
新潟県長岡市に本社をかまえ、
「黒豆せんべい」や「大袖振豆もち」など、
おいしいヒット商品を生み出してきた岩塚製菓。
ほぼ日社内にもファンが多く、
もちろん糸井重里もそのひとりです。
そんな人気者の岩塚製菓ですが、
「おせんべいがおいしい」以外、
じつはあまり知られていなかったりします。
この会社がどんな想いから生まれ、
どんな困難や失敗を乗り越えてきたのか。
まだ稲穂が青々としていた7月下旬、
糸井は岩塚製菓の本社をおとずれ、
槇春夫会長からいろいろなお話をうかがいました。
キーワードは、ズバリ「米と縁」です。
紆余曲折、ドラマチックなエピソードの数々、
たっぷりとおたのしみください。
槇春夫(まき はるお)
岩塚製菓株式会社
代表取締役会長CEO
1951年 岩塚製菓の創業者の一人。
槇計作の三男として新潟県長岡市に生まれる。
1974年 富山大学卒業後、ダイエーに勤務。
1976年に岩塚製菓株式会社に入社。
以降、数々の要職を歴任し、
1998年に代表取締役社長に就任。
2023年より現職。
2021年旭日小綬章を受章。
- 糸井
- ここまでの話をまとめると、
台湾に蔡さんという方がいて、
親から引き継いだ会社があったけれども、
なにをやってもうまくいかなくて困っていた。
- 槇
- ええ。
- 糸井
- その方が岩塚製菓の「お子様せんべい」に
クリームをサンドしたお菓子を食べて、
「これを台湾で作れば当たるんじゃないか」と。
- 槇
- そうですね。
- 糸井
- その先の話が本にありましたけど、
蔡さんはその交渉をするために
岩塚まで訪ねて来たんだけれども、
槇さんの先代の社長は
「そうはいかないんだよ」と、
その誘いを断ったんですよね。
- 槇
- じつはその前に大失敗をしたんです。
同じような業務提携の話がタイであって、
そのときに大失敗をしました。
私もよく覚えていますが、
もう会社が潰れるんじゃないかってくらい。
- 糸井
- そんなにですか。
- 槇
- 入社した途端に、大量の返品の山。
もともとタイで作った商品を
問屋さんたちが信用して買ってくれたんですけど、
日本のものと品質がまったく‥‥。
- 糸井
- つまり、不良品だった。
- 槇
- 不良品だったんです。
それで問屋さんの信用を失ってしまって。
- 糸井
- いつ頃ですか。
- 槇
- 1975年くらいでしょうか。
私が入社して間もない頃ですから。
- 糸井
- そんなに昔じゃないですね、思えば。
- 槇
- そんなに昔じゃないんです。
だからそれで凝りてしまったというか。
もう二度とそういうものに
手を出してはいけないという、
そういう固い決意があったと思うんです。
- 糸井
- 相当、痛かったんでしょうね。
- 槇
- 蔡さんたちが岩塚にやってきたのが、
その失敗の6年後とかでした。
それまで2度、3度と、
蔡さんから電話はあったんですけど、
まったくもって聞く耳を持たない。
- 糸井
- よっぽど懲りたんでしょうね。
- 槇
- 私が「台湾から電話が入っています」と言うと、
「そんなもん切れ!」という感じでした。
2度、3度、そんなことがあって、
1981年の2月だったと思いますけど、
2メートルくらい雪が積もった日に、
またまた蔡さんから電話がありまして、
「いま岩塚駅にいるんですけど」って。
- 糸井
- 大雪の日に、台湾の人が(笑)。
- 槇
- それで「えーっ!」って。
とにかく駅まで迎えにだけ行こうと。
- 糸井
- かわいそうですものね。
- 槇
- すごい薄着で来られていて、
寒さでずっと震えているんです。
これはさすがにお連れしないわけには
いかんだろうというので、
車に乗せてここまで連れてきたんです。
- 糸井
- 槇さんはその場にいたんですか。
- 槇
- たまたま私もいましたので、
「いや、もう来てるんですよ」って(笑)。
父も「なんで連れてくるんだ」みたいな、
そういう剣幕ですよね。
そうは言ったってもう来ているんだから、
会うだけでも会ってくれという感じで、
たぶん4時間ぐらい話したんじゃないでしょうか。
- 糸井
- たとえそこで話ができたとしても、
蔡さんは大成功しますよって、
約束なんかできないわけですよね。
- 槇
- そんなのできないですよ。
- 糸井
- せんべいを作ったこともないし、
信用のおけない困った坊ちゃんですよね。
- 槇
- そう見えても仕方ないですよね。
- 糸井
- しかも、こっち側は騙されたばっかりの会社だし。
- 槇
- なので最後のほうは、
父も断るために話をしていたと思うんです。
そのとき厳しい条件を4つ出したんです。
- 糸井
- 4つ。
- 槇
- とにかく創業者の2人は
品質にこだわっていましたし、
それが生きる道だという信念があった。
タイでの失敗はインフラの問題もありますけど、
基本的には品質を誤ってしまった。
なので絶対に日本の材料を使うこと。
それがひとつめの絶対条件。
- 糸井
- つまり、守れっこないくらい厳しい約束をして、
相手に諦めてもらうと。
- 槇
- そういう条件を突き付ければ、
諦めてくれるだろうと。
- 糸井
- そのひとつが原材料は日本の、
われわれが選んだ材料を使えと。
- 槇
- それから機械設備も日本のものにする。
- 糸井
- 機械設備も、
われわれが選んだ機械設備を使えと。
- 槇
- すべて日本のものを使って、
こっちの社員を2人常駐させて、
品質管理をさせること。
- 糸井
- 材料、機械設備、そして品質管理。
- 槇
- で、最後の4つめは、
台湾で作ったものは日本に入れない。
- 糸井
- つまり、日本では売らないこと。
- 槇
- はい。
- 糸井
- その4つ、守れないですよね(笑)。
- 槇
- そう思いますよね(笑)。
- 糸井
- だけど蔡さんは「やりましょう」と。
- 槇
- そこがやっぱりすごいところで。
いまもそうなんですけど、
とにかく信念があって意志が強い。
なにより「縁」をすごく大切にされる。
- 糸井
- この岩塚の物語というのは、
偶然から生まれたおせんべいがきっかけで、
台湾の人たちと縁がつながって、
それが国際的なスケールになったわけで。
- 槇
- そうですね、はい。
- 糸井
- そこだけを聞くと、
なんでそうなるのって思いますけど、
ひとつひとつの話を聞いていると、
とにかくガンコで譲らない者同士が、
そこで出会ってしまった。
- 槇
- そういうことなんでしょうね。
彼は口癖のように言いますけど、
中国大陸でモノを売っていくときに、
とにかく価格競争になりがちなんですけど、
日本人がおいしいと思う商品を作らないと
絶対に中国大陸では売れないと。
それがもう、蔡さんの信念なんです。
- 糸井
- はぁーっ。
- 槇
- だから原材料や品質のところは、
これまでずっと譲らないままなんです。
その意志の強さというのが、
いまの地位を築き上げた最大の理由だと、
私は思いますね。
- 糸井
- その蔡さんの会社が、
いまや4000億円を売り上げる大企業に。
- 槇
- はい。
- 糸井
- 雪の中の「困っているんですよ」からはじまって。
- 槇
- それも縁なんでしょうね。
(つづきます)
2023-11-17-FRI
