
- ──
- ええ。
- 松嶋
- 30代の初頭のころ京都へ出た等伯は、
51歳のときに、京都の名刹、
狩野派の牙城だった大徳寺で描くまで、
どこで何をしていたか、
具体的なことが、一切わかっていない。
- ──
- はあ‥‥京都にはいたんでしょうけど。
- 松嶋
- そうですね。ただ、わからない間にも、
描いたであろう作品は残ってる。 - 狩野派の一門に入って絵を学んでいた、
その可能性もあると思います。
- ──
- えええ、そうなんですか。ひゃー。
- 松嶋
- 当時の狩野派は、優秀な絵師を、
片っ端から引き入れているんですよね。 - 狩野派の絵師として描いているうちに、
独立して‥‥ということかもしれない。
- ──
- そうだとしたら、ワクワクするなあ。
- 松嶋
- 大徳寺というのは五山じゃないですし、
政治的な格付の外にあるお寺なんです。 - で、そこの山門を利休が寄進してます。
- ──
- 等伯を見出したとされている、千利休が。
- 松嶋
- ご存知かもしれませんけど、
その山門の上に利休像が置かれている。 - で、その利休像の下を、
朝廷の使いの人も通るわけですけども、
秀吉は、それで「怒った」んです。
- ──
- 自分の使いは自分そのもの、
つまり
自分を下に見るのか‥‥と言うことで。
- 松嶋
- その廉で利休に切腹を命ずるんですが、
ともあれ、その山門の壁画を、
等伯は51歳のときに描いてるんです。 - 京都の仕事として歴史に登場してくる、
等伯の最初の仕事です。
数年後には智積院の絵も描いてるから、
苦節何十年かわからないけど、
いきなりピークの仕事をしてるんです。
- ──
- 出てきたと思ったら、急に絶頂。
- 松嶋
- もちろん、いま知られていないだけで、
他にも仕事はしていると思います。 - 狩野派を押しのけて活躍しましたけど、
七尾から一緒に出てきた息子も夭折し、
ふたりの娘婿も早くに死んじゃうので、
長谷川一門というのは、
そのあとが、つながらなかったんです。
- ──
- え、じゃあ、途絶えてしまった?
- 松嶋
- 72歳のとき、京都から江戸へ
将軍に会いに行っているんですけど、
たぶん会えずに亡くなりました。 - 将軍に御目見得できていたら、
御用絵師になっていたでしょうから。
おそらく狩野派に邪魔されて、
そのまま意気消沈して死んでしまう。
- ──
- ああ‥‥。
- 松嶋
- 長谷川一門の命脈も、そこで尽きた。
- ──
- 等伯の系譜は、実質一代で終わった。
等伯が生きた数十年だけの間に。
- 松嶋
- ただ‥‥わたしの考えで言いますと、
作品のスタイルとしては、
探幽が真似たので、
じつは、後世につながってるんです。
- ──
- 途切れたと思った等伯のDNAが、
飛び地のように、
それも、
狩野派という「ど真ん中」に飛んでいった。
- 松嶋
- はい。狩野派だけでなく、
「松林図屏風」は円山応挙へつながり、
智積院の着色画は、
尾形光琳につながるとも思っています。
(つづきます)
2021-01-05-TUE
-
長谷川等伯が描き、国宝に指定されている
松林図屏風が、
なんとほぼ日ハラマキになっちゃいました。
もちろん、東京国立博物館さんの監修です。
「右隻・左隻」の2バージョンあります。
シャツのしたからチラ見せする国宝!
あなたのおなかに、ご利益あれ。
1月2日(土)からの
(本物の)松林図屏風の公開にあわせて、
東京国立博物館ミュージアムショップと、
ほぼ日カルチャんにて、
数量限定で先行販売いたします。
その後「ほぼ日ストア」でも販売しますよ。
詳しくは、公式サイトで、ご確認ください。なお、長谷川等伯「松林図屏風」の公開は、
本館2室にて、
2021年1月2日(土)〜17日(日)。
入館には、事前予約が必要です。
くわしくは、
東博さんの公式サイトでご確認を。