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読者のみなさんから届いたお便り #46

 
わたしは6歳のとき、
父の転勤で大阪から広島に引っ越しました。
ちょうど被爆60年を迎える年でした。
これは、わたしがずっとお世話になっていた、
近所の習字教室の先生の話です。
先生は絵が得意だったわたしに
「絵が上手い子は字が上手くなるのも早いんよ、
うちもそうじゃった」
と、こっそり褒めてくれたり、
いつも明るくて、
わたしは先生の柔らかい広島弁が大好きでした。
先生は広島市から出たことがないと言っていたし、
戦前の生まれだろうと思っていましたが、
広島の子どもたちは
原爆の恐ろしさを教えられているため、
それを語ることの重さを知っています。
彼女が被爆者なのか、教室に通う子どもたちは
誰も聞いたりしませんでした。
先生がはじめて自身の被爆体験を語ったのは、
わたしが小学6年生のとき、
お盆が明けたころでした。
先生に手直しをしてもらっている間、
わたしと友人が8月6日の登校日のことを
話していたのでしょうか、先生がふいに、
「あんたら、そういやいくつになったんね」
と、聞いたので12歳と答えると、
「わたしが原爆に遭ったんもそのころよ」
と、言いました。
わたしと友人が、今まで原爆について
何も触れてこなかった先生の突然の告白に
驚いていると、
淡々と短く、当時のことを教えてくれました。
先生が当時、広島のどこにいたのかはわかりません。
ただ、自宅で被爆し、
ガラスの破片が大量に刺さってしまった
先生のお母さんを救護所へ連れて行くと、
自分たちよりもっと酷い傷を負った人々が大勢いて、
すぐには診てもらえなかったこと。
足の踏み場のない中、
傷口に蛆虫がわいている人たちを
たくさん跨いでいくしかなかったこと。
いまでもあの日のことを思い出して
眠れないときがあること。
そして、先生のこめかみには
ガラスが刺さったときの傷跡が
まだ残っていることを教えてくれました。
言われないと気づかないくらいの、
皺の中に埋もれた小さな傷跡でしたが、
それが先生の人生を
ずっと傷つけてきたことは容易に想像できました。
「あんなもの見た人にしかわからん、思い出したくもない」
この言葉と、これを言ったときの
先生の諦めたような表情が、
いまもわたしの目に焼き付いています。
わたしたちがあの日の先生と同じ年齢だったから
教えてくれたのでしょうか。
たとえば12歳のわたしが、あのとき、
先生のようにこの街にいたなら、
どうなっていただろうか。
考えただけでも恐ろしくてたまりませんでした。
広島に親戚がいないわたしにとって、
これが身近な人から聞いたはじめての被爆体験です。
あの日を境に、焼け野原になった広島の街とともに
人生を歩んできた人々がいて、
その人々は多くを語ることもなく、
ただ静かに淡々と広島の街で生活を営んできたのです。
そのひとりが先生です。
広島を離れて10年近く経ついま、
先生がご健在かどうかはわかりません。
ただ、先生があのとき、
わたしたちに話してくれた意味を、
いまも問い続けています。
戦後80年、わたしがはじめて原爆の存在を知った
戦後60年から20年経ちました。
戦後90年、100年、
それとも新たな戦後がはじまってしまうのか、
恐れながら
わたしは静かに生活を営んでいくしかないのでしょうか。
(キイユラ)

2025-09-25-THU

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