
- わたしは「東京サレジオ学園」という児童養護施設で
30年ほど前に働いていました。
小平市にあるカトリック教会が母体となっている
男子限定の児童養護施設です。
当時は幼稚園児から18歳までの男子が約120名、
広大な敷地に建つ
7棟の家に分かれて生活をしていました
(今は100名ほどが入所しているそうです)。
神父に聞いたところによると、
戦災孤児を引き取り養育をするために
サレジオ学園がはじまった、とのことでした。 - 「上野にトラックで行って、子どもたちをガーっと集めて
トラックに乗せて連れて来たんだよ」
「結局、逃げちゃう子もいたけどね」
「広い部屋にベッドがバーっといっぱい並べられていて、
子どもたちの服には名前じゃなくて番号が書いてあって、
なんだか刑務所みたいに‥‥」と、
サラッと昔話をして下さる神父の話を、
興味津々に聞かせていただいていました。 - 戦争については、戦地に赴いた方の悲痛な話や、
市井の人々の苦労話、疎開先での悲話などは聞くのですが、
戦災孤児の話はほとんど蔑ろにされているような印象を
昔から持っていました。
でも、ずいぶん前にNHKで戦災孤児の特集番組があり、
そこに映されていた当時戦災孤児だった方々は、
「あまりにも辛くて悲しくて、
自分が戦災孤児だったことを隠して生きて来た」と
泣きながら仰っていて、本当に胸が詰まりました。
頼れる大人がいないどころか、
むしろまわりの大人たちから蔑まれ邪魔者扱いされ、
野良犬のように生きて行かなければならなかった戦災孤児たち。 - 「児童養護施設の子どもは二重に疎外される」と言われています。
「家族」から疎外され、「社会」からも疎外される‥‥と。
実際に今もそれは続いていて、
児童養護施設出身という理由で結婚を断られるということも
現実に起きています。 - 戦災孤児に思いを馳せてみると、家族を失って生きる術を無くし
孤立無縁になってしまった上に、
まわりの大人たちからも邪険にされ追い払われる日々。
子どもであることの無力さ、
どうしようもない苛立ちややるせなさ。
ただ自分が子どもであったというだけで、
被らなければならない不条理な辛苦。
本当にみんなどうやって戦後を生き抜いて来たのでしょうか。
餓死者や犯罪者も多かったと聞いています。
きっとそれぞれに、
未だに人には話すことのできないような思いを
抱えていらっしゃるのでは‥‥。
「戦争の悲惨さを伝えるために、いま話しておかなければ」
と考えることすら出来ないような思いを。 - 本当に子どもは無力です。
だって一人で働いて生きて行くことが出来ないのですから。
そして意見や考えを訴える機会も奪われています。
もしそんなことをしたいと思っても、
大人の力が無ければ出来ません。圧倒的に非力なのです。
全国で12万人もいたと言われている戦災孤児たちの声が
戦後80年経ってもなお
届いてこないことが気になって仕方ありません。 - (匿名さん)
2025-11-09-SUN

