シェイクスピア、歌舞伎、万葉集、ダーウィン。
2018年の開講以来、
古くて新しい古典に取り組んできた
ほぼ日の学校が、2020年最初の講座に据えるのは
作家・橋本治さんです。
題して「橋本治をリシャッフルする」。
今年1月の早すぎる死を悼みつつ、
橋本治さんが私たちに遺してくださったものを
じっくり考えていきたいと思います。
橋本治さんの作品は、
読者にどんな力を与えたのか?
橋本治さんはどんな人だったのか?
開講を前に、縁のあった方々に
お話を聞かせていただきました。

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第3回 「あの日の橋本クンがいる」 おおくぼひさこさん 写真家

橋本治さんが「自然な顔」を見せた、
とても信頼する写真家がいます。
レンズを介して見つめ合い、
スタイリングでいっしょに遊び、
いつも、おもしろいこと、
本当にやりたいことを追いかけた仲間。
それが、おおくぼひさこさん。
高い評価を受けた『窯変 源氏物語』は、
光源氏の一人語りというスタイルと
橋本治的解釈が画期的だったことに加えて、
おおくぼさんが添えた
スタイリッシュな写真も大きな反響を呼びました。

その他にも一緒に取り組んだ雑誌連載がいくつもあり、
おおくぼさんの花の写真集『DARK MOON』に
橋本さんが詩のような文を添えたり、
おおくぼさんの個展の展示を橋本さんが手伝ったり……
ふたりは「仕事」を口実にして
いつも遊んでいたのではないかと思うのです。

作家になる前、イラストレーターだった頃から
亡くなる直前まで、
「橋本クンはずっと変わらない。
全然変わらない。少年のままだった……」
そう語るおおくぼさんに、
思い出を少し聞かせていただきました。

棚から落ちてきた文庫

——
出会いはどうやって?
おおくぼ
加藤登紀子さんが30歳のときの
ライブのポスターを作るときに、
「デザインは橋本クンがいいんじゃない?」
とおっしゃったので、当時、
イラストレーターでデザインもしていた
彼に会ったのが最初です。1973年くらいだと思います。
何回目かに会ったとき、
モスグリーンのマニキュアをしていたんです。
橋本クンも私も(笑)。
感性に近いものがあるのかな……と思いました。
——
写真に関しても近い感性を感じられた、
ということですか?
おおくぼ
そうかもしれませんね……。
仲井戸(ギタリスト、仲井戸CHABO麗市氏)に
加えて、もう一人、
私の写真を理解してくれる人ができたと
感じました。
——
写真が「わかる」って、
どうやってわかるのでしょう?
おおくぼ
表情とか写真への接し方、かな。
「ここがこうで、こうだからいい」
とかじゃなくて、
写真を見てもらった時のその人の表情で、
「あ、わかってくれたな」というのがわかるんです。
橋本クンも、何か言ってくれたとしても
「いいじゃん……」くらい。
でも、見せるのに安心な相手だということが
伝わってくるんです。
——
おおくぼさんが撮影された橋本さんの写真を見ると、
橋本さんもおおくぼさんを信頼して
安心して任せていらしたのが伝わってきますよね。

photo:おおくぼひさこ photo:おおくぼひさこ

おおくぼ
そういえば、びっくりすることがあったんです。
橋本クンが亡くなって何日か経ったある日のこと。
棚からポトンと一冊の文庫が落ちてきたんです。
『橋本治の明星的大青春』。
私の写真が使われていたんだけど、
知らないうちに使われていたので
ちょっと不本意で……
出版されたとき(97年)は、
読まないで棚に挿していたんです。
それが、なぜか落ちてきた。一冊だけ。
手に取ると、あとがきに「写真」という一章があって、
私の撮影をどう感じていたのかが書いてあったんです。
亡くなってから、これを私、初めて読みました。
——
ここですね。
「『仕事で知り合ったカメラマン』の
ひとりに、おおくぼひさこさんがいてね、
彼女と一緒に仕事をする機会がだんだん
増えて来たんですよ。彼女の撮った写真を
オレがデザインするとかがあって、
彼女の撮った写真をはじめて見た時に、
『不思議な写真を撮る人だな』と思った。
『どう不思議か』は説明できなかったんだけど、
その不思議な感じが好きだったから、
彼女と一緒に仕事できるのはうれしかったですよ。
(中略)
シリーズの写真で10何カットか撮って、
それはカメラ雑誌にも載ったんだけど、
写真見て、すごくうれしかった。
『自分がいたい世界はここだ』というか、
『自分が生きてるってことは
〝こういうことだ〟って言えるように
していたいな』と思ってた、その感じが
そのまま写真にあったから。
『プロだからきれいに撮ってくれた』って
いうんじゃなくて、
『あなたはそのまんまでいいのよ』って
写真が言ってくれているような気がしてね。
(中略)
『そのまんまの自分』とか、
『自然な自分』とかっていうのは、
自分ひとりの頭の中にはあるけど、でも、
自分ひとりじゃ作れないのよ。
人間て不思議なもんで、
『自分を自然にしてくれる他人』がいる時に、
一番自然になるの。
中学までの自分はそうだったから、
そのこと思い出して、すごく自然になれた」
最大級の褒め言葉ですね。
おおくぼ
こんなこと書いてくれていたの、
ぜんぜん知らなかったんです……。
でも、この本が落ちてきたのは、
きっと橋本クン、
私に読ませたかったんじゃないのかな
……って思うの。
——
そうとしか思えませんね。

「やりたい」方に動く人種

photo:おおくぼひさこ photo:おおくぼひさこ

おおくぼ
彼のことを考えていたら、
「ミュージカルを書いた」と言って
原稿の束をもってきた夏の日のことも思い出したんです。
1979年に出た『カメラ毎日』に、
「3年くらい前」と書いているから、
1976年ころのことだと思います。
原稿用紙を300枚ほどと、ラジオカセットを抱えて
橋本クンが我が家に来たんです。
仲井戸に「ボク、ミュージカル書いたんだ。
曲のつけ方、教えてヨ」って。
キャストも決めていましたよ。
一人で盛り上がって歌っている彼を見て、
私たちは「この人、大丈夫かな」なんて
心配していました(笑)。
そのころ、イラストから文章を書くことに
気持ちが移り始めていたのかも……。
その後、『桃尻娘』が大ヒットして、
売れっ子作家になっちゃうんです。
そのときのミュージカル「ボクの四谷怪談」は
後に蜷川幸雄さんの演出で上演されました。
あの頃の私たちって、
「これで暮らしていけるか」とか全く考えないで、
自分が「やりたい」と思ったら、
そっちに動く人種だったなあとつくづく思います。
——
高度成長期を背景にして、
70年代の方が自由な空気がある部分は
あったような気がします。
おおくぼ
そうかもしれませんね。
60年代の終わりから70年代、
新しい雑誌も次々と生まれて、
社会全体に「それまで正しいとされてきた
価値観を壊す」みたいな流れもあって、
私たちはちょうどそこにいた。
今の人たちは一見自由そうに見えて、
一方で「ちゃんとしたレール」を
考えているのかもしれない。
あの頃の私たちの方が、
自由にやりたいことをやっていた
かもしれませんね。
——
おおくぼさんの写真の中にいる橋本さん、
本当に楽しそうで、
やりたいことをやっている顔をしています。
おおくぼ
彼は気をつかってくれる人だから、
いつも朗らかな笑顔だったけど、
違う表情を見たこともあるんです。
何だったか覚えていないけど、
京都の写真展で私が難題を持ちかけた時に、
とても真剣な顔を見ました。
シャープでかっこ良かった……。
一人のときの表情はこんな感じかもしれない、と
思ったことが強く印象に残っています。
——
それもまた、おおくぼさんだから
安心して見せられた顔だったのでしょうね。

photo:おおくぼひさこ photo:おおくぼひさこ

おおくぼ
そうかもしれません……。
こうして写真を振り返ってみると、
「この日の彼がここにいる。まぎれもなく、
この瞬間があったんだな」と思うんです。
一方で、「私は、なんでこんなこと
考えてるんだろう」とも思う。
本人がいなくなっちゃったから……
なんですよね。
「あの日の橋本治クン」の姿を、
きちんとまとめないといけないな……
とも思っています。

photo:おおくぼひさこ photo:おおくぼひさこ

おおくぼひさこさんプロフィール

青山学院大学在学中、写真研究部に籍を置く。卒業と同時に、管洋志氏のアシスタントとなる。同年、『カメラ毎日』に作品を掲載。エディトリアル、レコードジャケットなど手掛けるようになる。1985年、自身のオフィス「プラステン」を設立。主な写真集に『THE RC SUCCESSION』『DARK MOON』『写真集窯変源氏』などがある。

(つづきます。次は作家の藤野千夜さんです。)

2019-11-28-THU

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