
- わたしの母方の祖父は旧満州で学校教員をしておりました。
- 祖父は終戦間際に赤紙により従軍させられ、
シベリアへ抑留となります。 - 残された祖母と幼い娘3人。
祖母はそのとき妊娠8カ月で、お腹の子はわたしの母です。
最低限の荷物をまとめ、
引揚船が来る港を目指して逃避行開始。 - 終戦時の祖父母の居住地は治安が悪化し、
引揚げた日本人宅にそれまで柔和だった現地人が押し入り、
残されている物はすべて持ち去られていたそうで、
祖母はその光景に耐えられず、
出発の際、自宅に火をつけたそうです。 - 天津に到着して10月はじめにお腹の子を出産し、
新生児がいたおかげで
比較的早くに引揚船に乗せてもらえたようです。 - 引揚船内で流行した病気により、
3番目の女児は船内で逝去しました。 - 祖母は実家の北海道苫前町に帰り、
産婆を開業し、数年後に祖父が生還しました。 - しかしながら、
そのときにはすでに妊産婦さんたちを抱えており、
転勤の多い教員職に復帰した祖父とは
離婚することを選択し、
当時はまだ険しかったシングルマザーの道へ。 - 祖父は新しいお嫁さんをもらい、
北海道各地を教員として渡り歩きました。 - 祖父も祖母も、終戦時に目の当たりにしたであろう
凄惨なことを、詳しく語ろうとしませんでした。 - ただ、孫であるわたしに祖母は常々、
生きている人間ほど怖いものはない、と言っていました。 - 祖父は、終戦後に国会(の分科会か何か)に
教員として呼ばれ、
死刑の廃止を検討する話し合いにおいて
「戦後犯罪者が増え続けているのは、戦中の教育が原因だ。
ヒトはみな半神半獣なのだから、
罪の償いとしては離れた島などへの隔離が適当だ」
と述べた記録を読んだことがあります。 - 戦争教育をされた人が、
急に平和主義にはなれなかったのでしょう。
そして、亡くなる数カ月前に突然、
就寝中に敬礼の動作をするようになり、
従軍から抑留期間の記憶が焼き付いたままなんだなと
思って見ていました。 - 母は「お父さん」を知らずに育った。
祖父母も母も強く生きた。 - 戦争の被害をグチること無く人生を終えていった。
そうして今の私を作り上げてくれた。
それはとても素晴らしいことだけれど、
戦争って必要でしたか?
というわたしの中の疑問は消えない。 - (青塚さん)
2025-09-26-FRI

