日本各地のミュージアムの
常設展示やコレクションを拝見してきた
不定期連載も、第10弾。
節目の回の今回は、北陸新幹線に乗って、
彼方に立山連峰を望む
富山県美術館におじゃましてきました。
ピカソやベーコンをはじめとする
珠玉の20世紀美術から、
ポスターや椅子など
デザイン分野のゆたかなコレクション、
さらには、富山県にゆかりの深い
瀧口修造さんの特別展示室まで。
ご案内くださったのは、
麻生恵子さん、稲塚展子さん、
八木宏昌さんの学芸員のみなさんです。
担当は「ほぼ日」奥野です。

前へ目次ページへ次へ

第5回 瀧口修造コレクション。

──
これまで、このシリーズの取材で、
瀧口修造さんのお名前が出てくるのを、
たびたび耳にしておりまして。
八木
そうですか。
──
はい、世界ではじめて
ジョアン・ミロの単行本を書いた人だとか、
シュルレアリスムの流れの中で
ご紹介いただく機会があったんですね。
でも、あまりに多才なので、
いったいどういう人なんだろう‥‥と、
申しわけございません、
いまいち、わかっておりません。
八木
なるほど、では、基本的なところから。
まず、何をしていた人なのかと言うと、
一言でいうのは難しいのですが、
詩人であり、
戦後の日本でもっとも影響力のあった
美術評論家の一人ですね。
──
はい。
八木
こちらが、瀧口さんの書斎の写真です。
このような部屋で、本を読んだり、
原稿を書いたりしながら‥‥
オブジェや芸術作品、収集物なんかが、
ごらんのように、所狭しと。
──
おお、わあ‥‥。
八木
この写真に写っている「物」たちを
当館で譲り受け、
年に4回、展示替えをしながら、
この展示室で紹介しています。

──
つまり、こちらに展示されているのは、
生前の瀧口さんがお持ちだったもの、ですか。
八木
はい。本や資料については、
当館で用意したものも混じっていますが、
基本的にはすべて、
瀧口さんのご遺族からお譲りいただきました。
──
おつきあいは、いつから‥‥。
八木
残念ながら、
わたしは生前にお会いできなかったのですが、
当館の前身である
富山県立近代美術館を設立するときに、
郷土が生んだ瀧口さんに助言を仰いだり、
館長に就任していただきたいと
お願いまでしているんですね。
──
そうだったんですか。
八木
でも、瀧口さんはご辞退なさいました。
ただ、郷土にできる美術館に対して、
当時活躍されていた東野芳明さんや大岡信さん、
そして初代館長となる小川正隆さんらに
協力するよう、依頼されていたようです。
また、美術館に思いを寄せた「告白的メモ」も
残されています。
──
ああ、館長に就任はできないけれども、
うれしいことだったんですね。
でも、瀧口さんのコレクションを、
こんなふうに、
少し変わった部屋で展示しているのは、
何か理由があるんですか。
八木
瀧口さんは、もともと、自分で集めてきた、
あるいは
自分のところに集まってきたものを、
「オブジェの店」という場所をつくって並べ、
人に見てもらいたいという思いがありました。
その「店」の「看板」が、これなんですが。

──
ローズ・セラヴィ‥‥?
八木
はい、ローズ・セラヴィというのは、
瀧口さんが親しくしていた
現代を代表する美術家のひとりである
マルセル・デュシャンの女性の偽名。
瀧口さんが自分の構想をデュシャンに知らせ、
命名と看板の文字を依頼したときに、
「それでは、わたしの名前を」
ということで贈られたそうです。
──
女性の偽名、というものがあったんですか。
デュシャンには。
八木
写真家マン・レイによる、
女性のような姿の写真作品もあります。
で、デュシャンが紙に書いた筆跡から、
こうして銅板に起こしたそうなんです。
──
かなり具体的に、
実現へ向け練っていた構想なんですね。
八木
ところが残念ながら、
存命中に実現はしなかった。
近代美術館の時代も展示はしていましたが、
富山県美術館として移転新築する際に、
建築家の内藤廣さんと相談をして、
瀧口さんのコレクションを、
本人の希望だった
オブジェショップのような見せ方をしよう、
というふうに決めたんです。
──
なるほど。
それで、この特別な空間ができた、と。
八木
内藤さんも、富山県美術館にとっては、
瀧口修造という人物が
ひとつの大きな核となっていることを
強く意識されていましたので、
他の展示室とは雰囲気のちがった部屋を、
設計してくださったんです。

──
あらためてですが、世界ではじめて、
ミロの本を書いたことも、すごいですよね。
本国スペインの人よりはやく‥‥って。
八木
瀧口さんは、1966年、
「ミロ展」開催のために来日したミロ本人と
はじめて会いました。
その際、
1940年にアトリエ社から出版された
著書『ミロ』を手渡しますが、
それが世界初のミロの単行本だということが判明し、
ミロはとても感動したそうです。
そのことをきっかけに、
ミロと、とっても親密になります。
大阪万博のために2度目の来日をされたときも
会いにいって、詩の草稿を手渡したり。
──
ミロ自身、親日家だったそうですよね。
渋谷の東急Bunkamuraでやっていた
ミロの展覧会で、
大きなタヌキの信楽焼と撮った写真が
飾られていたような。
八木
その展覧会を、7月16日から当館で開催します。
──
そうですよね! でも、瀧口さんって、
どんなふうにミロを知ったんですかね。
本が出たのって戦争の前の話ですよね。
八木
具体的な経緯はわからないのですが、
当時シュルレアリスムに触れるなかで、
情報は少ないながらも、
限られた雑誌や
シュルレアリスムの機関誌などから、
存在を知ったんだと思います。
本人があとから書いていますけど、
このアトリエ社の仕事のときに、
海外での発行物を一生懸命にあたって、
ミロの図版を探されたそうです。
──
本を書いた時点では、
ミロの現物って見ていたんでしょうか。
八木
1932年に
「巴里・東京新興美術展覧会」が開催され、
そこにミロの油彩が2点出品されているので、
瀧口さんは観ていたと思います。
また、1937年、山中散生とともに
「海外超現実主義作品展」を開催し、
複製を含むミロの作品を多数展示しています。
──
なるほど。
でも、当時、たとえば萬鉄五郎さんなんか、
雑誌の『白樺』に載ったゴッホを見て、
憧れて‥‥とか聞きますけど、
現代のわれわれから考えると、すごいですよね。
当時の印刷って、
クオリティもそんなに高くないでしょうし。
八木
より知りたいという気持ちはあったでしょうね。
シュルレアリスムに惹かれた瀧口さんは、
ミロに限らず、
シュルレアリストたちの動向を調べて
日本に紹介していたりもしました。
実際に、展覧会を企画して開催したり。
──
じゃあ、その過程で
海外のシュルレアリストの人たちとも、
やりとりが生まれていた、のかも?
八木
間違いなく交流されていたと思われますが、
残念なことに、
瀧口さんが持っていた記録の類は、
戦火で失われてしまったんです。
──
なるほど‥‥では、ここにあるものは。
八木
はい、国内外の芸術家をはじめ、
戦後に、瀧口さんが交流した人たちからもらったり、
自身が集めたり、そういうものばかりです。
とにかく、錚々たる美術史上の重要人物たちと
交流しているのがわかります。
ところで、わたしはもともと美術が専門ではなく、
現代詩から瀧口修造を知ったんですね。

──
あ、そうなんですね。
八木
でも、この展示室に並んでいるような
瀧口さんの関わったアーティストについて
調べていたら、
こうして「学芸員」になったんですよ。
──
それだけ「広かった」っていうことですね、
瀧口さんのお付き合いが。
八木
そうなんです。
瀧口修造と交友関係のあった作家を
徹底的に学べば、
近現代美術を見渡せる、というか。
──
お聞きしていると、
何だか、図書館みたいな人ですね。
八木
ただし、ミロやデュシャン、ダリなど、
どうしても有名人との交流にばかり
目が行ってしまいますが、
じつは、瀧口さんにとっては、
有名無名、そんなの関係ないのですよ。
興味があれば、
たとえ、ちいさな個展をやっている、
名前も知らない作家であっても、
ミロやデュシャンと、
変わらないおつきあいをされているんです。
──
わけへだてのない人だった。
八木
瀧口さんが本当にすごいのは、そこなんです。
有名無名を問わず同じ態度で付き合い、
あらゆる「美術」と公平に接した。
ここに展示されているものも、
こちらは
赤瀬川原平の1000円札裁判の押収品です、
こっちにはオノ・ヨーコの作品もあります、
とか、どうしても
そういう紹介になってしまうのですが。
──
それだと、瀧口さんっぽくない‥‥と。
八木
そうです。
瀧口さんが集めたものも、
なんてことのない「ビー玉」だったり、
変わったデザインのボタンだったり。
経済価値が高いとか、
ネームバリューがあるとかではないところで、
大切にされてきたものばかりなのです。

──
いろんな価値を、フラットに捉えていた。
八木
そこが、もっとも重要な点だと思います。
オブジェショップという構想にしても、
「ショップ」という名がついていますが、
企業家や商人のように
販売してお金がほしいわけではなく、
こうやって、自分の元に集まってきたものを、
多くの人に「見てもらいたかった」んですね。
──
ようするに、
この展示室のようなことをしたかったんですね。
八木
そうじゃないかな、と。
この部屋に展示されているのは、
有名無名の作家たちが、
瀧口さんに持っていてほしい、
瀧口さんに見てほしい、
よろこんでほしいという一心で
プレゼントしたものがほとんどなわけですし。
──
それを売るという発想はないですよね。
八木
ないでしょう。
それを示すようなものの例として、
こちらは瀧口自身が制作した作品です。
デュシャンから届いた年賀状のミニチュアを複製して
自作とコラージュした友情の証というか。
アーティストとの関わりを、
より身近なものと捉えていた
瀧口さんならではの作品ですね。
──
なるほど。
八木
ただ、親しくつきあっていた人たちが、
有名になっていくことも少なくなかった。
そういう点で、
多くの有名作家を「瀧口が世に出した」といった
「瀧口神話」が、
生まれるようなことにもなっていった。
──
でも実際は、有名無名わけへだてのない、
美術を身近にとらえていた人だったと。
八木
この展示を通して、
そのことを伝えられたらと思っています。

──
きっと、
人に好かれるような人だったんでしょうね。
こんなにもたくさん、
人に「あげたい」って思われたわけですし。
八木
人が集まってくるんですよね。
そういう魅力を持った人だったのでしょう。
──
瀧口さんのまわりにいた人たちの
「思いや気持ちの集積」ということですね。
この瀧口さんのコレクションって。
八木
そう思います。
才能があり、人としての魅力があり、
有名人でもあったわけですが、
本人は「ただの人でありたい」というような、
そういう謙虚な気持ちをお持ちだった。
これだけのビッグネームなのに、
自分が人に教え諭すなどおこがましいといって、
講演会の依頼もほとんど受けず、
審査なども、極力断わられていたそうです。
──
なるほど。
八木
そう考えると、
自由な発言や行動を重視した瀧口さんは、
公立美術館の館長にはなれないということを
自覚されていたのだと思います。
──
ああ、本当ですね。
八木
そういった瀧口さんの人間像までも、
この展示室では伝えられたらいいなと、
思っています。

(終わります)

2022-07-15-FRI

前へ目次ページへ次へ
  • 開館5周年記念「ミロ展ー日本を夢みて」 7月16日(土)からスタート!

    「ミロ展ー日本を夢みて」

    東京、愛知と巡回し大盛況だった
    「ミロ展ー日本を夢みて」が
    7月16日(土)より、
    いよいよ富山県美術館へやってきます。
    世界ではじめて、
    本国スペインよりも早く
    ミロの本を書いた
    瀧口修造さんゆかりの地・富山で、
    大人気だった展覧会をしめくくります。
    親日家だったミロと日本の関係に
    注目した展覧会には、
    スペインやニューヨークなど世界から
    ミロ作品が集結します。
    詳しいことは展覧会の公式ページで。

    常設展へ行こう!

    001 東京国立博物館篇

    002 東京都現代美術館篇

    003 横浜美術館篇

    004 アーティゾン美術館篇

    005 東京国立近代美術館篇

    006 群馬県立館林美術館

    007 大原美術館

    008 DIC川村記念美術館

    009 青森県立美術館

    010 富山県美術館