登山の世界のアカデミー賞と呼ばれる
ピオレドール賞に3度も輝いた、
アルパインクライマーの平出和也さん。
どうして誰も登ったことのない未踏峰、
未踏ルートへ向かうのか。
山で生まれた問いへの答えは、
次の山へ向かうことで得られる‥‥と、
平出さんは言います。
その繰り返しが、
自分を成長させてくれるんだそうです。
哲学者のそれかのような
平出さんの言葉に、引き込まれました。
全7回、担当は「ほぼ日」の奥野です。

>平出和也さんのプロフィール

平出和也(ひらいでかずや)

アルパインクライマー、山岳カメラマン。石井スポーツ所属。大学2年のときから登山をはじめ、2001年のクーラカンリ(東峰・7381m)初登頂以後、難易度の高い数々の未踏峰・未踏ルートに挑戦し、優秀な登山家におくられるピオレドール賞を日本人最多の3度受賞。世界のトップクライマーの1人であり、山岳カメラマンとしても幅広く活躍している。公式サイトはこちら

前へ目次ページへ次へ

第4回 谷口けいさんとの出会い。

──
カッコいい‥‥で行ってしまった、
インドのシブリンは、
どういう登山になったんですか。
平出
まだ登っちゃいけない山でしたね。
──
凍傷になってしまったり‥‥。
平出
かろうじて生命は落とさなかったけど、
足の指が短くなっちゃいましたから。
イチかバチかの登山は、
やっぱり、
しちゃいけないなと痛感しましたね。

凍傷で入院。写真提供:石井スポーツ 凍傷で入院。写真提供:石井スポーツ

──
そういう教訓を得た山だった。
平出
もちろん、そうは言っても、
そのときじゃなきゃできない冒険は、
絶対にあると思うんです。
若いがゆえにやれる、という冒険が。
でも、それだって、
生きて帰ってきたから言えることで。
──
ええ、そうですよね。
平出
山では誰も助けてはくれないんです。
死んじゃったら経験にはならない。
だから無茶しちゃダメなんですけど、
その一方で、
ケガをするかしないか‥‥の狭間で、
かろうじて生きて帰ってくる、
そういう冒険に勝る経験はないです。
──
簡単に行ってこれる登山では‥‥。
平出
すべてスムーズにいくような、
大成功だ万々歳で帰ってこれるような、
そういう登山では、
やっぱり得るものが少ないと思います。
思い出にも残らないですし、それほど。
──
そういうものでしょう、けど‥‥。
平出
生きるか死ぬかギリギリの状況で、
全身をすり減らして登った山ほど、
得るものが多いと、信じています。
シブリンは、
まさしくそういう山だったんです。
──
でも、死んだら、元も子もないと。
平出
そう、それはね。
ひとつ言えるのは‥‥若さゆえの冒険、
生きるか死ぬかギリギリの冒険を
経験してきたことで、
いま、地に足の着いた登山が、
できてるんじゃないかなあと思います。
──
シブリンへは、誰と登ったんですか。
平出
けいさんです。
──
あ、谷口さん。谷口さんは、お怪我は。
平出
彼女も凍傷になりました。
ただし、ぼくのほうがひどかったです。
精神的ストレスに対しても、
けいさんのほうが、ぜんぜん強かった。
──
そうなんですか。
平出
登山には、
何よりも高い技術力や体力が必要だと
思い込んでいたんですが、
シブリンの経験で、
それだけでは登れない山もあるんだと。
体力や技術力と同じくらい、
精神的なストレスに対する耐性が要る。
どんな過酷な状況に置かれても、
耐え切れるメンタルが必要なんですよ。
──
身体と技術と、精神と。
平出
だから、そういう部分も含めて、
自分は、
登山家という前に、
まだまだ人間的に弱いと感じました。
世界で評価されるような登山をして、
技術面での自負もあったけど、
精神的には、まだまだ未熟なんだと。
──
そうやって、登山を通じて、
自分自身のことを知ってくんですね。
平出
ささいな危険に気付けるかどうかが、
生きるか死ぬかに関わります。
足先が冷たいけど我慢すればいいや、
というふうに、
あのときの自分は、思ってしまった。
──
ええ。
平出
本物の登山家だったら、
あの場で
1日くらい停滞を余儀なくされても、
足をマッサージをすべきだった。
靴を脱いで、パートナーと
冷え切った体を温め合うべきだった。
──
でも、そうしなかった。
平出
当時の自分は、
山頂しか見えてなかったんですよね。
足元の危険に気付けなかったんです。
未熟だったからだと思います。

──
他方、シブリンでの谷口けいさんは、
どうだったんですか。
平出
けいさんは、
ぼくより5つか6つ年上だったけど、
登山をはじめたタイミングも、
ヒマラヤ登山へ向かうのも同じころ。
おたがいに未熟ではありましたけど、
ひとつの山を見上げたときに、
同じくらいの高さに感じてたんです。
──
つまり、目線がそろっていた。
平出
どちらかが成熟した登山家だったら、
たぶんもう片方は、
連れて行かれる立場になってしまう。
でも、同じ目線の高さで、
目の前の山がしっかりと見えていて、
求めるもの‥‥つまり、
まだ誰も歩いていないルートを行こう、
という登山の方向性まで、
すべてがそろっていたんですよね。
──
だから、その後もずっと
パートナーでいられたってことですか。
平出
心地よかったんですよ、一緒にいると。
生命を預け合えるパートナーって、
一生に1人か2人、出会えるかどうか、
というくらいの確率なんです。
──
それは、運命的な人‥‥ですね。
平出
登山の途中で行き詰まって、
あれ、どっちから行ったらいいだろう、
とかって言い合ってるときも、
もう、楽しくてしょうがないんですね。
ぼくにはないアイディアを、
けいさんが持ってたり、その逆もある。
でも、パートナーとして何度も何度も
一緒に登った理由は、
けいさんとぼくの「登りたい山」が、
同じだったということなんです、結局。
──
目指す頂きが、一緒だったから‥‥。
平出
そう、ぼくが、
「次は、この山のこの壁に行きたい」
って言った瞬間、
「わたしは、10年前から思ってた」
って返してくるんです(笑)。
自分だけのものだったはずの夢が、
けいさんに話した瞬間に、
パーッと奪い取られちゃうんです。
──
うれしそうに言いますね(笑)。
平出
すごくうれしかったんです、それが。
逆に、ぼくが、
「じゃ、一緒に行かせてくださいよ」
って言っちゃいそうになるほど。
人の夢を奪い取るプロなんですよね。
ぼくの夢に対して、
ぼく以上に、
思いを馳せてくれる人だったんです。
──
そんな人に、どうやって出会うんですか。
平出
ぼくが東海大学山岳部の主将だったとき、
亜細亜大学の山岳部の主将と、
標高8201メートルのチョ・オユーに、
ふたりで登ったんです。
──
さっきおっしゃってた、世界4位の高峰。
チョ・オユー。
平出
ぶじに登頂成功して帰ってきたあと、
アルピニストの野口健さんが、
おまえたち、
学生2人で8000メートル、
無酸素で
誰の助けも借りずに登ってきたって、
けっこうすごいことだから、
しっかり発表しておきなさい‥‥と。
──
へええ‥‥。
平出
社会に評価されるべきことなんだと、
ホテルの一室を借り切って、
人を集めて、
発表の場を設けてくださったんです。
そのとき、たまたまそこにいたのが、
けいさんだったんです。
──
平出さんたちの話を聞きに来た?
平出
当時のけいさんは、
野口さんのやっていた清掃登山隊で
お手伝いをしていて、
詳しくは知らないんですけど、
頼れるマネージャー役、
みたいな存在だったんだと思います。
でも、ぼくらの話に興味がないのは、
すぐにわかりました。
──
え、じゃ‥‥どうして。
平出
当時、けいさんは
大学を卒業して就職もしていたけど、
2、3年で辞めて‥‥
登山を本気でやりたいと思って、
四畳風呂なしのアパートで、
貧乏な暮らしをしていたころでした。
そんなけいさんにしてみたら、
学生の分際で
ヒマラヤ8000メートルとかって、
どこのボンボンだよと。
──
そうか。
平出
だから、その日も、
ぼくらの話を聞きに来たんじゃなく、
立食パーティーで
おいしい食べ物があるって誘われて、
来たんじゃないですかね。
──
はああ‥‥でも、その後もずっと続く、
おふたりのパートナーシップは
そんな偶然の出会いから、はじまった。
平出
そうなんです。

谷口けいさんと。写真提供:石井スポーツ 谷口けいさんと。写真提供:石井スポーツ

(つづきます)

2021-06-07-MON

前へ目次ページへ次へ
  • 連続インタビュー  挑む人たち。