
- わたしはただいま40代、
両親は日本が敗戦して5、6年後くらいに生まれた世代、
祖父母は青春期が太平洋戦争真っ只中だった世代です。 - うちの祖父たちは招集される寸前で戦争が終わりました。
正確にいうと、母方の祖父は招集されたものの
戦地に赴く前に8月15日を迎え、
わたしには
「南方に行く船のタラップに足をかけたところで
引き返せって命令が出た」と言っていました。
父方の祖父は大学で工学を勉強していたそうで、
文系の友だちが招集されるなか、
大学に残っていることが心苦しかったようです。
わたしが子どものころ、
夏になるたびに戦争の話をしてくれたのですが、
語り出すと間もなく感極まってポロポロ涙を流して、
あとが続かなくなってしまうのが常で、
当時の祖父の気持ちを想像して胸がキュッとなりながらも、
毎年のことだったので、
集まった叔父叔母や従兄弟たちと「もうまた‥‥」と
苦笑していました。
「おじいちゃんの友だちはなぁ、特攻でなぁ、
みんな帰ってこおへんかった」
そう言うか言わないかのところで涙が溢れて絶句、
しばらく嗚咽し、
落ち着いたところで「戦争はあかんで」と言う祖父でした。 - 親族の中にはもちろん、兵隊として戦地に赴いた人もいて、
お盆で集まると(田舎なので大集合)、
さまざまな話を聞かせてもらいました。
思えば、日本は太平洋戦争だけでなく、
それまでもずーっと戦時下にあったわけです。
祖母の父は軍医として3回も戦地に赴き、
毎回ちゃんと帰ってきた人で、
祖母は「お父さんが帰ってくるたんびに嬉しかったけれど、
無事に帰ってくるお父さんばっかりじゃないから。
仲良しの子のお父さんやお兄さんが亡くなったと聞いたら
申し訳なかった」と話していました。 - わたしの小学校の教科書には
「ちいちゃんのかげおくり」が掲載されていて、
丸木位里さん丸木俊さんの原爆の図も
教科書で初めて目にしたと思います。
「はだしのゲン」は学級文庫でボロボロになるまで
みんなに読み込まれていましたし、
高学年になるとグループで
地域のお年寄りに戦時中のお話を聞きに行く活動もありました。
夏休みの登校日には全校生徒が体育館に集まって、
対馬丸をテーマにしたアニメ映画や、
広島長崎のドキュメンタリーの鑑賞会。
また「火垂るの墓」もみんなで観ました。
あのころは清太のおばさんが怖くて、
戦争になったら
親戚のおばさんたちもあんな風になるのかと思って、
ゾーッとした記憶があります。
いま、わたしはあのおばさんの年代。
明日の自分たちの食糧さえ不安な中、
なお親戚の子を家に招き入れることが
自分に出来るだろうかと思うと、
そんなギリギリの状況に陥らないことを祈るばかりです。 - 数年前、海外からのお客さんを連れて、
奈良を観光したことがありました。
歴史好きで接待好きの大叔父が案内をかって出てくれて、
若草山に登り、大仏を見て、平城宮跡を歩いたあと、
スイス人の16歳の青年が「おじさんに質問がある」と
言い出した場面がありました。
「おじさんは戦争を経験した世代ですか?
戦争が終わったときはどうでしたか?」
という若者からの質問に、
80歳をとうに超えた大叔父は「明るかった!」と答え、
一同面食らって、
わたしは通訳が間違っていたかとヒヤッとしたのですが、
大叔父は満面の笑顔で
「夜でも電気つけ放題になってなぁ。明るかったんやー!
嬉しかったで!」と言い放ち、
灯火管制について身振りを交えて説明してくれました。
この青年たちは奈良の前に広島を訪問し、
原爆資料館にも行っていたので、
戦争経験者の話を直に聞きたいと思ったようです。
彼とはその後も会うことがあるのですが、
そのたびに大叔父との会話が話題にのぼります。
大叔父は亡くなりましたが、
1945年のあのときの彼の気持ちを、
遠いスイスで知ってくれている人がいる不思議。
伝えるということはささやかだけれど強いですね。 - とりとめもなく書きました。
- (はみ)
2025-11-17-MON

