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読者のみなさんから届いたお便り #47

 
わたしの母方の祖父は旧満州で学校教員をしておりました。
祖父は終戦間際に赤紙により従軍させられ、
シベリアへ抑留となります。
残された祖母と幼い娘3人。
祖母はそのとき妊娠8カ月で、お腹の子はわたしの母です。
最低限の荷物をまとめ、
引揚船が来る港を目指して逃避行開始。
終戦時の祖父母の居住地は治安が悪化し、
引揚げた日本人宅にそれまで柔和だった現地人が押し入り、
残されている物はすべて持ち去られていたそうで、
祖母はその光景に耐えられず、
出発の際、自宅に火をつけたそうです。
天津に到着して10月はじめにお腹の子を出産し、
新生児がいたおかげで
比較的早くに引揚船に乗せてもらえたようです。
引揚船内で流行した病気により、
3番目の女児は船内で逝去しました。
祖母は実家の北海道苫前町に帰り、
産婆を開業し、数年後に祖父が生還しました。
しかしながら、
そのときにはすでに妊産婦さんたちを抱えており、
転勤の多い教員職に復帰した祖父とは
離婚することを選択し、
当時はまだ険しかったシングルマザーの道へ。
祖父は新しいお嫁さんをもらい、
北海道各地を教員として渡り歩きました。
祖父も祖母も、終戦時に目の当たりにしたであろう
凄惨なことを、詳しく語ろうとしませんでした。
ただ、孫であるわたしに祖母は常々、
生きている人間ほど怖いものはない、と言っていました。
祖父は、終戦後に国会(の分科会か何か)に
教員として呼ばれ、
死刑の廃止を検討する話し合いにおいて
「戦後犯罪者が増え続けているのは、戦中の教育が原因だ。
ヒトはみな半神半獣なのだから、
罪の償いとしては離れた島などへの隔離が適当だ」
と述べた記録を読んだことがあります。
戦争教育をされた人が、
急に平和主義にはなれなかったのでしょう。
そして、亡くなる数カ月前に突然、
就寝中に敬礼の動作をするようになり、
従軍から抑留期間の記憶が焼き付いたままなんだなと
思って見ていました。
母は「お父さん」を知らずに育った。
祖父母も母も強く生きた。
戦争の被害をグチること無く人生を終えていった。
そうして今の私を作り上げてくれた。
それはとても素晴らしいことだけれど、
戦争って必要でしたか?
というわたしの中の疑問は消えない。
(青塚さん)

2025-09-26-FRI

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  • ヴェトナム戦争/太平洋戦争にまつわる
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    その中から、
    「50/80 ヴェトナム戦争と太平洋戦争の記憶」
    の特集のなかで、
    少しずつ紹介させていただこうと思います。

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    特集 50/80 ヴェトナム戦争と太平洋戦争の記憶