第二次大戦後の日本を照らした、
『それいゆ』『ひまわり』。
色をなくした時代にあって、
当時の女性の心を明るくさせた、
太陽のような、花のような雑誌。
身を削るようにして創り続けた
中原淳一さんには、
あるつよい気持ちがありました。
そのつよさに、感動します。
そして、淳一さんの多才ぶりに、
ちょっと、否、とても驚きます。
ひまわりや代表の
中原利加子さんに、聞きました。
担当は「ほぼ日」奥野です。
中原淳一(なかはらじゅんいち)
1913年、香川県に生まれる。昭和初期、少女雑誌「少女の友」の人気画家として一世を風靡。戦後まもない1946年、独自の女性誌「それいゆ」を創刊、続いて「ひまわり」「ジュニアそれいゆ」などを発刊し、夢を忘れがちな時代の中で女性たちに暮しもファッションも心も「美しくあれ」と幸せに生きる道筋を示してカリスマ的な憧れの存在となった。
活躍の場は雑誌にとどまらず、日本のファッション、イラストレーション、ヘアメイク、ドールアート、インテリアなど幅広い分野で時代をリードし、先駆的な存在となる。そのセンスとメッセージは日本の女性文化の礎として現代を生きる人々の心を捉え、新たな人気を呼んでいる。妻は、宝塚歌劇団の草創期を担った男役トップスターで、戦後映画テレビで活躍した葦原邦子。東京・広尾に全国で唯一の専門店「それいゆ」があり、幅広い年齢層のファンに支持されている。1983年、逝去。
中原利加子(なかはらりかこ)
1958年東京生まれ。上智大学文学部卒。舞台制作・デザイン事務所勤務を経て、1983年より中原淳一の展覧会や書籍等商品の企画制作に携わる
- ──
- 雑誌『少女の友』の挿絵画家時代、
1冊の号の中でも、
いくつも絵を描かれてたんですね。 - 表紙、挿画、ポスター‥‥と。
- 中原
- ええ、途中から
『女学生服装帖』という連載記事も
担当しています。
- ──
- つまり、ファッションの企画。
- 中原
- 当時、年ごろの女の子にとっての、
かわいい服ってなかったんです。 - まだ大人は着物を着ていることが
圧倒的だったころで、
母親にしても、年ごろの女の子に
どんな格好をさせたらいいか、
よくわからなかったらしいんです。
- ──
- 洋服が簡単に手に入らないから。
- 中原
- 親の洋服は、仕立屋さんでつくる。
- そのとき、同じようなデザインを
子どもサイズでつくって、
明るい赤やピンクで、
ちょっと華やかにしてみるくらい。
- ──
- いいお手本がなかったわけですね。
洋服を仕立てようにも。
- 中原
- なので、子どもなのに、
不自然に大人びた格好をしてたり、
お出かけというと、
いつも、学校の制服を着ていたり。 - でも、淳一さんは、
女学生という年ごろのかわいさに、
ぴったりの服があるはずだと。
- ──
- なるほど。
- 中原
- そういうわけで、服装指南として
『女学生服装帖』をはじめました。 - 自分でデザインした洋服を載せて、
「こういうデザインの服には、
この生地がいい」
「こういうときには、
こういうお洋服を着るといい」
「背の低い人には、こういう服が」
「顔の丸い人には、こういう服が」
とかって‥‥。
- ──
- クリエイティブディレクターとか、
スタイリストみたいです。
- 中原
- この年代の女の子のための
洋服やファッションを提案した人、
はじめてだったと思います。
- ──
- いわゆる「吊るし」の洋服が
そんなになかった時代でしょうし、
洋服がほしければ、
自分たちで仕立てるしかない。 - そういうときに、
雑誌の『女学生服装帖』の記事を
持っていって、
「こんな服をつくってください!」
って、言っていたんですね。
- 中原
- そうなんです。
連載をまとめたものが、
10年前に出版されています。 - これ‥‥かわいいでしょう?
- ──
- わあ、かわいいですね!
- 昭和12年とか13年のものとは
ちょっと思えないです。
- 中原
- いまの感覚でも、モダンなんです。
- ──
- ちなみに『少女の友』の読者って、
どういう子たちだったんですか。
- 中原
- いわゆる「良家の子女」が
多かったと思います。
私立の学校へ行ってるような。 - 川端康成さんとか吉屋信子さんの
少女小説が載っていて、
淳一さんが挿絵を描いたりしてまして。
- ──
- ええ。
- 中原
- とくに川端さんには気に入られて、
挿絵は中原くんに‥‥って、
名指しで依頼されていたそうです。
- ──
- すごーい。
- 中原
- あとは、付録の企画ですね。
- 少女雑誌の付録って、
紙製じゃなきゃダメという時代だったんです。
それで、それまでは、
紙のハンドバッグとか羽子板とか、
そんなものばかりで。
- ──
- 実用的なものじゃなかった?
- 中原
- そう、飾っておく、くらいのもの。
- それじゃあ残念だと淳一さんは思って、
紙であることが自然で、
夢のあるかわいいものにしたいと。
- ──
- ええ。
- 中原
- そう考えて、カルタや便箋セット、
カードゲーム、手帳、しおり‥‥
そういったものを企画して、
「ふろく」として、つけたんです。 - それがまた、大人気になりました。
- ──
- 雑誌という新しいメディアの上で、
縦横無尽に、自由自在に、
クリエイティブを発揮していたと。
- 中原
- 挿絵画家、付録作家として、
20代のはじめから
編集会議に参加していたんですね。 - 彼の意見を採用するたび、
読者から熱烈な反響が集まるので
編集長からも、
どうして中原くんは
女の子の気持ちがわかるんだって、
不思議がられていたそうです。
- ──
- そう思いますよ、何でだろうって。
で‥‥何でなんですか?
- 中原
- いや、そう聞かれても、
本人は答えられなかったそうです。 - お父さんが幼いときに亡くなって、
おうちには、
お母さんと2人のお姉さんがいて。
- ──
- ええ。
- 中原
- だから、女学生の好みとか遊びを
身近に見てきたことが
あるにはあるかもしれない‥‥と
本人は言っていたそうですが。
- ──
- 自分にも‥‥わからなかったんだ。
- なぜ、自分の発想が、
世の中の女の子たちにウケるのか。
- 中原
- お母さんが、
アメリカの宣教師さんのおうちに、
住み込みで
はたらいていた時期があるんです。 - 淳一さんは学校に上がる前だったので、
そのおうちで、
ある期間、暮らしていたそうです。
- ──
- そこで、西洋文化に触れていた?
- 中原
- その可能性は、高いと言われています。
- その時代のことについて、
本人がほとんど語っていないので、
推測にはなるんですけれど、
そこで、西洋文化について、
いろいろ吸収したんじゃないかと。
- ──
- 洋雑誌を定期購読していただとか、
そういう事実があるなら、
その才能も、うなずけるんですが。
- 中原
- ええ、その宣教師さんのおうちに、
そういう類のものが、
あったかもしれないとは思います。
- ──
- でも、本当に、不思議ですね‥‥。
- 我流でつくった人形で見いだされ、
そのあと、
いきなり挿絵や付録で大人気って。
- 中原
- それが「才能」なんでしょうね。
それ以外に、説明のしようがない。 - 細かいことを挙げていけば、
観察力や集中力、
ものを捉える力とか手先の器用さ、
そういったことが、
普通じゃなかったんだと思います。
- ──
- それにしたって。
- 中原
- 小さいころから、着物の端切れで
コラージュをつくったり、
お姉さんの下駄に、絵をつけたり。 - お母さんの着なくなったお着物を
「好きに使っていいから」
って渡されて、
そこから膨らませていった。
- ──
- じゃ、おもちゃがわりにというか、
まずは「あそび」として。
- 中原
- 着物の縫製や生地を理解していて、
金襴緞子の、
きちんとした花嫁衣装の着付けも、
習わず、出来たそうです。
- ──
- 何だか、もう。
- 中原
- 義理の姉たち、
つまり淳一さんの娘から聞いたんですが、
お父さんに
着付けをしてもらうのが、
いちばんきれいで、楽だったって。
- ──
- 着ていて楽っていうのは、
着物の仕組みを、知っていたから。
- 中原
- お化粧の仕方も、
お父さんに教わったそうです。 - こんなふうに描いたら、
目が大きく見えるよ、とか(笑)。
2020-09-12-SAT
-
現在、発売中の「ほぼ日手帳2021」では
昭和の時代、雑誌という舞台の上で
イラストレーター、編集者、
ファッションデザイナー、
アートディレクター、スタイリスト‥‥と
多彩な才能を発揮した中原淳一さんの
別注版ほぼ日手帳WEEKSが
登場しています。
この発売を記念して、TOBICHI2では、
中原さんがうみだし、
昭和の時代の女の子たちをときめかせた
少女雑誌『少女の友』『ひまわり』の
「ふろく」を、
ずらりと一堂に展示しています。
いつも大盛況の中原さんの展覧会ですが、
ふろくだけを集めるのは、初のこころみ。
創意工夫と、かわいらしさと、
女の子たちへの思いがこめられていて、
じつに繊細で美しく、クリエイティブ。
現存する貴重な品々を、ごらんください。
会場では、別注WEEKSはもちろん、
中原淳一さんのグッズも販売いたします。
会期は、9月27日(日)まで。
くわしいことは
こちらの特設ページでご確認ください。