
批評家の東浩紀さんのこと、知っていますか?
活動に特に触れていない方だと、
以前は『朝生』などの討論番組に出ていた方、
現在はSNSなどでよく名前を見かける方、
といった印象でしょうか。
いま東さんは「ゲンロン」というご自身がつくった
会社をベースに、本を書いたりイベントに出たり、
経営をしたり、さまざまな活動をされています。
そして東さん、実は糸井重里も
そのスタンスを「いいな!」と感じていたり、
ふたりの考えることが時折なぜか重なっていたり、
ほぼ日内に東さんの活動が好きな乗組員が何人もいたり、
どうも共通しているところが、なにかある方。
今回、いろんな縁が重なって(ほぼ日内の東さんファンと
ゲンロンの方どちらもが希望していたこともあって)、
ふたりの対談が実現することになりました。
と、東さんのいまの興味は「言葉」なのだとか。
討論番組などで登場する激しい言葉とは別の、
「本当に現実を動かす言葉」とはどういったものか。
まったく簡単には言い切れない「言葉」のまわりで、
ふたりがじっくり話していきました。
東浩紀(あずま・ひろき)
1971年東京都生まれ。批評家。
東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。
株式会社ゲンロン創始者。
専門は現代思想、表象文化論、情報社会論。
1993年に批評家としてデビューし、
1998年に出版した
『存在論的、郵便的』でサントリー学芸賞受賞、
『クォンタム・ファミリーズ』で三島由紀夫賞、
『弱いつながり』で紀伊国屋じんぶん大賞、
『観光客の哲学』で毎日出版文化賞を受賞。
ほか、主な著書に『動物化するポストモダン』、
『一般意志2.0』『ゆるく考える』
『ゲンロン戦記』『訂正可能性の哲学』
『訂正する力』など。
- 糸井
- だけど僕、東さんがテレビの討論番組などで
くさりがまを振るっていたあの時代に、
東さんのTwitterのアイコンがずーっと
お嬢さんの写真だったのは、いいなと思ってました。
- 東
- 子どもの写真をアイコンにするって、
昨今の風潮では許されないですけど(笑)、
あの頃は子どもの写真にしてる人が多かったんで
僕も使っていたんですよね。
- 糸井
- そうかも。
- 東
- でも僕も、あのときのアイコンが
いちばん気に入ってて。 - あれ、うちの娘が「むー!」みたいな、
不服そうにブスーってしてる写真なんですね。 - 娘は当時あの顔をすごいやってたんですけど、
最近聞いたら、あれはとにかく
「本来自分はいろんなことができるはずなのに、
絵を描いてもまっすぐ線も引けないし、
塗るのもいつもぐずぐずになっちゃう」と。 - そういう「自分はもっとできるはずなのに、
こんなにできないなんて!」が嫌なときに、
自分はあの顔をしてたんだと言っていて。
- 糸井
- はぁー。
- 東
- で、ちょっとできすぎた話ですけど、
娘のその顔を当時の僕がずっと
Twitterのアイコンにしてたって、
その通りだなと思ったんですよ。
「僕もあのとき本当に、自分のいろんなことについて
まさにそう思ってたんだよ」みたいな。
- 糸井
- 完璧。
- 東
- そうなんです。
- 糸井
- 同時に、武芸者がくさりがまを回してるとき、
子どもの存在ってたぶん邪魔なんですよね。
戦うとき、人質に取られかねないものですから。 - だけどあそこにそういう家族の写真を
出してること自体に、東さんの
「俺は武芸者であるだけじゃないよ」が
表現されてたと思うんです。
- 東
- このあたりも時代が変わってますけど、
10~15年前だとリベラル系の人たちって、
いまよりもっとマッチョだったんです。 - 知識人と言われてる人たちも、
独身主義だったり、子どもがいても
その部分をまったく出さなかったり。
「俺は常に飲んだくれてて、
家族を顧みず、論壇ガンガンいくぜ」
みたいな人がすごく多かった。 - でも僕はそういうのがちょっと苦手だったんです。
- たとえば結婚してるとか、
ちっちゃい子どもがいることって、
「それは自分の人生のなかにあることなんだから、
もっと普通に発信すればいいんじゃないの?」
って思ってたんです。
- 糸井
- その感覚は、いいですね。
- 東
- で、いまはそういうのが普通になってきたから
目立たなくなりましたけど、
そのあたりのマッチョイズムって、
2010年代にもまだかなりあったと思いますね。
- 糸井
- 僕が子どものときはまだ戦後が入ってますから、
「殴り合って仲良くなった」みたいなことが、
自慢話のように語られていて。 - だから世代的に、自分の中にも
そういうもののかけらは入ってるはずなんです。
- 東
- ええ。
- 糸井
- だけどそういう発想でワッと動くって、
必要以上に動きすぎちゃうんですよ。 - たとえば「命が危ないところに突っ込んでいく」
みたいな態度も、やっぱり演技であり、
そこにあるのは決意だけですから。 - その動きは物語はつくってくれるけど、
翌日のことは考えてくれないんです。
- 東
- わかります。
さて翌朝、冷静になってみると
「あれでよかったんだろうか‥‥」みたいな。
- 糸井
- 実際には、翌日以降にも責任を持つというか
──まぁ、責任という言葉も曖昧ですけど、
「そこをないがしろにしてない人」として
チームをつくらないと、
会社ならみんなが食いっぱぐれるわけですよね。 - やっぱり翌日からの「未来」もあるし、
それから「現在」が大事でもあって。
- 東
- そうです、そうです。
- 糸井
- だからそこでの
「俺は男一匹、これで行くんだ。てやんでえ!」
みたいな態度って、
「それ、お前はいいだろうけど、周りのやつに
えらい迷惑だよ」みたいなところがあって。 - 昔はそういう姿がかっこいいという価値観があったから、
みんなジャンジャンそっちに行ってて。
だけどそれ、よくよく考えると
「ほんとにそうか?」みたいな(笑)。
- 東
- まあそういうあり方って、ある種の
「男の子的な幼児性」への憧れかなとも
思うんですよね。
- 糸井
- ああ、そうですね。
- 東
- 日本の言論界も、ある時期まで、
そういう感覚がもてはやされてた空間で。
だからその部分はやっぱり変えなきゃいけなくて、
実際に変わってきたんだと思うんです。 - ただそういうことって、
フェミニストの方とかからすると
「女性差別」的な話に聞こえるかもしれないですけど、
僕からすると、これはむしろ
「幼児性」の話かなと思ってて。 - 「大人の男にならずに、ずっと男の子であり続けたい」
みたいな思いが、けっこうあって。
- 糸井
- そうですね。「立派な男の子」ですよね。
- 東
- はい。みんな「男の子」であり続けてる人を
「あいつすげーね。ずっと子どもっぽくていいよね」
とか言うんだけど、実はそのあたりが
ちょっとダメなんじゃないかな、みたいな。
- 糸井
- 言論界もそうだし、きっと芸能であれ、政治であれ。
- 思えば「男の子的幼児性への憧れ」って、
すごい支配的なイデオロギーですよね。
- 東
- なんかみんな、ある種の幼児性が好きなんですよね。
- 糸井
- それは物語をつくりやすいんですよ。
- つまり現実の世界だと、強い人はけっこう強いし、
周到な人はすごく周到に安全にやってて、
自分が入り込める余地がない。
そういう若いときに感じやすい気持ちというのがあって。
まあ子どもは全部そうですよね。 - でも物語の世界では、そういうのが幼児性によって
ひっくり返る瞬間があって、
そういう話っておもしろいし、気分もいいし、
かっこよく見えるわけです。
けんかにしてもやっぱり
「自分の安全をかえりみず突っ込んでいく」
お兄ちゃんがかっこいいとか。 - でもそれ、映画を見てる分にはいいけど、
やっぱり逆転に期待する子どもの発想なんですよ。
- 東
- 日本の場合、漫画にしてもアニメにしても、
そういう話がすごい多い気がするんです。
「幼稚なまま、ただ1つのことだけを
思いつづけてたやつが大逆転」みたいな。 - みんな、そういう物語にいろいろ仮託しちゃってて。
- 糸井
- ええ。
- 東
- 日本の男性って成熟を忌避しているというか、
「成熟はかっこ悪い」と思っているところが
どこかあるんですよね。
他の国でも同じなのかもしれないですけど。 - で、自分はあるときから
「そういう態度は克服していかないとな」
と思うようになったんです。
(つづきます)
2025-06-19-THU
