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読者のみなさんから届いたお便り #38

 
この春亡くなった母は昭和12年生まれです。
満州からの引き揚げ者だった母の話をしたいと思います。
母の父親(わたしの祖父)が満州鉄道に勤務していたので、
母は満州国、大連市で生まれました。
中国の冬は寒いので、
住んでいた家には薪の煙を床下に通して家を温める
オンドルがあったこと、
小学校へは凍った道をスケートのように滑りながら
通学したことなど
戦中の思い出話は大陸ならではの暮らしぶりでした。
やがて終戦。
敗戦国となった日本人の子どもたちは、
登下校時に、現地の子どもたちに待ち伏せされて
いじめられるようになったそうです。
大連は港町でしたので
引き上げ船に乗船できるまでの苦労は
内陸の方々ほどではなかったと思いますが、
当時は強奪なども横行しており、
母の一家が持ち出した家財は港ですべて盗まれてしまい、
すべてを失った状態で帰国しました。
敗戦から帰国の混乱の中で
いちばん下の妹が
栄養不足から病気で亡くなったとのことです。
母には徴兵された兄弟はおらず、
亡くなったのは家族の中で、その妹叔母ただ一人でした。
祖母から、その叔母の話をきいたことはありません。
あまりにも悲しくて、
語ることができなかったのではないかと思います。
帰国してからは親戚の家に間借りしたり、
住まいを見つけてもあまりの貧しさに傘が買えず、
家にある傘は父親と兄が優先。
雨天時に登校できない母は
級友たちから「泥団子」とからかわれたのだとか。
住んでいる地域は
農業、漁業で生計を立てているご家庭が多く、
級友たちのようにお弁当に白米を持っていけない母は、
蒸かしたおいものお弁当を隠しながら食べており、
「誕生日に何がほしい?」と問う親に
「白米を思いっきり食べたい」と答えて
親を泣かせてしまったそうです。
80歳を過ぎてから、ネットに掲載されていた
大連市の古地図を見せましたところ、
「ここの神社の裏手に、
わたしらが住んでいた借家があった。
この道を通って学校へ通ったよ」
と、懐かしそうに話してくれました。
亡くなる数年前には認知症で思い出せなくなっていて
切なかったです。
終戦の日が近づくとよく聞かされていて
耳にタコができる‥‥とうっとうしかった昔話ですが、
いまとなっては話してもらってよかったと思います。
中国残留孤児のみなさんのニュースを見るたび、
「わたしもこうなっていたかもしれない」
と、言っていた母でした。
もしそうなら、わたしも子どももここにはいなかった。
遠い昔の戦争かもしれませんが、無関係ではありません。
世界から紛争がなくなってほしいと切に願います。
(匿名さん)

2025-09-17-WED

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