
- わたしはもうすぐ20代に入るような年齢のものです。
いつだったか中高時代の夏に、
おじいちゃんの使っていた部屋を探検と称して、
ただ何か見つからないかと漁るつもりでしたが、
父を引き連れて、いろいろ見てみたことがあります。 - おじいちゃんといっても、
わたしが一歳のときに亡くなったので、
ほぼ面識がありません。
ほぼ他人のようです。
かつて仕事の都合で満州に行った
わたしの曾祖父さんのもとに生まれ、
小学校の年齢のころに本土へ行き進学して、
東京で終戦を迎えたそうです。 - 部屋からいろいろ出てきたのですが、
2枚の新聞を取り上げます。
ひとつは満州日日新聞が一枚。
どんな内容かわからないにしろ、
満州のものが家にあったのかと衝撃でした。
もうひとつが、終戦当日の新聞でした。
表紙に新聞社の名前が書いてあるページが一枚だけ。
玉音放送の原稿らしき記事が
ページの半分近くを占めていました。
これを見つけたときに、
いつのものかとかすれた日時を読んでみて、
これまた仰天しました。 - 当時、よく残しておけたなあと
てんで想像がつかないのですが、
思い返せば謎が深まる気がします。 - 満州の新聞は、
おそらくおじいちゃんが本土に行くときに
持っていったとしか考えられません。
(曾祖父さんは戦後に引き揚げたので、
新聞一枚だとしても
持って帰れたと思えないのです) - 終戦の日の新聞は
おじいちゃんが持っていたのかと思いますが、
当時は進学していた東京にいたはずです。
新聞が終戦当日の東京にあったのか‥‥
謎に思うのです。
新聞はじっくり見ることなく
しまってしまったのですが、
またじっくり見れば
何かわかるのかもしれません。 - おじいちゃんの部屋を探検していたとき、
時計の修理に関する紙が出てきました。
なんでこんなものがと思っていたら、
おじいちゃんがかつて時計屋でアルバイトをして
生活費を稼いでいたことを、
父ははじめて知りました。
あとで、おじいちゃんは大学予科にいたとか、
戦後に駅で見たという
お腹の膨れた子どもの話などを
父から聞いたものです。
話を聞いて思い浮かんだ東京は、
なんとも寂しいものでした。
しかしワハハと笑って話す父のようす
(いつもそういう風なのです)や、
晩年ごろに撮られたであろう、
これ以上ないほど笑っているおじいちゃん写真を
思い返すと、
意外とぴんぴんしてた気がしてきます。 - わたしは小学生のときに
地域の方の戦争の体験談を聞いたことはあっても、
もっとも身近な血縁者から聞く機会はないまま
今に至るのです。 - 最初におじいちゃんを他人のようだと
感じていたのに、
こうも親しみを感じるまでになったのは不思議です。
直に戦争の話を尋ねるのは躊躇いがありますが、
かつてどうおじいちゃんが生きていたのか、
直に話し合って知りたかったと考えたりしています。
案外、笑い飛ばして話してくれるのかもしれません。 - (匿名さん)
2025-11-08-SAT

