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読者のみなさんから届いたお便り #40

 
わたしの父は95歳、
今は高齢者ホームにお世話になっています。
父は、小学生時代は韓国の京城(ソウル)で過ごし、
中学校時代は陸軍幼年学校にいました。
仙台陸軍幼年学校に配属され、
なだいなださんと同級生だったと言っていました。
幸い、戦争に行くことはなく終戦を迎えましたが、
父から幼年学校時代の話を聞いたことは
ほとんどありません。
それでも、同級生との絆は強かったようで、
同窓会が毎年開かれていて、欠かさず行っていました。
(今はほとんどの方が他界されて、
同窓会も数年前に終わりました)
父の京城時代の絵日記や、
陸軍幼年学校時代の日記が残っています。
陸軍幼年学校時代の日記は、
記録のようなことしか書かれていなくて、
おもしろくないです。
毎日先生に提出していたため、
誤字の添削や字を丁寧にというコメントが
書かれています。
絵日記の方は、小学校2年生の夏休みの記録で、
とても生き生きとした生活が書かれています。
ただ、兵隊ごっこと、
戦地に行く兵隊さんの見送りをすることが、
日常的に書かれているのは、いま読むと哀しいですね。
この日記を、今後どのように扱ったら良いか、
考えています。
貴重な資料のような気もするし、
どこにでもあるもののような気もします。
母は88歳で、いろいろ病を抱えつつも、
元気にしております。
小学校の3年生のときに横浜から地方の親戚の家に、
母親(わたしの祖母)と妹たち(わたしの叔母たち)と
疎開していました。
親戚の家での居心地は良くなく、
学校では友だちだけでなく、
先生からも「都会っ子で生意気」ということで、
とてもいじめられたそうです。
大切にしていた消しゴムが、
その日のうちになくなったという話も聞きました。
母親(わたしの祖母)は、
農家に着物を持って行っては買い叩かれ、
悔し涙を流しながら食料をもらっていたそうです。
末の妹(わたしの叔母)は農家の人にかわいがられ、
大きなおにぎりをひとついただいたことがあり、
それをおかゆにして、親戚には内緒で、
4人で分けて食べたと聞きました。
疎開先の家の近くには、川が流れていて、
そこには丸太のような橋がかかっているだけだったので、
母は対岸に野草(?)を取りに行くのが、
とても怖かったそうです。
あるとき、母は橋から落ちて川に流されてしまいました。
そのときに親戚の「トラおじさん」が助けてくれなければ、
母は生きていなかったし、
わたしたちも生まれていなかったという話を
何遍も聞きました。
母は、今でも水をとても怖がり、泳ぐことができませんし、
船も積極的に乗りたがりません。
でも、姉とわたしを、
スイミングスクールに通わせてくれました。
この「トラおじさんは」はその後、
あの洞爺丸に乗船し、亡くなりました。
こうした思い出は、いまだに母のトラウマとなっていて、
母は、疎開していた地方は好きではないと言って、
わたしたちが観光に誘っても行きませんでした。
(田村さん)

2025-09-19-FRI

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  • ヴェトナム戦争/太平洋戦争にまつわる
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    テーマや話題は何でもけっこうです。
    いただいたお便りにはかならず目を通し、
    その中から、
    「50/80 ヴェトナム戦争と太平洋戦争の記憶」
    の特集のなかで、
    少しずつ紹介させていただこうと思います。

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    特集 50/80 ヴェトナム戦争と太平洋戦争の記憶