外出自粛暮らしが2ヵ月を過ぎ、
非日常と日常の境目が
あいまいになりつつあるようにも思える毎日。
でも、そんなときだからこそ、
あの人ならきっと「新しい思考・生活様式」を
身につけているにちがいない。そう思える方々がいます。
こんなときだからこそ、
さまざまな方法で知力体力を養っているであろう
ほぼ日の学校の講師の方々に聞いてみました。
新たに手にいれた生活様式は何ですか、と。
もちろん、何があろうと「変わらない」と
おっしゃる方もいるでしょう。
その場合は、状況がどうあれ揺るがないことに
深い意味があると思うのです。
いくつかの質問の中から、お好きなものを
選んで回答いただきました。

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第17回 巡礼巨木・愛玩雑草(雑草盆栽編) 増﨑英明さん(産婦人科医)

3000年もの歳月を重ねてきた巨木に流れる時間。
それに比べて人間に流れる時間の
なんとあわただしいことか——。
そんな話を書いてくださった増﨑英明さんの
「新しき生活様式」後編は、
巨木から一転して、掌におさまる、
それはそれは愛らしい盆栽のお話です。

●雑草盆栽との出会い

家に籠れと言われると外へ出たくなる。
外へ出ろと言われると家に籠りたくなる。
外へ出て何をするか、家に籠って何をするか。
そんなことは知ったことか、
ひとりひとり、やりたいようにやればいい。
今日の私は、家に籠って指先で雑草を玩ぶ。

春らしい麗らかで気持ちの良い日、
家人が大掃除を始めると、
私は邪魔者以外の何ものでもない。
しめた、と私は庭へ出る。
そして休日のすべての時間を使って盆栽棚を一巡する。

一鉢ずつ手に取って、
茶の作法のように手の中で鉢を回す。
こうして盆栽たちにやる気を起こさせる。
一人一人に目をかける。声をかける。
人間とて同じことだ。
昼が来て、ふと庭の景色が変わっていることに気付く。
地面の一部分だけが、目だって明るい。

敷石の陰あたりに、小さな紫の光が固まっている。
眠っていた 菫 ( スミレ ) が、
春の光に反応して花弁を開いた。
朝の間は隠していた自己を解き放ったのである。
泣き顔でうつむいていた少女が首を伸ばし、
輝くばかりの笑顔で空を仰ぎ見る。そんな風情だ。
いったん気付くと、鉢の中や庭石のわずかなくぼみにも、
スミレが紫の顔を見せている。自宅の庭なのに、
なぜスミレに気付かなかったのだろう。
不思議な気分に包まれた。

●表の顔と裏の顔

夕刻になり、あたりが薄暗くなると、
スミレがもたらした不思議の理由が判明した。
鋭角の光が庭の隅から自宅の玄関へと忍び寄る。
夜のとばりが家の中に差し込むが、
庭には光が残っていて、飛び石は何とか弁別できる。
しかしスミレは視界から消えていた。

庭に座りこんでスミレを探す。
そしてスミレの戦略を理解した。
静かに花弁を閉じ、
茎をゆるめて項垂れたスミレがそこにいた。
スミレは眠っているのである。

昼間に精一杯、花粉を振りまいたスミレは、
夜には翌日のために花弁を閉じ、
花粉を節約しているのだろう。
ちっぽけなスミレは、無駄のない、
効率的な戦略で、次世代への継承を進めていた。
何という自然のずる賢さ、けち臭さ。
私は嬉しくなって、スミレの一片を小さな鉢に植えた。

「かたまって薄き光の菫かな」という
渡辺 水巴 ( すいは ) の句がある。寂寥感ただよう句だ。
朝方のスミレは、かたまって、というより寄り添って、
庭石の蔭で目立たず静かに、
ただそこにあるという感じで咲いている。

だが昼の強い光に触れると、どうだろう、
それまで薄い光の中で首をかしげていたスミレは、
曲げていた茎を傲然と太陽に差し伸べて、
一身にエネルギーを受け止める。
スミレには、表の顔と裏の顔がある。
優し気にうつむくスミレと、
気の強い勝気なスミレである。
掌に乗せてみれば、そのことがよく分かる。

日差しの中のスミレ 日差しの中のスミレ

●雑草盆栽のつくりかた

蒲公英 ( タンポポ ) が街路樹の根元に咲いている。
引き抜くと、細くて長い、
想像以上に丈夫な根が現れる。
伸ばすと20cmほどになる。
それを1cmに切り詰め、葉っぱは適当にむしって、
鉢に植えこむ。わずかばかりの土と苔をかけておく。

以前は、植物の根を切ることはおろか、
葉っぱを落とすことも、
枯らしてしまいそうでできなかった。
だが動物と同じで植物も冬眠する。
その間は根や葉が少なくても、春になれば発芽する。

植物は、目に見える部分(幹や枝や葉っぱ)と
目に見えない部分(根っこ)に分かれていて、
両者は量的に均衡する。
根っこを小さくすると、地上部分も小さくなる。
枝葉を切ったら、根っこも切る。
これが盆栽造りの極意だが、
簡単そうで難しいことは人間に似ている。

もう一つ重要なカラクリがある。
小さい鉢に植えると、根の成長は抑制され、
地上部の成長もとどこおる。
すると葉は小さくなり、背は伸びず、枝は密になる。
これを何年も継続していれば、
やがて大根だった根は細い髭に変化する。
植物は器の大きさに適応する。
つまり小さな器には小さな植物が育つ。
これもまた人間と同じだろう。

言わずもがなだが、やっぱり言っておく。
目に見えない部分の方が、
目に見える部分より大切なこともまた、
植物と人間とのアナロジーである。

街路樹の根元で拾ったタンポポは、
葉っぱの隙間から蕾が黄色くのぞいていた。
それから数日で満開を迎えた。
そして綿毛となって飛び立つまでの間、
花は朝に開き夕方には閉じることをくり返した。
2014年の春である。

タンポポのつぼみ(2014年) タンポポのつぼみ(2014年)

だが盆栽の盆栽たる由縁は、
つまり切り花との相違は、次の年も、
また次の年も咲き続けることだ。
2020年の騒がしい春にも、
どこ吹く風とタンポポは咲いてくれた。

開花したタンポポ(2020年) 開花したタンポポ(2020年)

●「雑草という名前の植物はありません」

その昔、昭和天皇は草を抜いている職員に尋ねた。
「何をしている」。職員は恐れ入りながらも
「雑草を抜いております」と答えたらしい。
この職員に限らない。
誰だって雑草を抜くのは当然だと思うだろう。

ところが昭和天皇は職員をきつくたしなめた。
「雑草という名前の植物はありません」
そう言われたそうだ。
「雑草」と一括りで呼んでしまうことの淋しさ。
自分で気付かぬうちに、
相手を傷つけることの愚かさ。

名前を付ける意味と、名前を呼ぶ大切さ、
この話はそんなことを教えてくれる。
今年も頑張って花を咲かせたタンポポに、
私は「おめでとう」と声をかけた。

●究極のコケ盆栽

苔 ( コケ ) をわざわざ植えるはずがない。
どんなに花が好きでも、
コケに興味を示すとは思えない。

ある晴れた春の日に、あるコケに出会うまで、
それがコケに対する私の立ち位置であった。

庭に出て、木の枝を見る。葉芽や花芽を探す。
頭の中は放心状態である。ふと鉢を持ち上げる。
そこにコケが生えていた。珍しくもない。

だが、その日の網膜は、コケの身体から出ている
細い針金のようなものを私の脳に送り届けた。
ハッと何かがひらめいた。

この突っ立っているのはコケの茎、
先っぽの膨らんでいるのは、
もしかしたら花じゃないの?
急いで他の鉢を探索する。すると、あるわあるわ、
そこら中にコケの花らしきものが突っ立っている。

●コケ世界の膨大さ

これは、とんでもない発見かも知れない。
いくつもコケを見るうちに、
コケにも違う種類があるのに気付いた。
本やテレビから得る知識以外に、
自分自身で何かを発見することなど、
一生のうち何度もは経験できない。

もちろんノーベル賞とは無関係だが、
それでも大いに喜ぶべき出来事である。
私は久しぶりで大いに興奮した。

だがそれも植物図鑑を開くまでのことだった。
コケは1万種以上に分類され、
それぞれに名前が付いている。
誰がいったいコケなんかに(失礼!)
いちいち名前を考えるんだろう。
コケ世界の膨大さ、
コケに魅せられた群衆。

私の発見は小さなままに終わった。
コケとその周囲に集まる人たち、魑魅魍魎の世界を、
私は垣間見たような気がした。
一方で死ぬまでコケに出会わない人生だってある。
出会いは大事にしたい。そう考えた私は、
ごく小さな鉢を取り出すと、
コケをはぎ取って植えた。
それが「苔盆栽」を始める私の理由になった。

花の咲いたコケ 花の咲いたコケ

蕾の付いたコケ 蕾の付いたコケ

●雑草としての生き方

庭の隅に小さな菊みたいな花があった。
世間では「雑草」とよぶが、
じつは 鬼田平子 ( オニタビラコ ) という
強そうな名前を持っている。

私は1cmにも満たない黄色い花を見て、
「おのずからそのころとなるつりしのぶ」
という句を思い出す。
「つりしのぶ」は季節が来たから芽を出したのか、
はからずも芽を出す季節だったのか。
高浜虚子は自然の観察者だから言葉で写生する。

オニタビラコもまた、そういう季節になると、
おのずから花をつける。キク科なので、
拡大すればそのまま黄色い菊である。
繊細で綺麗だ。いつまでも見飽きない。

オニタビラコ(全開) オニタビラコ(全開)

私は、朝9時から午後4時まで、
2本のオニタビラコを見ていた。
花は9時に咲き始め、10時に全開し、
その状態は15時まで持続したが、
16時にはすべての花は店じまいした。

面白いと思った私は、
次の日も同じように観察を続けた。
そして次のことが分かった。

①オニタビラコの花は一日のうちに開閉する。
②午前10時から午後3時の間は全開する。
③できたての若いつぼみは、 一日では開花に至らない。
④咲き終えた花は2度は開花しない。

●花が散ったあとの菊の姿は……

雑草たちに無駄な時間はない。
そして、私はしばし考えた。
懸命に働く花の様子を、
のんびりと傍らで見ていた私の時間は、
果たして無駄な時間なのだろうか。

咲き終えたオニタビラコの花は、
綿毛のような種子にすがたを変えた。
茎は中途で折れ、葉っぱは千切れている。
綿毛はまるで白髪である。

ヒトでいえば老人だが、
次の世代を残し終えた姿と思えば、
安らかに見えないこともない。
いや、崇高でさえある。

オニタビラコ(種子) オニタビラコ(種子)

写真を撮りながら、私は思った。
「切り花にする菊も、捨てずに見ていれば、
こんな風に綿毛を作るのだろうか?」

そういえば今まで、
花後の菊がどうなるのか、見た覚えがない。
やはり見たいものだけを私は見ていたのだ。
何となく申し訳ない気がした。

風に誘われた種は空中をさまよい、
いずこかの土地に降りて、そこでもう一度生命を始める。
道端の野花は、一日の時間をはかり、
天候を見定め、風向きを気にしながら生きている。
それも自然のはかりごとなのだろうか。
まだ私には、分からないことばかりだ。

人は梅雨の前後に雑草を抜く。「雑草」とは、
ヒトの役に立たない、という意味だろう。嫌な言葉だ。
だが草自身にはどうでもいいことだ。
ヒトに好かれようと嫌われようと何の痛痒もない。

自分の見かけや臭いやたたずまいが、
自分と無関係の生き物(たとえばヒト)に
不快感を与えようが知ったことか。

住処だった田んぼを失くしたオニタビラコが、
ヒトの住居に侵入しても当然ではないか。
むしろ家を訪ねてくれた雑草を、こちらから迎えいれて、
「雑草盆栽」と洒落てみてはどうだろう。
雑草に限らない。
あらゆる生き物は(ウイルスでさえ)、
生きるための戦略を戦わせている。
さまざまに制限を余儀なくされている私たち人間も、
どうやら自然と共存して生きていくための戦略を
考えるべき頃合いなのだろう。
それぞれの人が、それぞれの才覚で、
それぞれの生き方を考えよう。
今だからこそ、それができる。
考える時間はたっぷりとある。

プロフィール

医師。長崎大学附属図書館長。長崎大学名誉教授。長崎大学医学部卒業。1999年から2000年までロンドン大学へ留学。2019年より現職。日本産科婦人科遺伝診療学会理事長などを歴任して、産婦人科の世界をリードしてきた。著書に『密室』『密室II』『動画で学べる産科超音波』など。最相葉月さんとの共著に『胎児のはなし』がある。1952年、佐賀県生まれ。

(つづく)

2020-06-07-SUN

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