
- この春亡くなった母は昭和12年生まれです。
満州からの引き揚げ者だった母の話をしたいと思います。 - 母の父親(わたしの祖父)が満州鉄道に勤務していたので、
母は満州国、大連市で生まれました。 - 中国の冬は寒いので、
住んでいた家には薪の煙を床下に通して家を温める
オンドルがあったこと、
小学校へは凍った道をスケートのように滑りながら
通学したことなど
戦中の思い出話は大陸ならではの暮らしぶりでした。 - やがて終戦。
敗戦国となった日本人の子どもたちは、
登下校時に、現地の子どもたちに待ち伏せされて
いじめられるようになったそうです。
大連は港町でしたので
引き上げ船に乗船できるまでの苦労は
内陸の方々ほどではなかったと思いますが、
当時は強奪なども横行しており、
母の一家が持ち出した家財は港ですべて盗まれてしまい、
すべてを失った状態で帰国しました。
敗戦から帰国の混乱の中で
いちばん下の妹が
栄養不足から病気で亡くなったとのことです。
母には徴兵された兄弟はおらず、
亡くなったのは家族の中で、その妹叔母ただ一人でした。
祖母から、その叔母の話をきいたことはありません。
あまりにも悲しくて、
語ることができなかったのではないかと思います。 - 帰国してからは親戚の家に間借りしたり、
住まいを見つけてもあまりの貧しさに傘が買えず、
家にある傘は父親と兄が優先。
雨天時に登校できない母は
級友たちから「泥団子」とからかわれたのだとか。
住んでいる地域は
農業、漁業で生計を立てているご家庭が多く、
級友たちのようにお弁当に白米を持っていけない母は、
蒸かしたおいものお弁当を隠しながら食べており、
「誕生日に何がほしい?」と問う親に
「白米を思いっきり食べたい」と答えて
親を泣かせてしまったそうです。 - 80歳を過ぎてから、ネットに掲載されていた
大連市の古地図を見せましたところ、
「ここの神社の裏手に、
わたしらが住んでいた借家があった。
この道を通って学校へ通ったよ」
と、懐かしそうに話してくれました。
亡くなる数年前には認知症で思い出せなくなっていて
切なかったです。 - 終戦の日が近づくとよく聞かされていて
耳にタコができる‥‥とうっとうしかった昔話ですが、
いまとなっては話してもらってよかったと思います。 - 中国残留孤児のみなさんのニュースを見るたび、
「わたしもこうなっていたかもしれない」
と、言っていた母でした。
もしそうなら、わたしも子どももここにはいなかった。
遠い昔の戦争かもしれませんが、無関係ではありません。
世界から紛争がなくなってほしいと切に願います。 - (匿名さん)
2025-09-17-WED

