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読者のみなさんから届いたお便り #90

 
わたしはもうすぐ20代に入るような年齢のものです。
いつだったか中高時代の夏に、
おじいちゃんの使っていた部屋を探検と称して、
ただ何か見つからないかと漁るつもりでしたが、
父を引き連れて、いろいろ見てみたことがあります。
おじいちゃんといっても、
わたしが一歳のときに亡くなったので、
ほぼ面識がありません。
ほぼ他人のようです。
かつて仕事の都合で満州に行った
わたしの曾祖父さんのもとに生まれ、
小学校の年齢のころに本土へ行き進学して、
東京で終戦を迎えたそうです。
部屋からいろいろ出てきたのですが、
2枚の新聞を取り上げます。
ひとつは満州日日新聞が一枚。
どんな内容かわからないにしろ、
満州のものが家にあったのかと衝撃でした。
もうひとつが、終戦当日の新聞でした。
表紙に新聞社の名前が書いてあるページが一枚だけ。
玉音放送の原稿らしき記事が
ページの半分近くを占めていました。
これを見つけたときに、
いつのものかとかすれた日時を読んでみて、
これまた仰天しました。
当時、よく残しておけたなあと
てんで想像がつかないのですが、
思い返せば謎が深まる気がします。
満州の新聞は、
おそらくおじいちゃんが本土に行くときに
持っていったとしか考えられません。
(曾祖父さんは戦後に引き揚げたので、
 新聞一枚だとしても
 持って帰れたと思えないのです)
終戦の日の新聞は
おじいちゃんが持っていたのかと思いますが、
当時は進学していた東京にいたはずです。
新聞が終戦当日の東京にあったのか‥‥
謎に思うのです。
新聞はじっくり見ることなく
しまってしまったのですが、
またじっくり見れば
何かわかるのかもしれません。
おじいちゃんの部屋を探検していたとき、
時計の修理に関する紙が出てきました。
なんでこんなものがと思っていたら、
おじいちゃんがかつて時計屋でアルバイトをして
生活費を稼いでいたことを、
父ははじめて知りました。
あとで、おじいちゃんは大学予科にいたとか、
戦後に駅で見たという
お腹の膨れた子どもの話などを
父から聞いたものです。
話を聞いて思い浮かんだ東京は、
なんとも寂しいものでした。
しかしワハハと笑って話す父のようす
(いつもそういう風なのです)や、
晩年ごろに撮られたであろう、
これ以上ないほど笑っているおじいちゃん写真を
思い返すと、
意外とぴんぴんしてた気がしてきます。
わたしは小学生のときに
地域の方の戦争の体験談を聞いたことはあっても、
もっとも身近な血縁者から聞く機会はないまま
今に至るのです。
最初におじいちゃんを他人のようだと
感じていたのに、
こうも親しみを感じるまでになったのは不思議です。
直に戦争の話を尋ねるのは躊躇いがありますが、
かつてどうおじいちゃんが生きていたのか、
直に話し合って知りたかったと考えたりしています。
案外、笑い飛ばして話してくれるのかもしれません。
(匿名さん)

2025-11-08-SAT

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