
- 祖父は激戦地と言われていた南方、
ニューギニアに出征していました。 - わたしが小さいころに聞いた戦争の話は
子ども相手だったせいか、
おじいちゃんは、お腹がすいて食べ物がなくて、
革製のベルトや靴を煮て
食べたことがあるんだぞ、
などと、少しおもしろそうにして
話していた覚えがあります。 - わたしが成長すると、
少し話す内容が変わってきました。
印象に残っているのは、
戦地から引き揚げてきたときの話です。 - 激戦地から命からがらボロボロで、
やっと日本に帰れると思い東京に着いたら
あまりにも悲惨な焼け野原に呆然とし、
もう日本は終わりだ、
どこか田舎に引っ込もうと思ったそうです。 - だけど戦死していった仲間を思い、
ここでへこたれてはいけない、
生き延びたからには彼らのぶんもがんばり、
日本を復興させていかねばならない、
という思いに変わったと。 - 大正12年生まれでしたので、
おそらくそのときは22歳くらい、
今ならまだ大学生の年齢です。 - そこから本当に
死ぬ気でがんばったのだと思います。
祖父は鋳物工場を経営して、
わたしが小さいころは敷地内に社員寮がありました。
今から思えば、
行くところや仕事がなかった人に働いてもらうために
あったのだと思います。 - わたしが小さいころは、繁華街にはたまに、
お金を入れる缶を置いた
手足のない元軍人さんが座っていて
まだまだ戦争のにおいはうっすら残っている
時代だったのです。 - わたしが30代のころに祖父は亡くなりましたが、
葬儀のときに、親戚から
ほかにも祖父の戦争の話を聞きました。 - 南方に行っていた祖父は
マラリアに罹患したことがあり、
戦後もなんどもぶり返して苦しんだそうです。
そんなときでも必死ではたらく祖父に、
祖父の甥っ子のおじさんは、
何でそんなにはたらくのか、と聞いたそうです。 - 自分はいちど死んだようなものだ、
死んでいった戦友と自分に何も違いはなかった、
彼らを思えばこれくらい何ともない、
と答えたとのことです。 - 従業員だったという女性は、
親のいない自分のために花嫁支度をととのえて
お嫁に出してくれた、
わたしにとってお父さんのような方でした、
と話してくれました。 - 本当に死んでいった戦友たちのぶんも
がんばったんだね、と涙が出ました。 - ほかには、高台から見かけた浜辺にいた兵は
なぜか痩せておらず、
浜辺で何かを焼いて食べていた、
戦地の島では他の隊の日本兵を見つけても、
うかつに喜んで近づけなかった、
という話も聞きました。 - 祖父のことを思うと、この世代の人たちは
赤い紙切れ一枚で戦いに行けと言われ、
人に銃を向けたり向けられたりしたことがあって、
究極の飢えも経験して、
胸にはたくさんの思いをしまって
必死で世のためにはたらき、
いまの日本の礎をつくってくれたんだと、 - 祖母たち女性も、男手がない中で協力しあって
空襲や物不足とたたかってきたんだと、
自分の自由な20代と
何という差なのかと胸がしめつけられます。 - わたしは所用で
東南アジアに行くことが多いですが、
7時間あまりのフライト中、
祖父たちは、この地方にどのような気持ちで
どうたどり着いたのか、
はじめて見るジャングルと暑さにさぞ驚いたろう、
不安でたまらなかっただどうと、
毎回のように思います。 - 旅行が好きだった祖父ですが、
晩年は体が不自由になり
あまり出かけられなくなりました。
わたしが旅から帰り写真を見せると、
「いまはコーヒーは一杯いくらなのか?」
「大阪へは何時間でいけるのか?」
という質問をよくしてきました。 - そうか‥‥激動の時代を生きてきたんだもんね。
- 最後まで金の大きな指輪をつけていたり、
祖母にはガラス玉みたいな石がついた
指輪を買ってあげていたり。 - そうか、そうだよね。
ありがとう、わたしもがんばって生きます、
という気持ちになります。 - 長文、散文になり失礼しました。
- (匿名さん)
2025-09-08-MON

