外出自粛暮らしが2ヵ月を過ぎ、
非日常と日常の境目が
あいまいになりつつあるようにも思える毎日。
でも、そんなときだからこそ、
あの人ならきっと「新しい思考・生活様式」を
身につけているにちがいない。そう思える方々がいます。
こんなときだからこそ、
さまざまな方法で知力体力を養っているであろう
ほぼ日の学校の講師の方々に聞いてみました。
新たに手にいれた生活様式は何ですか、と。
もちろん、何があろうと「変わらない」と
おっしゃる方もいるでしょう。
その場合は、状況がどうあれ揺るがないことに
深い意味があると思うのです。
いくつかの質問の中から、お好きなものを
選んで回答いただきました。

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「ダーウィンの贈りもの I 」第4回授業で
「胎児さん」の知られざる姿を貴重な映像とともに
楽しく聞かせてくださった増﨑さん。
他の講師の方の授業も積極的に受講され
好奇心全開で、深い質問をされる姿が印象的でした。
医療関係者にとって緊張のつづくこの間、
増﨑さんが何をなさって、
どんなことを考えていらっしゃるのか、
とても興味がありました。
戻ってきたお返事は、私たちの想像を超えて、
「巨木と盆栽」の生命をめぐる滋味深いエッセイでした。
2回に分けてお届けします。

●それぞれの生をたどる3本のクスノキ

家に籠れと言われると外へ出たくなる。
外へ出ろと言われると家に籠りたくなる。
外へ出て何をするか、家に籠って何をするか。
そんなことは知ったことか、
ひとりひとり、やりたいようにやればいい。
私は家に籠って掌に雑草を玩ぶ。
外に出れば巨木の巡礼だ。

私は佐賀県伊万里市の生まれだから、
隣の武雄市に巨大なクスノキがあることは
子供時代から知っていた。
武雄市は温泉のある古い町で、
日本で何番目かに大きなクスノキがある。
「川古のクスノキ」は、
車の通るような道の傍に立っているからとても目立つ。
明るい場所で育った、
のどかさを感じさせる健康なクスノキである。

写真1:川古のクスノキ(日当たりのいい場所にある) 写真1:川古のクスノキ(日当たりのいい場所にある)

一方、武雄神社の裏山にある「武雄のクスノキ」は、
川古のクスノキと同じくらい巨大で古そうだが、
うっそうとした森の斜面に崩れそうに立っている。
何やら樹霊にでも取りつかれたような、
暗い過去のありそうな、
不気味な気配を持ったクスノキである。

写真2:武雄のクスノキ(薄暗い場所にある) 写真2:武雄のクスノキ(薄暗い場所にある)

明るい場所で育った「川古のクスノキ」は、
そういう場所に種が落ちたから
明るい環境を手に入れることができた。
一方の「武雄のクスノキ」は
日陰の運命を背負って生まれてきた。
樹木は生まれる場所を選べない。
すべては 運命 さだめ である。
つまりヒトと同じじゃないか。

「武雄のクス」が陰鬱さをたたえているのは、
暗い場所にあるからだけではない。
その幹には大きな うろ ができている。
今は木の周りを柵で囲ってあるが、
以前は虚の中に入ることができた。
そこは八畳ほどの広さで、
どこからともなく「ジーン」という音がふってくる。
あるいは、そんな気がしただけかもしれない。
何だか背筋がぞっとするような気配があった。

この2本のクスノキは古くから有名だったが、
じつは当地方にはより知られたクスノキがあった。
出島の商館医であったケンペルは329年前、
そのクスノキのことを伝え残した。
写真のまだなかった時代、
同じく商館医のシーボルトは194年前、
お抱え絵師にその木を描かせ、
大著『NIPPON』に掲載した。
それが「小田のクスノキ」と呼ばれた 3本目の巨樹である。

小田のクスノキ(Ph.Fr. von Siebold: NIPPON(1897)より) 小田のクスノキ(Ph.Fr. von Siebold: NIPPON(1897)より)

●樹木の1年は、人間にとっての12日

先に掲載した「川古のクスノキ」は2005年に撮影した。
傍に子供が写っている。私の長女で、当時小学生だった。
それから15年になる。
子供は成人し、社会との接触を増やしつつあるが、
生まれ落ちてまだ20数年である。
私は50年ほど前からこの木を見ている。

ものの本によれば、
このクスノキの樹齢は3000年であるという。
それを読んだ私は、
ふと3000年という時間を思うのである。
時間は川のように流れて戻ることがない。
だが流れのスピードは、
私とクスノキでは違っているのではないか。
私にとっての50年はそれなりの長さだが、
3000年を生きてきたクスノキにとっては、
もしかすると、わずかな時間なのかもしれない。
宇宙における時間は絶対でも、
生き物にとっての時間は相対的なものなのだろうか。

人の一生を100年、樹木を3000年と仮定すると、
木は人の30倍生きる。
つまり木の時間は我々の1/30で経過する。
ならば、我々の30年は樹木の1年。
1年は12日、1か月は1日、1日は48分、
我々の1時間は樹木の2分に相当する。そう考えると、
人がいかに一生を急いで駆け抜けようとしているか、
木の姿がなぜゆったりとしているように
我々に見えるのかが分かってくる。

なぜ私たちは、大きな樹木を見て癒されるのか、
葉擦れの音を聞くうちに心安らぐのか。
その理由は、我々と樹木との「時間に対する感覚」の
相違にあると気付かされるのである。我々には、
樹木はゆったりとしているように感じられる。
はたして木から見た人の姿はどんなものだろうか。
我々がゴキブリの走り回るのを見るようなものだろうか。
あくせく動き回っているように見えるのだろうか。
人に見える世界とは全く違った世界が、
巨樹巨木にはあるように思われる。

●樹木に記憶があったなら

人には見たいものしか見えていない。
網膜に映ることと、その存在を意識することとは
別物なのだ。この年齢になって、
そのことを自覚できるようになった。

森の中に分け入ると人は何を見るだろうか。
たとえば美術館の中で好きな絵だけが見えているように、
やはり森のなかでも
人ごとに見えているものは違っているだろう。
その個々人における情報の差異が、
人と人とを違った存在に変える。
脳内へ投入される情報は同じでも、
それを感知するかしないかの違いが、
意識の違いを作り出す。
そのことは人に多様性をもたらすかもしれない。
人はとなりの人と同じではない。
見かけが異なるように、互いの精神世界も違っている。

生まれ落ちたときは、
見えているものにさほどの差異はなかったであろう。
だが成長とともに、
見えているものに多様性が生まれる。
自分の見ている光景が
年とともに変化することに気づいて、
つまり老人になってみて、目の前にあるものが、
人によって見えたり見えなかったりしていることに、
どうやら気づいたようである。

人の寿命はせいぜい100年でしかない。
植物のなかには3000年とか5000年とかを
生きているものがいる。
それなら、あの者たちが見ているもの、
見てきたものは何なのだろうか?
残念だが樹木は話をしない。
記録をとることも伝達することもしない。
もしあの者らに記憶というものがあるなら、
それはいったいどんなものなのだろうか?

●巨木が伝説になるまで

巨樹巨木、古樹古木、老樹老木、
呼び名はいろいろあるだろうが、巨大で古い木は
おおかた神社や寺や城や公園や
学校などに植わっている。
神社や寺については、巨樹そのものが
信仰の対象だった可能性も考えられる。

人は巨大なモノに自然な畏怖を覚える。
木は巨大になると本来の樹木の有する
特徴的な樹形を崩壊させる。
台風で折れた枝跡には瘤ができ、
土は崩れて根は地上に露出する。
空気に触れた根は異様に大きくなって、
樹木全体を地上から持ち上げる。
辺りより高くなった木には
雷が落ちて中心部は消失する。
すると枝は四方八方にのび拡がる。
幹に生じた傷からは焼けが入り、
そこから幹の中心部に空洞ができる。

こうして年とともに、樹形は本来の三角形(スギ)、
逆三角形(ケヤキ)あるいは丸い樹形(クスノキ)から、
異形ともいえそうな怪奇なすがたに変身する。
人は、そこに神様や仏様を見る。
幹の瘤がお化けの顔に見えたり、
全体が巨大な動物のすがたに見えたりする。
すると人は、木の周囲にしめなわを巻き、
祠を祀るようになる。
巨大な口に向かって誘うかのように、
石段のついた、亡霊樹とでも呼びたくなるような、
巨大だが腐りかけたような
「武雄のクスノキ」のことだ(写真2)。

やがて巨木は神話と結びつけられ、
樹木にまつわる伝説が生まれる。
偉い坊さんの杖から生じたとか、
須佐之男命が植えたというような物語である。
「小田のクスノキ」には幹に空洞があり、そこに
最初の大僧正・行基が彫った馬頭観音像があったという。
そのことはケンペルやシーボルトが書き残している。
だが先日、私は武雄へ行き
「小田のクスノキ」の変わり果てた姿を見た。

●忘れられたクスノキの生き残り戦略

長崎街道は長崎から小倉に至る路線で、
江戸時代に整備された。
途中に25の宿場があり、その一つが小田宿である。
1691年にはケンペル、1826年にはシーボルトが、
いずれも江戸参府の途次に小田宿を通過した。
二人はクスノキの巨大な姿に驚嘆し、
シーボルトは絵師(おそらく川原慶賀)に
それをスケッチさせた。
だが「小田のクスノキ」は、今では
川古や武雄のクスノキほど所在が知られていない。

私は武雄市のヒバリのなく菜の花畑を歩き回り、
やがて道端に置かれた「観音下」の道標をたよりに
「小田のクスノキ」を発見した。
それは、今も巨木として知られる
川古、武雄のクスノキと違って、
幹が3本に分かれていた。右端の1本は本来の主幹で、
幹幅は3メートルほどもあるが、
すでに死んでいるように見えた。

この枯木を思わせるクスノキこそ、
シーボルトが川原慶賀を遣わして描かせた
「小田のクスノキ」なのであった。
昔はさぞ巨大だったに違いない。

写真3:小田のクスノキ(枯れたように見える右端からの3本)
写真3:小田のクスノキ(枯れたように見える右端からの3本)

残念無念と思いながら近づいてよく見ると、
なんと遺残部分の表皮の一部が生きており、
その部位で隣の木とつながっているではないか。
「小田のクスノキ」は、その大部分は枯れたが、
生き残ったわずかな樹皮から
次世代となる枝を出していた。
さらに2番目と3番目の木も互いにつながっている。
「小田のクスノキ」は、自分自身は朽ちていきながら、
子孫を残すことができた。
親子3代を継代することで生きてきた。

孤独に生きた2本のクスノキとは別の意味で、
このクスノキもまた、
私に深い安らぎの念を与えてくれた。
3000年という悠久とも思える長い時間の中にも、
いや長い時間だからこそ、生き続けるための
ギリギリの戦いが水面下で続けられていたのだ。

●校歌となって生きる

最後に、ケンペルやシーボルトが
長崎から江戸に至る途上で見た
最大のクスノキについて触れておこう。

今は消滅したこのクスノキは、
「二ノ瀬のクスノキ」と呼ばれていた。
すなわち「二ノ瀬」という土地に
植わっていたと推定される。調べてみると、
武雄の近くに大楠小学校という学校の
あったことが分かった。現在の地名を調べると、
東彼杵町菅無田二ノ瀬という地名が見つかった。
あとは芋づる式で次々と状況が見えてきた。
「二ノ瀬のクスノキ」は
大楠小学校の校庭にあったが、明治20年頃、
国道改修のため売り飛ばされ伐採されてしまった。
過去には世界中に知られていた
「二ノ瀬のクスノキ」は、その面影だけが、
小学校の校歌の中に生きていた。

はるかに続く山脈の姿の如き大楠に
まつわる歴史うけつぎて
誇り守らん誇り守らんおお我等
(大楠小学校校歌)

シーボルトはこの木をワクワクしながら計測した。
近くの小屋に住む老人からは、
この木が弘法大師の杖から生じたという話を聞いた。
シーボルトは老人の話は信じないとしながらも、
この木が弘法大師と同時代(8世紀)から
存在したことは認めている。

失われた木は二度と戻らない。
今後、その木が生きてきただけの年月が過ぎても、
同じような長命の樹木が出現するとは限らない。
生命は一度きり。
それは全ての生き物に共通の宿命である。
シーボルトもまた、そう感じたことだろう。
最後の絵は、シーボルトが日本人絵師に描かせた、
在りし日の「二ノ瀬のクスノキ」である。

二ノ瀬のクスノキ(Ph.Fr. von Siebold: NIPPON(1897)より) 二ノ瀬のクスノキ(Ph.Fr. von Siebold: NIPPON(1897)より)

(後編:「愛玩雑草」につづきます)

プロフィール

医師。長崎大学附属図書館長。長崎大学名誉教授。長崎大学医学部卒業。1999年から2000年までロンドン大学へ留学。2019年より現職。日本産科婦人科遺伝診療学会理事長などを歴任して、産婦人科の世界をリードしてきた。著書に『密室』『密室II』『動画で学べる産科超音波』など。最相葉月さんとの共著に『胎児のはなし』がある。1952年、佐賀県生まれ。

(つづく)

2020-06-06-SAT

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