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読者のみなさんから届いたお便り #69

 
わたしの母の戦争体験です。
母は、東京大空襲を経験しました。5歳のときです。
まだ幼いですが、
戦時中の出来事や大空襲当夜のことをよく覚えています。
母は東京市本郷区で生まれました。
貧乏長屋で、両親、兄姉妹と暮らしていました。
幼いころから自分の住所を教え込まされ、
今でもはっきり言えるほどです。
母の父親は大工をしており、地区の防災担当もしていたようです。
「おじいちゃんは戦争に行かなかったの?」と聞いたところ、
「皇族が住む家を造っていたから、免除された」とのことです。
何のために日本の国旗を振り、軍歌を歌い、
近所のお兄さんを見送ったのか、
幼い母は記憶こそあれ、その意味はわかりませんでした。
何度も空襲警報を聞いてきた母でも、
大空襲のときは、これまでと違う不安と恐怖を感じたそうです。
3月10日未明、床下にある防空壕に家族で入りました。
近所の見回りに行っていた父親が戻ってくると、
「ここではだめだ、出ろ!」と叫び、
母の腕をグイッと引っ張り上げました。
母は、幼い妹の布オムツが入ったリュックを背負わされ、
母親と姉と妹(兄は田舎疎開中)と、近くのお寺に避難しました。
「本郷は高台で、お寺が多かった。避難場所だったんだよ。
(家の床下以外の)防空壕は人がいっぱいで入れなかったから。
あなた(=わたし)は家に帰りたいと泣いたが、
母ちゃんがもう家はないんだ、と言ったんだ」
調べると、本郷区はほかの地域に比べ
被害は大きくなかったようですが、
母の家は焼夷弾の延焼により焼失したようです
(違っていたらすみません)。
その後、親戚を頼りながら父親の田舎である宮城に逃れ、
その地で終戦を迎えました。
「宮城に逃げて来るまでが大変だった。
父ちゃんは仕事で一緒に来れなかったし。
電車は逃げる人でギュウギュウで、姉ちゃんと窓から乗った。
母ちゃんは妹を背負っていたから乗れそうになく、
あなた(=わたし)は母ちゃん、母ちゃんと、泣き叫んだ。
母ちゃんは、子どもがいるから乗せてくれと叫び、
乗ってる人に窓から引っ張ってもらい、
発車ギリギリで逆さまになりながら、なんとか乗れたんだ。
母ちゃんがいなかったら、戦災孤児になっていたかもね」
この母の体験を語り継ぎたい。
わたしは49歳、まだ語り継ぐ気力はあると感じます。
しかし、どうしたらよいのかわかりません。
ですから、ほぼ日の毒蝮三太夫さんのインタビューや
戦争の企画にとても感銘を受けましたし、
もっと戦争体験を知ってほしい、と強く思ったのです。
日本の戦争体験者がいなくなる、
そんな世の中が近い将来やってきます。
母の体験は、幼い記憶の断片に過ぎないかもしれませんが、
わたしたちにできることは、
決してその断片を逃してはならないことだと思います。
母もそれを望んでいます。
(八島京子)

2025-10-18-SAT

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  • ヴェトナム戦争/太平洋戦争にまつわる
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    特集 50/80 ヴェトナム戦争と太平洋戦争の記憶