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読者のみなさんから届いたお便り #91

 
わたしは「東京サレジオ学園」という児童養護施設で
30年ほど前に働いていました。
小平市にあるカトリック教会が母体となっている
男子限定の児童養護施設です。
当時は幼稚園児から18歳までの男子が約120名、
広大な敷地に建つ
7棟の家に分かれて生活をしていました
(今は100名ほどが入所しているそうです)。
神父に聞いたところによると、
戦災孤児を引き取り養育をするために
サレジオ学園がはじまった、とのことでした。
「上野にトラックで行って、子どもたちをガーっと集めて
トラックに乗せて連れて来たんだよ」
「結局、逃げちゃう子もいたけどね」
「広い部屋にベッドがバーっといっぱい並べられていて、
子どもたちの服には名前じゃなくて番号が書いてあって、
なんだか刑務所みたいに‥‥」と、
サラッと昔話をして下さる神父の話を、
興味津々に聞かせていただいていました。
戦争については、戦地に赴いた方の悲痛な話や、
市井の人々の苦労話、疎開先での悲話などは聞くのですが、
戦災孤児の話はほとんど蔑ろにされているような印象を
昔から持っていました。
でも、ずいぶん前にNHKで戦災孤児の特集番組があり、
そこに映されていた当時戦災孤児だった方々は、
「あまりにも辛くて悲しくて、
自分が戦災孤児だったことを隠して生きて来た」と
泣きながら仰っていて、本当に胸が詰まりました。
頼れる大人がいないどころか、
むしろまわりの大人たちから蔑まれ邪魔者扱いされ、
野良犬のように生きて行かなければならなかった戦災孤児たち。
「児童養護施設の子どもは二重に疎外される」と言われています。
「家族」から疎外され、「社会」からも疎外される‥‥と。
実際に今もそれは続いていて、
児童養護施設出身という理由で結婚を断られるということも
現実に起きています。
戦災孤児に思いを馳せてみると、家族を失って生きる術を無くし
孤立無縁になってしまった上に、
まわりの大人たちからも邪険にされ追い払われる日々。
子どもであることの無力さ、
どうしようもない苛立ちややるせなさ。
ただ自分が子どもであったというだけで、
被らなければならない不条理な辛苦。
本当にみんなどうやって戦後を生き抜いて来たのでしょうか。
餓死者や犯罪者も多かったと聞いています。
きっとそれぞれに、
未だに人には話すことのできないような思いを
抱えていらっしゃるのでは‥‥。
「戦争の悲惨さを伝えるために、いま話しておかなければ」
と考えることすら出来ないような思いを。
本当に子どもは無力です。
だって一人で働いて生きて行くことが出来ないのですから。
そして意見や考えを訴える機会も奪われています。
もしそんなことをしたいと思っても、
大人の力が無ければ出来ません。圧倒的に非力なのです。
全国で12万人もいたと言われている戦災孤児たちの声が
戦後80年経ってもなお
届いてこないことが気になって仕方ありません。
(匿名さん)

2025-11-09-SUN

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    特集 50/80 ヴェトナム戦争と太平洋戦争の記憶