日本の西洋美術館としては最古参、
このシリーズで
いつか訪問したいと思っていた
大原美術館に、ついに行ってきました!
倉敷の美観地区に建つ西洋建築に
一歩足を踏み入れれば、そこには
エル・グレコの《受胎告知》から
モネ、セザンヌ、ピカソ、マティス、
モディリアーニ、藤田、ポロック‥‥。
日本における
西洋美術との出会いの歴史でも
いちはやく収集され、
紹介されてきた
名だたる傑作がズラリと並びます!
学芸課長の
吉川あゆみさんにうかがいました。
担当は「ほぼ日」奥野です。

撮影:ERIC

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第1回 孫三郎さんと、虎次郎さん。

──
ずっとうかがいたいと思っていました。
わー、ついに来ました(笑)。
吉川
ようこそおいでくださいました(笑)。
大原美術館は1930年に設立されて、
何度か増築されますが、
こちらは、創立当初の建物になります。
──
おお‥‥日本初の私立の西洋美術館の、
重厚な雰囲気をズーンと感じます。
吉川
倉敷の、のんびりした町並みの一角に、
こうした建物ができたことは、
当時なかなか衝撃的だったと思います。

──
周囲の美観地区の風景も、
当時からあまり変わってないんですか。
吉川
はい。50年くらい前からは、
倉敷の町並み保存もはじまりましたし。
ただ古めかしいだけでなく、
この町並みを美しく残すことが重要と、
早くから意識づけられています。
──
さっそくですが、
大原美術館のなりたちについて、
あらためて、
教えていただいてもいいですか。
吉川
はい、ご存知かもしれませんが、
当館は、大原孫三郎という
倉敷の実業家によって設立されました。
孫三郎は辣腕実業家であったと同時に、
病院や研究施設をつくるなど、
社会事業を多く手がけた人物としても
評価されているんです。
労働科学の発展にも大きく貢献したり。
──
労働科学。
吉川
倉敷紡績の社長だったわけですが、
当時の紡績工場と言えば、
細井和喜蔵の『女工哀史』の世界。
過酷な労働状況をいかに改善して、
はたらく人にも、雇用主にも、
どちらにも良い環境を
どうやってつくっていくか。
労働者の幸せに力点を起き、
さまざまな改革をなしたことで、
現在でも、評価されている人なんです。
──
中公新書から出ている
『大原孫三郎―善意と戦略の経営者』
のサブタイトルそのものですね。
吉川
ですから、この大原美術館も、
大原孫三郎の社会事業のひとつとして、
位置づけることができると思います。
ただ、孫三郎は、
もともと東洋美術のコレクターとして
かなり有名で、
国宝級の作品も所有していたのですが、
西洋美術には
それほど興味がなかったんです。
──
え、そうだったんですか。
モネ、セザンヌ、ゴーギャン、ルソー、
モディリアーニ‥‥西洋の名品が
こんなにもズラ~リと並んでいるのに。

吉川
はい。そこには、大原美術館設立の
もうひとりの立役者、
児島虎次郎が大きく関わってきます。
──
画家の児島虎次郎さん。
虎次郎さんが、洋画を教えてくれたと。
吉川
当時、孫三郎と父・孝四郎のつくった
奨学生制度に応募してきたのが、
東京美術学校へ入った虎次郎でした。
虎次郎が面接を受けにやってきて、
そこではじめて、
二十歳そこそこのふたりが出会います。
──
え、歳も同じくらいなんですか。
吉川
そうなんです。ひとつちがいでした。
若いふたりは意気投合したのでしょう、
虎次郎は
大原家の支援を受けながら
美術の勉強することになったんですね。
期待に応えるべく懸命に取り組み、
美術学校の研究科に在籍しているとき、
東京府の博覧会で、一等賞をとります。
──
おおー。
吉川
当時の美術界で熱い注目を集めていた
博覧会でしたから、
虎次郎の受賞を
孫三郎は我がことのようによろこび、
本場ヨーロッパへ留学させるんです。
──
そうなんですか‥‥。
いや、孫三郎さんと虎次郎さんって、
てっきり
歳の離れた友情関係だったのかなと、
思い込んでいたのですが。
吉川
ちがうんです。ともあれ、そうやって
虎次郎はヨーロッパへ留学します。
当時は、日本で美術を志したとしても
本場ヨーロッパの絵画など、
ほとんど見る機会はありませんでした。
──
日本初の私立の西洋美術館である
大原美術館さんの設立前、ですものね。
萬鉄五郎さんなんかも、
雑誌『白樺』に載った白黒のゴッホを
食い入るように見ていた‥‥とか。
吉川
そういう時代に虎次郎は、
幸運にも留学し、
美術館やギャラリーで本場の絵に触れ、
教会へ行けば、そこでも
何百年も前の名画を見ることもできた。
西洋絵画、油絵を
実際に見ながら学ぶことができました。
そのような環境に置かれたとき、
虎次郎の心に、
「これらの絵を日本へ持って帰りたい」
という思いが生じたのでしょう。
その虎次郎の思いが膨らんでいき、
いまの大原美術館の礎となったのです。
──
なるほど。虎次郎さんの作品が、
この、美術館に入ってすぐの真正面に
象徴的にかけられているのも、
そんな意味があったというわけですね。
吉川
はい、そうなんです。
もう20年くらい、ここにあります。
児島虎次郎という日本人の画家が、
ベルギーで、日本の着物を着た
ベルギーの少女を描いた作品です。
よく見ると、
うしろに日本風の人形も見えます。

──
ほんとだ。
吉川
これぞ日本、という町並みの一角に
いきなり現れる西洋的な建物で、
そういう絵を最初にごらんいただく。
西洋と東洋とがぶつかりあい、
混じり合う美術館の入口に、
相応しい作品じゃないかと思います。
──
ベルギーという地名が出ましたが、
虎次郎さんが留学したのはパリですか。
当時、黒田清輝さんはじめ、
みなさん、パリへ行きますけれども。
吉川
ええ、最初に学んだのはパリですけど、
のちにベルギーへ移りました。
──
パリとベルギーって、距離的には
おとなりみたいな感じだと思いますが、
それって、めずらしいことですか?
吉川
はい、あまりいないと思います。
虎次郎の友人で太田喜二郎という人が、
当時、
ベルギーのゲントの美術アカデミーで
勉強していたんです。
虎次郎が太田のもとを訪れたときに、
華やかなパリとちがい、
落ち着いた雰囲気に惹かれたようです。
ゲントの美術アカデミーの
ジャン・デルヴァンという先生が
非常に教育熱心で、
その方の存在も大きかったと思います。
──
なるほど。
吉川
当時のベルギーには、
パリで誕生し一世風靡した印象主義と、
そのあとの
点描画法の新印象主義の影響とが両方、
同時にやってきていたんです。
──
おー、スーラの
《グランド・ジャット島の日曜日の午後》
みたいな絵の影響が、
モネとかルノワールなんかと、
時間差なしに、いっぺんにやってきた。
吉川
段階的ではなく一気に、だったそうです。
色あざやかで
ハッキリしたタッチの絵の様式に、
虎次郎の作品も、
まともに影響を受けている感じですね。
──
虎次郎さんは、西洋の絵を学ぶことと、
日本に西洋の絵を持ち帰ること、
両方の志を持っていた人なんですね。
吉川
虎次郎が一度目の留学から帰国する際、
孫三郎に、
「ひとつだけ作品を買って帰りたい」
とお願いしているんです。
それがアマン=ジャンの《髪》でした。

エドモン=フランソワ・アマン=ジャン《髪》 エドモン=フランソワ・アマン=ジャン《髪》

──
おお‥‥。
吉川
アマン=ジャンの《髪》を日本で展示し、
手応えを得た虎次郎は、
2回目の欧州留学へ向かったときに、
「本格的に収集したい」
と、はやい段階で伝えていたようです。
しかし、なかなか承諾が降りなかった。
OKが出たのは、渡欧1年後くらい。
おそらくですが、
何度も何度もお願いしているはずです。
──
虎次郎さんの熱意が、届いたんですね。
吉川
孫三郎にしてみれば、
東洋の美術には興味がありますけれど、
西洋の美術は、まだよくわからない。
世の役に立つことにお金を使いたいと
思っていた孫三郎にとって、
西洋美術を買いつけてくることが、
どれほど人々の役に立つのか、
当初計りかねていたのかもしれません。
──
なるほど。
吉川
ともあれ、熱意に燃える虎次郎が、
自らの目と足とで買い集めてきたのが、
このあたりの作品になります。
──
シャヴァンヌ、ゴーギャン、ボナール、
モネ、シニャック、ロートレック‥‥。
吉川
すごいですよね(笑)。
──
なんたる、錚々たる。
吉川
実際に買い集めてきた虎次郎にしても、
それをゆるした孫三郎にしても、
やはり日本の人々に西洋画を見せたい、
そうすることで
世の役に立ちたいと思っていたんです。
当館のコレクションは、
そうした「収集する意義」のところが、
かなり明確です。
そこが特徴的なんだろうと、思います。

──
ちなみに、こういう作品って、
虎次郎さん、
どういうところで買ってたんですか。
素朴すぎる質問ですみませんが‥‥。
吉川
パリ近辺にいたアーティストの場合、
直接訪ね、交渉して購入しています。
モネもそうですし、
これから見るマティスも、ですね。
虎次郎2回めの留学のときに
そんなふうにして買い集めた作品を、
1921年、
倉敷の小学校で一般公開するんです。
20点ほどだったのですが、
遠方からもたくさんの人が見に来て、
展覧会は大成功を収めるんです。
──
おおー、やった。
吉川
すると、こんどは孫三郎から、
もっと収集を続けようということで、
虎次郎は3度目の渡欧をする。
──
当時の市井の人々って、
ほとんどはじめて西洋の絵画を‥‥
それも、
モネやゴーギャンを見たわけですが、
どう感じたんでしょうね。
吉川
衝撃的だったと思います。
──
見たことのないような絵ですもんね。
吉川
当時、西洋絵画は少しずつ
日本に入ってきてはいたんですけど、
やはり、
質的に群を抜いていたと思いますし。
しかも、東京ではなく、この倉敷で。
──
すごいことです。
当時、東博さんはありましたけれど、
いわゆる美術館というものって‥‥。
吉川
ほぼ、なかった時代です。
──
ちなみに、大原美術館よりも先んじて
このような西洋美術を
見ることのできる施設はありましたか。
吉川
基本的に博物館だけですね。
東京国立博物館に少しあったようです。
私立の美術館ということであれば、
東京の大倉集古館がありましたけど、
あちらは日本や東洋の古美術で、
作品の種類がまったく違いますので、
この分野では、当館が最古参です。
──
孫三郎さんと虎次郎さんのおかげで、
日本における
西洋美術の最古参の美術館が、
この、倉敷の地にうまれたんですね。
吉川
そうなんです。

(つづきます)

2022-02-16-WED

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