外出自粛暮らしが2ヵ月を過ぎ、
非日常と日常の境目が
あいまいになりつつあるようにも思える毎日。
でも、そんなときだからこそ、
あの人ならきっと「新しい思考・生活様式」を
身につけているにちがいない。そう思える方々がいます。
こんなときだからこそ、
さまざまな方法で知力体力を養っているであろう
ほぼ日の学校の講師の方々に聞いてみました。
新たに手にいれた生活様式は何ですか、と。
もちろん、何があろうと「変わらない」と
おっしゃる方もいるでしょう。
その場合は、状況がどうあれ揺るがないことに
深い意味があると思うのです。
いくつかの質問の中から、お好きなものを
選んで回答いただきました。

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3000年もの歳月を重ねてきた巨木に流れる時間。
それに比べて人間に流れる時間の
なんとあわただしいことか——。
そんな話を書いてくださった増﨑英明さんの
「新しき生活様式」後編は、
巨木から一転して、掌におさまる、
それはそれは愛らしい盆栽のお話です。

●雑草盆栽との出会い

家に籠れと言われると外へ出たくなる。
外へ出ろと言われると家に籠りたくなる。
外へ出て何をするか、家に籠って何をするか。
そんなことは知ったことか、
ひとりひとり、やりたいようにやればいい。
今日の私は、家に籠って指先で雑草を玩ぶ。

春らしい麗らかで気持ちの良い日、
家人が大掃除を始めると、
私は邪魔者以外の何ものでもない。
しめた、と私は庭へ出る。
そして休日のすべての時間を使って盆栽棚を一巡する。

一鉢ずつ手に取って、
茶の作法のように手の中で鉢を回す。
こうして盆栽たちにやる気を起こさせる。
一人一人に目をかける。声をかける。
人間とて同じことだ。
昼が来て、ふと庭の景色が変わっていることに気付く。
地面の一部分だけが、目だって明るい。

敷石の陰あたりに、小さな紫の光が固まっている。
眠っていた スミレ が、
春の光に反応して花弁を開いた。
朝の間は隠していた自己を解き放ったのである。
泣き顔でうつむいていた少女が首を伸ばし、
輝くばかりの笑顔で空を仰ぎ見る。そんな風情だ。
いったん気付くと、鉢の中や庭石のわずかなくぼみにも、
スミレが紫の顔を見せている。自宅の庭なのに、
なぜスミレに気付かなかったのだろう。
不思議な気分に包まれた。

●表の顔と裏の顔

夕刻になり、あたりが薄暗くなると、
スミレがもたらした不思議の理由が判明した。
鋭角の光が庭の隅から自宅の玄関へと忍び寄る。
夜のとばりが家の中に差し込むが、
庭には光が残っていて、飛び石は何とか弁別できる。
しかしスミレは視界から消えていた。

庭に座りこんでスミレを探す。
そしてスミレの戦略を理解した。
静かに花弁を閉じ、
茎をゆるめて項垂れたスミレがそこにいた。
スミレは眠っているのである。

昼間に精一杯、花粉を振りまいたスミレは、
夜には翌日のために花弁を閉じ、
花粉を節約しているのだろう。
ちっぽけなスミレは、無駄のない、
効率的な戦略で、次世代への継承を進めていた。
何という自然のずる賢さ、けち臭さ。
私は嬉しくなって、スミレの一片を小さな鉢に植えた。

「かたまって薄き光の菫かな」という
渡辺 水巴 すいは の句がある。寂寥感ただよう句だ。
朝方のスミレは、かたまって、というより寄り添って、
庭石の蔭で目立たず静かに、
ただそこにあるという感じで咲いている。

だが昼の強い光に触れると、どうだろう、
それまで薄い光の中で首をかしげていたスミレは、
曲げていた茎を傲然と太陽に差し伸べて、
一身にエネルギーを受け止める。
スミレには、表の顔と裏の顔がある。
優し気にうつむくスミレと、
気の強い勝気なスミレである。
掌に乗せてみれば、そのことがよく分かる。

日差しの中のスミレ 日差しの中のスミレ

●雑草盆栽のつくりかた

蒲公英 タンポポ が街路樹の根元に咲いている。
引き抜くと、細くて長い、
想像以上に丈夫な根が現れる。
伸ばすと20cmほどになる。
それを1cmに切り詰め、葉っぱは適当にむしって、
鉢に植えこむ。わずかばかりの土と苔をかけておく。

以前は、植物の根を切ることはおろか、
葉っぱを落とすことも、
枯らしてしまいそうでできなかった。
だが動物と同じで植物も冬眠する。
その間は根や葉が少なくても、春になれば発芽する。

植物は、目に見える部分(幹や枝や葉っぱ)と
目に見えない部分(根っこ)に分かれていて、
両者は量的に均衡する。
根っこを小さくすると、地上部分も小さくなる。
枝葉を切ったら、根っこも切る。
これが盆栽造りの極意だが、
簡単そうで難しいことは人間に似ている。

もう一つ重要なカラクリがある。
小さい鉢に植えると、根の成長は抑制され、
地上部の成長もとどこおる。
すると葉は小さくなり、背は伸びず、枝は密になる。
これを何年も継続していれば、
やがて大根だった根は細い髭に変化する。
植物は器の大きさに適応する。
つまり小さな器には小さな植物が育つ。
これもまた人間と同じだろう。

言わずもがなだが、やっぱり言っておく。
目に見えない部分の方が、
目に見える部分より大切なこともまた、
植物と人間とのアナロジーである。

街路樹の根元で拾ったタンポポは、
葉っぱの隙間から蕾が黄色くのぞいていた。
それから数日で満開を迎えた。
そして綿毛となって飛び立つまでの間、
花は朝に開き夕方には閉じることをくり返した。
2014年の春である。

タンポポのつぼみ(2014年) タンポポのつぼみ(2014年)

だが盆栽の盆栽たる由縁は、
つまり切り花との相違は、次の年も、
また次の年も咲き続けることだ。
2020年の騒がしい春にも、
どこ吹く風とタンポポは咲いてくれた。

開花したタンポポ(2020年) 開花したタンポポ(2020年)

●「雑草という名前の植物はありません」

その昔、昭和天皇は草を抜いている職員に尋ねた。
「何をしている」。職員は恐れ入りながらも
「雑草を抜いております」と答えたらしい。
この職員に限らない。
誰だって雑草を抜くのは当然だと思うだろう。

ところが昭和天皇は職員をきつくたしなめた。
「雑草という名前の植物はありません」
そう言われたそうだ。
「雑草」と一括りで呼んでしまうことの淋しさ。
自分で気付かぬうちに、
相手を傷つけることの愚かさ。

名前を付ける意味と、名前を呼ぶ大切さ、
この話はそんなことを教えてくれる。
今年も頑張って花を咲かせたタンポポに、
私は「おめでとう」と声をかけた。

●究極のコケ盆栽

コケ をわざわざ植えるはずがない。
どんなに花が好きでも、
コケに興味を示すとは思えない。

ある晴れた春の日に、あるコケに出会うまで、
それがコケに対する私の立ち位置であった。

庭に出て、木の枝を見る。葉芽や花芽を探す。
頭の中は放心状態である。ふと鉢を持ち上げる。
そこにコケが生えていた。珍しくもない。

だが、その日の網膜は、コケの身体から出ている
細い針金のようなものを私の脳に送り届けた。
ハッと何かがひらめいた。

この突っ立っているのはコケの茎、
先っぽの膨らんでいるのは、
もしかしたら花じゃないの?
急いで他の鉢を探索する。すると、あるわあるわ、
そこら中にコケの花らしきものが突っ立っている。

●コケ世界の膨大さ

これは、とんでもない発見かも知れない。
いくつもコケを見るうちに、
コケにも違う種類があるのに気付いた。
本やテレビから得る知識以外に、
自分自身で何かを発見することなど、
一生のうち何度もは経験できない。

もちろんノーベル賞とは無関係だが、
それでも大いに喜ぶべき出来事である。
私は久しぶりで大いに興奮した。

だがそれも植物図鑑を開くまでのことだった。
コケは1万種以上に分類され、
それぞれに名前が付いている。
誰がいったいコケなんかに(失礼!)
いちいち名前を考えるんだろう。
コケ世界の膨大さ、
コケに魅せられた群衆。

私の発見は小さなままに終わった。
コケとその周囲に集まる人たち、魑魅魍魎の世界を、
私は垣間見たような気がした。
一方で死ぬまでコケに出会わない人生だってある。
出会いは大事にしたい。そう考えた私は、
ごく小さな鉢を取り出すと、
コケをはぎ取って植えた。
それが「苔盆栽」を始める私の理由になった。

花の咲いたコケ 花の咲いたコケ

蕾の付いたコケ 蕾の付いたコケ

●雑草としての生き方

庭の隅に小さな菊みたいな花があった。
世間では「雑草」とよぶが、
じつは 鬼田平子 オニタビラコ という
強そうな名前を持っている。

私は1cmにも満たない黄色い花を見て、
「おのずからそのころとなるつりしのぶ」
という句を思い出す。
「つりしのぶ」は季節が来たから芽を出したのか、
はからずも芽を出す季節だったのか。
高浜虚子は自然の観察者だから言葉で写生する。

オニタビラコもまた、そういう季節になると、
おのずから花をつける。キク科なので、
拡大すればそのまま黄色い菊である。
繊細で綺麗だ。いつまでも見飽きない。

オニタビラコ(全開) オニタビラコ(全開)

私は、朝9時から午後4時まで、
2本のオニタビラコを見ていた。
花は9時に咲き始め、10時に全開し、
その状態は15時まで持続したが、
16時にはすべての花は店じまいした。

面白いと思った私は、
次の日も同じように観察を続けた。
そして次のことが分かった。

①オニタビラコの花は一日のうちに開閉する。
②午前10時から午後3時の間は全開する。
③できたての若いつぼみは、 一日では開花に至らない。
④咲き終えた花は2度は開花しない。

●花が散ったあとの菊の姿は……

雑草たちに無駄な時間はない。
そして、私はしばし考えた。
懸命に働く花の様子を、
のんびりと傍らで見ていた私の時間は、
果たして無駄な時間なのだろうか。

咲き終えたオニタビラコの花は、
綿毛のような種子にすがたを変えた。
茎は中途で折れ、葉っぱは千切れている。
綿毛はまるで白髪である。

ヒトでいえば老人だが、
次の世代を残し終えた姿と思えば、
安らかに見えないこともない。
いや、崇高でさえある。

オニタビラコ(種子) オニタビラコ(種子)

写真を撮りながら、私は思った。
「切り花にする菊も、捨てずに見ていれば、
こんな風に綿毛を作るのだろうか?」

そういえば今まで、
花後の菊がどうなるのか、見た覚えがない。
やはり見たいものだけを私は見ていたのだ。
何となく申し訳ない気がした。

風に誘われた種は空中をさまよい、
いずこかの土地に降りて、そこでもう一度生命を始める。
道端の野花は、一日の時間をはかり、
天候を見定め、風向きを気にしながら生きている。
それも自然のはかりごとなのだろうか。
まだ私には、分からないことばかりだ。

人は梅雨の前後に雑草を抜く。「雑草」とは、
ヒトの役に立たない、という意味だろう。嫌な言葉だ。
だが草自身にはどうでもいいことだ。
ヒトに好かれようと嫌われようと何の痛痒もない。

自分の見かけや臭いやたたずまいが、
自分と無関係の生き物(たとえばヒト)に
不快感を与えようが知ったことか。

住処だった田んぼを失くしたオニタビラコが、
ヒトの住居に侵入しても当然ではないか。
むしろ家を訪ねてくれた雑草を、こちらから迎えいれて、
「雑草盆栽」と洒落てみてはどうだろう。
雑草に限らない。
あらゆる生き物は(ウイルスでさえ)、
生きるための戦略を戦わせている。
さまざまに制限を余儀なくされている私たち人間も、
どうやら自然と共存して生きていくための戦略を
考えるべき頃合いなのだろう。
それぞれの人が、それぞれの才覚で、
それぞれの生き方を考えよう。
今だからこそ、それができる。
考える時間はたっぷりとある。

プロフィール

医師。長崎大学附属図書館長。長崎大学名誉教授。長崎大学医学部卒業。1999年から2000年までロンドン大学へ留学。2019年より現職。日本産科婦人科遺伝診療学会理事長などを歴任して、産婦人科の世界をリードしてきた。著書に『密室』『密室II』『動画で学べる産科超音波』など。最相葉月さんとの共著に『胎児のはなし』がある。1952年、佐賀県生まれ。

(つづく)

2020-06-07-SUN

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