
- わたしは6歳のとき、
父の転勤で大阪から広島に引っ越しました。
ちょうど被爆60年を迎える年でした。 - これは、わたしがずっとお世話になっていた、
近所の習字教室の先生の話です。 - 先生は絵が得意だったわたしに
「絵が上手い子は字が上手くなるのも早いんよ、
うちもそうじゃった」
と、こっそり褒めてくれたり、
いつも明るくて、
わたしは先生の柔らかい広島弁が大好きでした。 - 先生は広島市から出たことがないと言っていたし、
戦前の生まれだろうと思っていましたが、
広島の子どもたちは
原爆の恐ろしさを教えられているため、
それを語ることの重さを知っています。
彼女が被爆者なのか、教室に通う子どもたちは
誰も聞いたりしませんでした。 - 先生がはじめて自身の被爆体験を語ったのは、
わたしが小学6年生のとき、
お盆が明けたころでした。 - 先生に手直しをしてもらっている間、
わたしと友人が8月6日の登校日のことを
話していたのでしょうか、先生がふいに、
「あんたら、そういやいくつになったんね」
と、聞いたので12歳と答えると、
「わたしが原爆に遭ったんもそのころよ」
と、言いました。 - わたしと友人が、今まで原爆について
何も触れてこなかった先生の突然の告白に
驚いていると、
淡々と短く、当時のことを教えてくれました。 - 先生が当時、広島のどこにいたのかはわかりません。
ただ、自宅で被爆し、
ガラスの破片が大量に刺さってしまった
先生のお母さんを救護所へ連れて行くと、
自分たちよりもっと酷い傷を負った人々が大勢いて、
すぐには診てもらえなかったこと。 - 足の踏み場のない中、
傷口に蛆虫がわいている人たちを
たくさん跨いでいくしかなかったこと。
いまでもあの日のことを思い出して
眠れないときがあること。
そして、先生のこめかみには
ガラスが刺さったときの傷跡が
まだ残っていることを教えてくれました。
言われないと気づかないくらいの、
皺の中に埋もれた小さな傷跡でしたが、
それが先生の人生を
ずっと傷つけてきたことは容易に想像できました。 - 「あんなもの見た人にしかわからん、思い出したくもない」
- この言葉と、これを言ったときの
先生の諦めたような表情が、
いまもわたしの目に焼き付いています。 - わたしたちがあの日の先生と同じ年齢だったから
教えてくれたのでしょうか。
たとえば12歳のわたしが、あのとき、
先生のようにこの街にいたなら、
どうなっていただろうか。
考えただけでも恐ろしくてたまりませんでした。 - 広島に親戚がいないわたしにとって、
これが身近な人から聞いたはじめての被爆体験です。 - あの日を境に、焼け野原になった広島の街とともに
人生を歩んできた人々がいて、
その人々は多くを語ることもなく、
ただ静かに淡々と広島の街で生活を営んできたのです。
そのひとりが先生です。 - 広島を離れて10年近く経ついま、
先生がご健在かどうかはわかりません。
ただ、先生があのとき、
わたしたちに話してくれた意味を、
いまも問い続けています。 - 戦後80年、わたしがはじめて原爆の存在を知った
戦後60年から20年経ちました。
戦後90年、100年、
それとも新たな戦後がはじまってしまうのか、
恐れながら
わたしは静かに生活を営んでいくしかないのでしょうか。 - (キイユラ)
2025-09-25-THU

