
- 2010年8月15日の東京新聞に「学童疎開を知っていますか」の見出しで、
学童疎開の詳細を図解入りで説明する記事が載っていた。
「第2次世界大戦末期、戦禍を避けるために都市部の児童が地方に疎開しました。
空腹や寂しさなど、つらい体験もたくさんあった学童疎開を図解します。」 - 私の生涯忘れられない記憶として、
小学校3年時に学童疎開へ行かされた体験があるのだけれど、
戦争中の子どもの疎開の苦労などはあまり問題にされることがなかったから、
なんだか胸のつかえが降りたような気持ちで読んだ。 - 「学童疎開は空襲が激しくなった1944年夏に始まりました。
対象は全国の小学3年~6年生100万人以上でした。
まずは親類らを頼る縁故疎開が勧められました。
次に学校単位の集団疎開が行われ、合計70万人弱の児童が地方に向かいました。
疎開には戦争完遂のために次世代兵士を温存するという目的もありました‥‥」
(東京新聞2010年8月15日) - そういう目的があったのね。
- 女学校2年だった姉が書いてくれた絵日記を見ると、
昭和20年3月23日に出発したらしい。
灯火管制で真っ暗な道を東横線の学芸大学(当時は第一師範)駅まで
母と姉に手をつながれて送って貰った悲しい絵が書いてある。
とすると3月10日の東京大空襲の後であり、
真っ赤に染まった向こうの空を眺めた記憶があるのは、
その時点でまだ世田谷の家に家族と暮らしていたからだった。
学校は東京第一師範付属国民学校だった、
現在の学芸大学付属世田谷小学校である。 - この出発は、学童疎開への2度目の出発で扁桃腺の手術のために帰宅を許され、
回復した後の出発だったから1度目は昭和19年の後半だったのではないか、
綺麗な扇子を貰って嬉しかったのに
汽車を降りた時には失くしてしまって悲しかった記憶があるから
暑い季節だったのではないかと思う。 - 記事には昭和19年8月東京都の集団疎開第1陣が出発とある。
- 親と離された集団生活は、9歳の子どもにとって難しくないわけがない。
長野の浅間温泉の旅館が宿舎だった。
10畳くらいの部屋に上級生から3年生までの8人くらいが生活していた。
部屋の真ん中に小さな炬燵が一つありそれが暖房だった。
ただ一つ楽しかった思い出がある。
寮母さんが2、3人を内緒で連れ出し松本城へ連れて行ってくれた。
真っ赤な大きいりんごを一つ貰った。丸ごとひとつ貰ったのが嬉しかった。
20年くらい前までその寮母さんの顔と名前を覚えていたが、
今はもう思い出せない。あの時のお礼が言いたかった。 - 忘れられない悔しい思い出は、
到着直後に各自が持っていたお菓子などの食べ物を供出させられたこと。
先生は「まとめて預かっておくから、後でみんなに分けますよ」と約束したが、
いつまで待っても親が持たせてくれたお菓子の配給はなかった。
先生の嘘は心の中に大きな傷として残り、
深い恨みとともに先生のNという名前は
胸のうちの少女の部分にひっかかったまま落ちてこない。 - 甘いものが欲しかった。薬は何故か供出せずに各自が持っていた。
その中のアスピリンは苦くて不味かったが、
それを吐き出した後にかすかに甘みが残る。
そうしてみんなの持っていたアスピリンはすぐになくなってしまった。
喉に塗るルゴールは甘かったから、
扁桃腺は痛かったが塗ってもらうルゴールが楽しみだった。
歯磨き粉は美味しいう噂で、上級生たちは何かと混ぜるといい、
という情報を持っていたらしいが、下級生はただ舐めるだけの味だった。 - 養蚕の盛んな地方らしく、お八つに蚕の蛹が出たことがある。
煎ってあったのか香ばしくて美味しかった。あの香りと歯触りは懐かしい。 - 家族への便りは検閲を受けた。
淋しいとか辛いとか親に心配をかける言葉を書いてはならない、
手紙は全部先生が読んで検閲のハンコを押されたものだけを投函する、
と言われた。
本当はどうだったのかわからないが、子どもにとっては絶対である。
一番下級生だったから随分いじめられたのだが、
葉書にそんなことは書けなかった。
姉が当時私に見せて慰めるために絵日記を書いてくれていたが、
その絵日記にもはがきを有り難う、と何度も出て来るから
便りは良く書いていたらしいが、帰りたいと訴えることは出来なかったし、
訴えても両親には国家に逆らって疎開児童を連れ戻す勇気はなかっただろう。 - その代わり上級生の男の子は脱走した。
汽車賃もなく脱走して先生が探し回っている姿を見たことがある。
本当かどうか東京へ帰り着いた、という噂も聞いたことがある。 - 疎開児童と家族の面会は自由ではなく、どんな仕組みかわからないが、
なかなか順番は回ってこなかった。
親が面会に来た夜は親と一緒に食べて寝られるのだ。
どんなに羨ましかったことだろう。
母が後で言うには軍関係の親には便宜がはかられ
面会の機会も多かったということだが、
うちには順番が回ってこなかったらしい。 - ある日たまりかねた父と姉が、
私たちの宿舎の旅館のすぐ前の旅館に泊まり、
その窓から私が顔を覗かせるのを一日中待っていたという話を後から聞いた。
私は何も知らず、後でその話を聞いた時には、
せっかくせっかく来てくれたのにどうして一度も窓の外を見なかったのかと、
悔やんでも悔やみたりない思いで、その後思い出すたびに涙が溢れた。
東京からはるばる会いに来たのに
少しの時間でも逢わせることは出来なかったのだろうか。 - その後、どのくらい経たのかわからないが、
浅間温泉から下伊那郡のどこかのお寺へ移動した。
新聞の記事によると、20年5月には太平洋沿岸に疎開していた児童を
東北地方へ再疎開させた、とある。
米軍が海から上陸、本土決戦が行われることを視野に入れた行動だったようだ。
長野県浅間温泉地区も危険区域に入っていたのだろうか。 - 伊那地方の川の近くの山寺へ移動したその辺りからが、
ひもじさ、しらみ、栄養失調からの下痢、おできに苦しんだ日々だった。 - 記事によると「20年3月「学童疎開強化要綱」を閣議決定
5月集団疎開学童への主食配給量を減らす 7月主食配給量がさらに減少
8月日本が無条件降伏」とある。
殆ど飢餓状態で良く生きていたものである。
毎日のお八つは大豆10粒。
それぞれ自分の名前を大きく書いた茶封筒に10粒入っているのを
当番が宿舎になっていたお寺の本堂まで貰いに行き、
その姿が現れるとみんなで歓声をあげて迎えていた。 - ご飯だったのかお粥だったのか、食事の記憶は殆どないのだが、
茶碗の底にわずかに盛られたご飯粒を一粒づつ食べて、
食べる時間を伸ばした記憶がある。 - 東京は度重なる空襲で家も人も焼かれ、
どうせ焼かれるのだからと家を処分し地方へ移っていく人も多かったそうだ。
私の家族は焼け残った世田谷の家に住んでいたが、
銀座で商事会社を経営していた父の会社の商品も倉庫も焼けてなくなってしまい、
毎晩のように空襲があり焼夷弾も落ちてくる時に、
一人だけ長野県にいる私が孤児として残ってしまうことを恐れて
静岡県の富士宮市の親戚の会社の寮へ移り住んだ。
その市には子どもを呼び寄せることが出来たからである。 - ある日、何の予告もなく父が伊那のお寺へやって来た。
父の顔を見てもドラマのように縋り付いて泣いた記憶はない。
なんの感情もわかなかった。
「帰ろう」と言われて「ここにいたい」と云ったという。
嬉しさも感じなくなっていたのだろうか。
父が真新しい下駄を持って来てくれたのが嬉しかった、
履物はと言えば布で編んだわらじの半分にすり減ったものを
はだし同然で履いていたから。
その中でゴムの運動靴を履き、
時々隠れて羊羹を食べていた子は
親がどういう便宜を図ってもらっていたのだろうか。 - 父と乗った東京までの汽車の旅は長かった。
記憶にないのだが後で聞くと、
松本で敵機の襲来を受けて駅で一晩寝たそうだ。 - その時の私は、栄養失調のためにおできだらけ、
伊那へ移動してから一度もお風呂へ入らなかったせいで
頭も身体もシラミだらけだった。
たまに洗面器で頭を洗って貰ったが、友達と落ちたシラミの数を競ったものだ。
下痢が止まらずいつもお腹が痛かった。
父と乗った汽車はトイレの前まで人が座っていて、
トイレの扉を開けられない。
下痢のお腹をかかえて必死になってこらえていたことだけが記憶にある。 - 富士宮市の親戚の会社の寮に着くと、母と姉が待っていてくれた。
久しぶりの親子対面なのに心が動かず、嬉しくも悲しくもなかった。
夕飯は家族が揃って母がつくってくれたすいとんを食べた。
覚えていないが出来る限りのご馳走が並んでいたことだろう。
灯火管制で周りをかこった暗い電気の灯りで、
両親は安心して家族の食卓を整えたことだろう。
その夜、私は食べたご馳走を全部吐いてしまった。
母の困ったような悲しいような顔を覚えている。 - 私の体験はそこまでで、その数ヶ月後に終戦の日がやってきたが、
その後の努力は両親が背負ったものである。
父が生きる為に何度も試みた新しい事業とその失敗による肋膜炎。
滋養のある食べ物もなく、母がマムシの頭を買ってきて焼いて食べさせていた。
母がリュックに着物を詰めては電車に乗り、
何度も農家で交換してきた食料。
配給のトウモロコシ、ふすまは現在は家畜の飼料だが、まずいとも思わなかった。
父の仕事の変わるたびに引っ越しをして、
その後小学校を2回、中学で1回の転校をした。 - (礒田澄江)
2025-10-16-THU

