
- わたしの父は、小学校3年生のときに、
長男だからと学校での疎開に参加させられ、
県北に疎開させられたそうです。
学校の先生や学友と一緒と言っても、
すごく寂しくて、
なぜ自分だけと思ったそうです。
それにも増して、田舎とは言え、
お腹いっぱいご飯が食べられるわけではなく、
疎開先のお寺から
近所へお風呂に行った帰り道に、
友だちと一緒に、まだ青い稲の先の実を食べたり、
道端の草の実を食べたりしたそうです。
いまでは考えられないです。 - 戦時中に産まれた弟は、
食糧難で祖母の産後の肥立ちが悪く、
母乳をしっかりあげられず、
栄養失調で直ぐに亡くなったそうで、
ときどき、すごくかわいい子だったと話します。 - 8月6日の朝、
疎開先から何かが突然ピカっと光ったのを
覚えているそうです。
母はまだ4歳ぐらいでしたが、
広島市内から遠くに住んでいても、
同じくあの日の朝に
突然黒い雲がもくもくと湧き上がったのを
覚えているそうです。 - 母の姉は、女学校から学徒動員で
広工廠に駆り出されていて、
玉音放送を聴いたあと、
みんなで白い鉢巻をしたまま
泣きながら40キロ以上離れた自宅まで
歩いて帰って来たそうです。 - 今回の企画で、みなさんのお話を読んで、
わたしが聞いた話を思い出しました。
忘れないことが、いまの平和、日常を大切にする、
良い機会になったと思います。
ありがとうございます。 - (ダケ)
2025-09-21-SUN

