国立科学博物館(通称:カハク)は、
日本で唯一の総合科学博物館です。
現在、およそ500万点もの標本や資料があり、
その数は今も増え続けています。
2023年には、これらをしっかり保存するために
クラウドファンディングを実施し、
9億円以上の支援が集まりました。
ここまで多くの標本や資料を集め続けるのは、
いったいなぜなのでしょうか。
動物研究部の川田伸一郎さんは、
「博物館にとって標本は圧倒的に重要」と
断言します。
今回は、川田さんに標本づくりの現場や収蔵庫を
見せていただきながら、
動物標本を集め続ける理由をうかがいました。
取材・執筆はノンフィクションライターの稲泉連さん、
編集担当は「ほぼ日」かごしまです。

>川田伸一郎さんプロフィール

川田伸一郎(かわだ・しんいちろう)

国立科学博物館動物研究部
脊椎動物研究グループ研究主幹。
弘前大学大学院修了後、
名古屋大学大学院博士課程に入学。
ロシア科学アカデミーへの留学などを経て、現職。
専門は哺乳類学。
なかでも、モグラ類の形態学的分析と核型分析を中心とした研究、
また哺乳類の歯式進化に関する研究を行っている。
明治から昭和初期にかけての日本の動物学史についても
文献・資料の調査を行う。
また標本の作成保全にも力をいれており、
これまで登録した標本は57000点以上。
『はじめましてモグラくん なぞにつつまれた小さなほ乳類』
『標本バカ』などの著書がある。

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2 標本の持ち主は「未来」にいる

国立科学博物館筑波研究施設にある標本の収蔵庫は、
濃密な「時間」が保存された図書館のようだ。
蛍光灯の光は少し薄暗く、
川田さんが通路を歩いていくと、影が棚の間で揺れる。

整然と並ぶ金属製の引き出しに眠るのは、
数千体に及ぶ哺乳類の標本たちである。
リス、モグラ、コウモリ、ウサギ。
地域ごと、採集年ごとに分けられた小さな収納箱が、
壁一面にびっしりと積み上げられている様子は壮観で、
ここには地球の「時間」の一部が
こうして閉じ込められているのだ、という思いに駆られた。

そして川田さんは
小型から中型の哺乳類の毛皮標本の棚に入ると、
引き出しの一つをそっと開ける。

すると、そこには先ほどまで生きていたかのような
クリハラリスの仮剥製が、整然と並んでいた。
標本はカチカチに乾燥しており、
四肢を伸ばした状態で固定されている。
この部屋だけでも、
長崎県の福江島由来のクリハラリスが
500〜600体あるという。

──
すごい。これ、全部リスなんですね。
川田
ええ。ここはクリハラリスだけで500体以上あります。
ほかにもクロウサギ、モグラ、
トガリネズミ、コウモリ‥‥。
哺乳類だけで数万点。
まぁ、地球の縮図みたいなものですね。
──
この引き出し、
一段にこれだけのリスが入っているんですね。
川田
保管庫のスペースには限りがありますから、
省スペースが大事なんです。
だから、研究用の仮剥製は、
ポーズを取らせずにまっすぐに伸ばすんです。
きれいに並べていけば、
ひとつの引き出しに何十体も入りますからね。
展示用の剥製みたいに飾ったら、
場所がいくらあっても足りないです。

──
それにしても、クリハラリスだけでこんなにたくさん。
素朴な疑問ですが、
これだけの量がどうして必要なんですか?
川田
それは2、3匹程度の標本では、
その種の“平均”が見えないからです。
──
人間だって身長や顔つきがみんな違いますものね。
川田
そう。動物も同じで、
個体差を知らないと“その種らしさ”がわからない。
標本はそうした「差」を集めるためのものでもあるんです。

そう言って川田さんが手に取った一体のリスは、
別の棚のリスよりも体が大きい。

──
この個体は、
他のリスとちょっと違いますね。
どれも同じに見えて一体一体、すべて違う。
川田
そうなんです。
だからいろんなタイプの標本があること自体が、
とても重要だと思っているんです。
たとえば、少し頭のあたりが剝げていたり、
毛皮の状態としては「正直あまり良くない」と
思われたりするものでも、
やはり残しておく意味はある。

──
なるほど。個体差を集めることで
“種”への理解が深まっていく。
川田
ええ。このクリハラリスは
台湾原産だと言われているのですが、
ベトナムやタイなどにいるやつは、
お腹がもっと赤っぽい栗色をしています。
そうした地理的な変異もけっこうあるんですよ。
だから、この台湾原産のリスが、
例えば、気候の違う長崎の島に隔離されて、
50年、100年と世代を交代していったら、
何かが起きるかもしれない。
そんなことを考えていると楽しい気持ちになります。
──
地域によってもずいぶん違うんですね。

川田
例えば、こちらにあるのはクロウサギの棚ですが、
このウサギ、普通は黒い足をしているのだけれど、
たまに白いやつもいるんですよ。
現地では「白足袋(しろたび)」って呼ばれています。
徳之島の方が奄美大島よりも多いようです。
──
そうしたパターンも、
たくさんの標本を集めて初めて分かってくる。
川田
そうです。動物の個体差というのは、
1匹ごとに異なります。
たとえばクリハラリスでは
オスとメスで体の大きさにも違いがありますし、
性の違いによる差も確認できます。
さらに、若い個体と老齢個体でも形態が変化します。
カモシカのように長生きな動物では、
年齢とともに姿が少しずつ変わっていくこともわかります。
また、モグラではオスのほうが
やや大きい傾向がありますが、
個体差が重なるので、統計的に多くの標本を集めないと
明確な傾向は見えないんですね。
加えて、同じ種でも地域ごとに違いがあって、
たとえばコウベモグラでは九州と愛知で
体重が倍近く異なっていたりするんです。

──
これだけの標本を「次世代」に受け渡していくとなると、
収蔵庫の環境管理にもかなり気を使う必要がありそうです。
川田
温度は22度未満。
湿度はだいたい50%前後が適切です。
とくに湿度が大事なんですよ。
──
温度より湿度。
川田
ええ。乾燥しすぎると、
標本というのはもう完璧にアウトです。
パキッと割れてしまいますから。
もちろん、湿度が高すぎると黴の原因になりますが、
管理する立場からすると乾燥のほうが怖いですね。
それと、もう一つ怖いのがある種の蛾です。
──
蛾ですか。
川田
そう。なんでも食べちゃうので、
昔一人暮らししてた時に七味唐辛子の中が
蛾のフンだらけだったことがありました。
知らずにうどんとかにかけて食べてたんですよ(笑)。
剥製の中にも入り込んで、
皮をだめにしちゃうんですよ。
──
剥製の中を食べるんですか!?
川田
そうなんですよ。
だから大きい標本を外から貰ったりするときは、
消毒のために燻蒸することもあります。

クリハラリスやクロウサギの棚から離れると、
次に川田さんは収蔵庫の壁沿いに並ぶ棚のほうに向かった。
そこには瓶に入れられた骨の標本が並べられている。
頭蓋骨、下顎、歯。どれも小さなラベルが添えられていた。

──
これは骨の標本ですか?
川田
そう。皮の標本と違って、
骨は調べると体の形だけでなく、
咬む力、食べ物の種類、進化の過程までわかる。
たとえば、最近ある研究者から問い合わせがあって、
「歯石を調べたい」と言われたこともあります。
──
歯石ですか?
川田
ええ、標本にされた当時、
何を食べていたかが分かることもある、と。
つまり、歯の汚れも資料なんですね。
このことから言えるのは、
僕らがうっかり捨ててしまいそうなものでも、
未来の研究者から見れば宝かもしれないということ。
だから、標本には
なるべく“手を加えすぎない”ようにしています。
ありのままのほうがいいんです。
──
形が整っていたり、汚れが少なかったりのような
きれいな標本がいいとは限らないんですね。
川田
そう。“きれい”というのは人間の価値観。
博物館は自然を自然のままに保存する場所ですから。

──
土がついている標本もありますね。
川田
そういう土や泥にも情報がある。
土壌の成分も調べられます。
だから掃除はしない。
──
掃除しないのにも理由がある。
川田
うん。なんでも残しておくのが基本ですね。
“無目的・無制限・無計画”の三つの「無」が
標本づくりの基本です。
どんな個体も同じ価値を持っている。
きれいとか汚い、
珍しいとか珍しくないとかは関係ありません。
自然に“選ばれた個体”なんて存在しないですからね。
──
“無目的・無制限・無計画”。いい言葉ですね。
川田
まぁ、そういうと格好いいけど、
要は「なんでも取っておく」ってだけですよ(笑)。
でも、実はそれが結局はいちばん科学的なんですね。
意図を入れない。偏りを作らない。
人間の都合で「重要・不要」を決めない。
未来の研究テーマなんて、
今は誰にもわからないわけですから。

中小動物の標本の収蔵庫を離れ、
次は大型動物などの標本の収蔵室へ向かった。
そこではこれまで見てきた仮剥製ではなく、
展示用にも使われる標本が保管されている。
ゾウやキリン、ゴリラ、シカやアリクイ‥‥。
どれも美しい。
あらゆる動物たちが一堂に集められた部屋に入った途端、
地球とは何と多様な生物の暮らす星なのだろう
と思わずにはいられない。

──
この標本たちは
ずっとこのまま保管されるんですか?
川田
基本的には永久保存です。
もちろん劣化はしますが、
温度と湿度を一定にすれば、100年以上は必ず持ちます。
いや、100年どころか、
明治時代の標本だって、まだまだ問題なく使える。
「未来のために」と言うと大風呂敷を広げているように
思われるかもしれませんが、
実際にそれは言葉通りの意味なんです。
──
現にこの収蔵庫にあるキリンは
100年以上前の標本だそうですね。
川田
はい。あれはファンジという名のキリンで、
1907年に日本に初めて来たキリンのうちの1頭です。
翌年に死亡して剥製になりました。
こういうものを後の世代に引き継いでいくことは、
僕たちの大切な役割です。
──
歴史的な証拠でもありますね。
科博には哺乳類の標本が約9万点あるそうですが、
日本の標本収集の歴史はいつ頃から始まるのでしょうか。
川田
明治時代からです。
だから、
せいぜい150年ぐらいの歴史ということになります。
でも、海外の博物館と比べて、
科博が劣っているわけではありません。
日本は日本なりの特色あるコレクションを
作ればいいだけの話。
例えば、カモシカの標本なんかは2万点あります。
これに匹敵するようなコレクションは、
たぶん海外にはないと思います。
──
2万点はすごい!

川田
クロウサギやケナガネズミのような日本の固有種についても、
今、ものすごく蓄積されていっています。
これも世界的に重要なコレクションの一つに
なっていると思います。
──
なるほど。
先ほど収蔵庫で見せていただいた保管の努力が、
世界の研究にとっての重要性も
高めているわけですね。
川田
そう思っています。だからこそ大事なのは、
その価値のある標本たちを、
いかに次世代に向けて受け継いでいくか。
ここにあるのは、いわば未来の研究者への“預かりもの”。
僕らは一時的な管理人みたいなものです。
──
管理人。
川田
そう。標本の本当の持ち主は「未来」にこそいるんですよ。
今は僕らが預かっているだけ。
次の世代がこれを見て、新しい発見をする。
そのとき、初めてこの標本の意味が完成するんです。
──
そう考えると、
標本は今もなお生きているという感じがしますね。
川田
「時間」の中で生きていると言ってもいいですよね。
未来の研究者が開けるまで眠っているだけ。
だから、この部屋に来ると、
新しい研究者が入ってくれば、
世界がまだまだ広がるだろうな、って思うんですよ。
だって、まだ調べてないことだらけでしょう? 
ここにある数万体の中に、
誰も知らない発見がきっと眠っている。
例えば、僕はモグラをずっと研究してきましたけれど、
モグラの骨の特徴について、
すべてを知り尽くしているなんて、
そんなおこがましいことは言えません。
未知の特徴みたいなものが、
こうした標本から掘り起こされる可能性は
十分にあるはずだと思いますよね。

(明日につづきます)

2026-01-27-TUE

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  • お知らせ

    川田伸一郎さんが関わっている
    展示が3月から始まります。

    「特別展 超危険生物展 
    科学で挑む生き物の本気」

    2026年3月14日(土)~6月14日(日)
    国立科学博物館(東京・上野公園)

    公式サイトはこちらです。
    どんな危険生物に会えるのか?
    たのしみです!