写真評論家の飯沢耕太郎さんに、
森山大道さんの「写真」がどいうものか、
いろいろうかがいました。
一貫して路上を撮ってきた森山さんの
特異性、魅力、その功績。
さらには、あの有名な「三沢の犬」が、
「どうして有名なのか」という、
なんとも素朴な(?)ギモンについても
丁寧にお答えくださいました。
最後には「撮れちゃった写真」の大切さ。
これには、なるほど~とうなりました。
「撮った写真」じゃなく
「撮れちゃった写真」が、なぜ凄いのか。
「撮れちゃった写真」を撮れるのが、
素晴らしい写真家なんです‥‥と。
全6回の連載、担当はほぼ日の奥野です。

>飯沢耕太郎さんのプロフィール

飯沢耕太郎(いいざわこうたろう)

写真評論家。1954年、宮城県生まれ。1977年、日本大学芸術学部写真学科卒業。1984年、筑波大学大学院芸術学研究科博士課程修了。『写真美術館へようこそ』(講談社現代新書1996サントリー学芸賞受賞)、『写真的思考』(河出書房新社、2009年)、『キーワードで読む現代日本写真』(フィルムアート社、2017)など著書多数。2014年に東京・恵比寿に開業した写真集食堂めぐたまの運営にもかかわる。

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第2回  「アレ・ブレ・ボケ」とは。

──
森山さんのことを調べると
すぐに
「アレ・ブレ・ボケ」という言葉が出てきます。
粗くぼやけて、ピントの合っていない写真‥‥
ということだと思いますが、
当時はどういったインパクトがあったんですか。
飯沢
写真をきれいに撮るテクノロジーやメソッドが
どんどん確立されていく時代に、
ああいった‥‥
いわば「荒々しい写真」が投げ込まれたんです。
ものすごい「賛否両論」を、巻き起こしました。
ただ「アレ・ブレ・ボケ」自体は
森山さんが「発明」したわけではないですけど。
──
そうなんですか。
飯沢
ただ単に「そういう写真」というだけなら、
以前から存在してました。
でもそれが当時の時代状況と重なったとき、
写真表現以上のインパクトを、
見ている側に、もたらしたんだと思います。
──
当時というのは60年代後半、闘争の時代。
飯沢
そうですね、70年代はじめくらいまでの、
政治や社会が揺れ動いていた時代です。
そこへ「アレ・ブレ・ボケ」が、出てきた。

森山大道『LABYRINTH』より 森山大道『LABYRINTH』より

──
時代によって「増幅」された部分もあると。
撮っているもの自体は、
そんなに変わったものだったわけでは‥‥。
飯沢
ないです。見ていただければわかるように、
日常的な風景や、当時の人々の姿。
被写体そのものには際立つ特徴はなかった。
──
ただ「アレ・ブレ・ボケ」ていた。
飯沢
タイミングが合ったんでしょう、時代と。
──
今のお話で何となく頭に浮かんだのは
19世紀に出てきた印象派で、
彼らも、
既成の価値観から一斉に反発されました。
飯沢
そう、それと同じように、
当時はきたない写真、って言う人もいた。
いわゆる「カメラマニア」というかな、
「アサヒカメラ」や
「カメラ毎日」を毎月購読してた人が、
森山さんや中平卓馬さんが現れて、
誌面が
「アレ・ブレ・ボケ」で埋め尽くされて、
購読をやめちゃったとか。
──
熱狂的に受け入れられていた一方で、
強い拒否感を示した人たちもいたと。
飯沢
そうですね。
その後、
70年に日米安保条約が自動延長されて、
激動の季節が終息していくと、
「アレ・ブレ・ボケ」は
ある種の流行りのデザイン・意匠として、
消費されていくようになります。
──
形骸化していく。本質の部分が。
飯沢
当時の国鉄の
ディスカバージャパンってキャンペーン、
知ってます?
日本各地のいろんな田舎に、
当時流行の
パンタロンやミニスカート姿の女の子が
遊びに行く‥‥みたいな。
──
はい。
飯沢
そのキャンペーンのポスターなんかにも
「アレ・ブレ・ボケ」が使われ出して、
中平卓馬さんなんかは、
「記録という幻影」と題する文章に、
ある種の怒りのメッセージを書いたりね。
──
商業主義的なものに利用された、と?
飯沢
自分たちの生き方そのものを
「アレ・ブレ・ボケ」に込めていたから。
だから、ただ「カッコいいじゃん」って、
スタイルとして
商業的に消費されてしまうという事態に、
危機感を感じたんでしょう。

──
なるほど。
飯沢
森山さんも、まさしくそのタイミングで
『写真よさようなら』という
「アレ・ブレ・ボケ」のオンパレードみたいな
非常にラディカルな写真集を発表した。
見たことあるかなあ。
──
はい、あります。
飯沢
あれ、何が写ってるかもわからないじゃない。
「アレ・ブレ・ボケ」の極みで、
時代に対するアンチテーゼだったわけだけど、
ただ、そこまでいってしまうと、
森山さん自身も、疑いを持ちはじめるんです。
はたして、これでいいのか‥‥って。
──
それで『写真よさようなら』ですか。
何かもう、すごいタイトルです。
飯沢
実際、森山さん、
そのあと80年代のはじめくらいまで、
彼自身のいう
大スランプ時代に入っちゃうんですよ。
──
大スランプ。ただのスランプではなく。
飯沢
写真が撮れなくなってしまったんです。
正確には、撮った写真に
手応えがなくなってしまった‥‥って。
──
へええ‥‥どうしてですか。
飯沢
大きな理由のひとつは、それまでは
「アレ・ブレ・ボケ」が
森山さんのリアルだったわけですけど、
時代の流れの中で、
そのリアリティを感じられなくなった。
そういうことじゃないかなと思います。
──
なるほど‥‥では、逆に言うと
「アレ・ブレ・ボケ」のリアリティが
持続していたのは、たったの数年?
飯沢
そうですね。
中平さんが多木浩二さんらとはじめた
『PROVOKE』という写真同人誌が
1968年で、
そこに森山さんも合流するんですけど。
1972年の沖縄の返還をきっかけに
政治状況は一服していく‥‥
だから、ほんとに3年、4年くらいで。

──
それだけ短期間の活動が、
後々にまで記憶されるムーブメントに
なったってことですか。
『PROVOKE』も、3巻だけだし。
飯沢
当時の時代と、森山さんの写真とが、
どれだけ
ぴったり密着してたかってことですよ。
と同時に、森山さんの写真には、
あの時代を体現していたという以上の
普遍性があったんだと思います。
──
同時代性と、普遍性と、その双方が。
森山さんは、
やはり当時から路上を撮っていらした。
飯沢
一貫してね。
ストリート、道、路上を歩くと、
いろいろなものに、ぶつかりますよね。
角を曲がれば別の世界が広がっていく。
路上散策と言うよりも、
もっと、野良犬のようにほっつき歩く。
そういう体験って、
きっと、多くの人にあると思うんです。
──
はい、あります。自分にも。
飯沢
失恋してあてどなくさまよったとかさ、
酔っ払っちゃって‥‥とかも含めて。
国や時代を超えて、
誰もが経験する、ある種の普遍的経験。
──
はい。
飯沢
森山さんの写真を日本人だけじゃなく、
フランスの人も、アメリカの人も、
中国の人も、ブラジルの人も、
みんながかっこいいと思うってことは、
近代に成立した「都市」の路上を
みんなが同じように歩いたからだよね。
その「路上における普遍的な体験」を
もっとも説得力のあるイメージとして
写真に定着させたのが、
森山大道って写真家なんだと思います。
──
なるほど。
飯沢
だって、どの国に行ったってさ、
日本の写真家で
真っ先に名前の挙がるのが、森山さんだもん。
──
これだけ
路上だけをずーっと撮り続けている写真家は、
世界にもめずらしいと聞きますね。
ちなみに「アレ・ブレ・ボケ」という写真を
撮っていた人は、海外では‥‥。
飯沢
何人かいますよね。
森山さんの『にっぽん劇場写真帖』を
よく研究してみると、
あの傑作が
いきなりうまれたわけじゃなく、
先行する写真家たちの表現を咀嚼したうえで、
森山さんのセンスや方法論で
再構築していることが、わかるんです。
──
たとえば、でいうと‥‥。
飯沢
まずは、ウィリアム・クラインでしょうね。
有名な彼の『ニューヨーク』という写真集、
本当に、カッコいいから。

──
森山さんも、たびたび、
インタビュー等で言及していますよね。
飯沢
あるいはロバート・フランクだったり、
エド・ヴァン・デル・エルスケン‥‥。
そういう先達たちが、
路上スナップの原型をつくっていった。
──
日本では?
飯沢
路上スナップによる表現は、
1950年代くらいから出てきますね。
東松照明さんの
『<11時02分>NAGASAKI』とか
『日本』とか、
そういった写真集を見てると、
後の森山さんを思わせるところがある。
──
なるほど。
飯沢
何を撮るかを決めず、
カメラだけど手に持って町に出かけて、
目の前に現れたものを捕まえていく。
何人か、そのスタイルの先行者がいて、
独自の方法論として
確立していったのが森山さんだった。
そうやってうまれたのが、
デビュー作の『にっぽん劇場写真帖』、
なんです。

2021-04-10-SAT

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