
- 67歳の主婦です。
8年前に他界した母は、わたしと弟が幼かったころに、
よく原爆のことをピカドンと言って話してくれました。
話の終わりには
「原爆の歌」(浅田石二作詞、木下航二作曲)を
必ず歌って聞かせました。
母自身は東京新宿生まれで、
中学1年生のときに父方の伯母を頼って佐賀に疎開。
佐賀の伯母は寡婦で
7人の子どもを育てていましたので、食べる物は少なく、
ちいさな従妹に、
食事のたびに「東京へ帰れ」と言われたそうです。
そんな中で伯母は、
よく母と姉を疎開させてくれたと晩年に語っていました。
戦後、東京に戻ると一面焼野原で、
その中で母の実家だけはポツンと残っていました。
わたしは幼い頃、祖父の家に遊びに行くたびに、
古い汚い家だと思っていましたが、
それも1991年東京都庁の移転でなくなりました。
母の三回忌の折、前日より近くのホテルに泊まり、
朝早く近くの大きな公園を散歩しベンチに座っていると、
どこからか「原爆の歌」が聞こえてきました。
声のする方を探すと、
石碑の前から年配の女性の立ち去る後ろ姿だけが
見えました。
碑を見に行くと、
戦後40年に建てられた原爆死没者慰霊碑でした。
懐かしさと不思議な気持ちに満たされました。
母のおかげで、
わたしの心の中には戦争への思いが常にありました。
本土決戦で日本の盾になった沖縄には
観光ではなかなか行く気になれませんでしたが、
昨年、思い切ってひめゆりの塔に行きました。
そして、一昨年は知覧にも。 - 戦後80年、戦争を体験した方は減っています。
でもいま、映画、小説、漫画、アート‥‥
いろいろな媒体で
戦争を伝えようとしている若い方々がいます。
それは本当に素晴らしいことだと思います。
どんなかたちでも戦争の悲惨さを伝え続け、
平和の尊さを感謝することは、
平和を守るための力となると確信しています。
(匿名希望)
2025-09-14-SUN

