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読者のみなさんから届いたお便り #75

 
わたしの祖母、ばあちゃんは、今年95歳です。
戦時中、ばあちゃんは「尋常高等小学校」と言いますが、
今でいう中学校くらいでしょうか、
学校には行っていたが、先生も兵隊に取られ、
年寄りの先生しかおらず、授業らしい授業はなく、
竹藪で竹をとって竹槍を作り、
竹槍の練習だの行進の練習をしたり、
食べ物が足りないため、
校庭を耕して野菜を植えて育てたりしたそうです。
もともと田舎で、みんなが農家の子なので、
農作業自体は苦ではなかったようですが、
勉強の機会が無くなり、教わるはずだったことを
教えてもらえなかった、という思いがあるようでした。
学校を卒業後、6人兄妹の2番目だったばあちゃんは、
家族のためにも親戚のつてで仕事に出ます。
軍服を着た人が出入りする、
軍隊関係の会社だったようです。
地元は石川県ですが、ばあちゃんの実家は、
田舎で田畑ばっかりのところです。
会社があるところは金沢市で、ばあちゃんからみれば大都会。
当時、バスで通勤していたようです。
金沢市に仕事に行くためにブラウスを1枚もらったそうです。
普段着はもんぺと着物で、
新しい着物ももらった事がないくらい、
洋服なんて初めてもらった、
とても嬉しかったと言っていました。
ちょうど米粒ほどの小さなちょうちょの様な織り模様が
水玉に入った生地だったらしいですが、
何度か着ては洗濯するうちに、
どうしてだかちょうちょ部分の糸が溶けて、
細かな穴が空いてしまったらしいです。
とはいえ代わりの服なんてもらえるわけもなく、
その細かい穴あきブラウスともんぺで仕事に行っていました。
ばあちゃんの実家が特別貧しかったというわけでもなく、
地元では皆、そんなものだったようです。
仕事中でも空襲警報が鳴り、鳴ると防空壕まで走って避難し、
警報が解除されると戻ってまた仕事をする、
という日々だったようで、
避難するたびに、会社の必要書類だのが入った、
重たいカバンを持たされて走らされ、
足にカバンが当たって早く走れないし、怖くて気は焦るし、
空襲警報は、ほんとうに嫌だったと言いました。
ばあちゃんは空襲を受けずに済んだため、
本当に命が危ないような
恐ろしい目には合っていないと思います。
しかし、隣県の富山県では大規模な空襲があり、
その街の燃える炎が、
石川県からでも空が明るくなって見えたと言い、
避難してきた人達も見かけたりして、
恐ろしく、不安な思いをしたようでした。
この話を聞かされたのはもう20年以上前です。
戦時中のことも、その後の日常生活の苦労も、
ぜんぶまとめて昔の苦労話になっており、
話のシメには、
「今のモンにはホラ話に聞こえるやろう、
昔のことは今となっては考えられん笑い話や。
お前ら楽して生活して、
学校にも行けるのはすごいことなんやし、
がんばって勉強せんかい」とちょっと小言がありました。
今回、みなさんからの投稿を読み、
ばあちゃんは本当に酷い経験はしなくて済んだから、
昔の苦労話として話せたのかなと思いました。
同時に、国が戦争をするということは、
片田舎で畑を耕して暮らしている、
経済や政治から距離のある人達まで否応なく巻き込まれる
災害みたいなものだと感じました。
また、そうだとしても、
人為的な災害なのだから避ける努力ができるとも思います。
戦争の体験談と言えるのか、わかりませんが、送ります。
ばあちゃんは95歳の今も
歳の割にそこそこ元気で、晴れた日は畑仕事をしています。
(匿名さん)

2025-10-24-FRI

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