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読者のみなさんから届いたお便り #29

 
祖父は激戦地と言われていた南方、
ニューギニアに出征していました。
わたしが小さいころに聞いた戦争の話は
子ども相手だったせいか、
おじいちゃんは、お腹がすいて食べ物がなくて、
革製のベルトや靴を煮て
食べたことがあるんだぞ、
などと、少しおもしろそうにして
話していた覚えがあります。
わたしが成長すると、
少し話す内容が変わってきました。
印象に残っているのは、
戦地から引き揚げてきたときの話です。
激戦地から命からがらボロボロで、
やっと日本に帰れると思い東京に着いたら
あまりにも悲惨な焼け野原に呆然とし、
もう日本は終わりだ、
どこか田舎に引っ込もうと思ったそうです。
だけど戦死していった仲間を思い、
ここでへこたれてはいけない、
生き延びたからには彼らのぶんもがんばり、
日本を復興させていかねばならない、
という思いに変わったと。
大正12年生まれでしたので、
おそらくそのときは22歳くらい、
今ならまだ大学生の年齢です。
そこから本当に
死ぬ気でがんばったのだと思います。
祖父は鋳物工場を経営して、
わたしが小さいころは敷地内に社員寮がありました。
今から思えば、
行くところや仕事がなかった人に働いてもらうために
あったのだと思います。
わたしが小さいころは、繁華街にはたまに、
お金を入れる缶を置いた
手足のない元軍人さんが座っていて
まだまだ戦争のにおいはうっすら残っている
時代だったのです。
わたしが30代のころに祖父は亡くなりましたが、
葬儀のときに、親戚から
ほかにも祖父の戦争の話を聞きました。
南方に行っていた祖父は
マラリアに罹患したことがあり、
戦後もなんどもぶり返して苦しんだそうです。
そんなときでも必死ではたらく祖父に、
祖父の甥っ子のおじさんは、
何でそんなにはたらくのか、と聞いたそうです。
自分はいちど死んだようなものだ、
死んでいった戦友と自分に何も違いはなかった、
彼らを思えばこれくらい何ともない、
と答えたとのことです。
従業員だったという女性は、
親のいない自分のために花嫁支度をととのえて
お嫁に出してくれた、
わたしにとってお父さんのような方でした、
と話してくれました。
本当に死んでいった戦友たちのぶんも
がんばったんだね、と涙が出ました。
ほかには、高台から見かけた浜辺にいた兵は
なぜか痩せておらず、
浜辺で何かを焼いて食べていた、
戦地の島では他の隊の日本兵を見つけても、
うかつに喜んで近づけなかった、
という話も聞きました。
祖父のことを思うと、この世代の人たちは
赤い紙切れ一枚で戦いに行けと言われ、
人に銃を向けたり向けられたりしたことがあって、
究極の飢えも経験して、
胸にはたくさんの思いをしまって
必死で世のためにはたらき、
いまの日本の礎をつくってくれたんだと、
祖母たち女性も、男手がない中で協力しあって
空襲や物不足とたたかってきたんだと、
自分の自由な20代と
何という差なのかと胸がしめつけられます。
わたしは所用で
東南アジアに行くことが多いですが、
7時間あまりのフライト中、
祖父たちは、この地方にどのような気持ちで
どうたどり着いたのか、
はじめて見るジャングルと暑さにさぞ驚いたろう、
不安でたまらなかっただどうと、
毎回のように思います。
旅行が好きだった祖父ですが、
晩年は体が不自由になり
あまり出かけられなくなりました。
わたしが旅から帰り写真を見せると、
「いまはコーヒーは一杯いくらなのか?」
「大阪へは何時間でいけるのか?」
という質問をよくしてきました。
そうか‥‥激動の時代を生きてきたんだもんね。
最後まで金の大きな指輪をつけていたり、
祖母にはガラス玉みたいな石がついた
指輪を買ってあげていたり。
そうか、そうだよね。
ありがとう、わたしもがんばって生きます、
という気持ちになります。
長文、散文になり失礼しました。
(匿名さん)

2025-09-08-MON

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  • ヴェトナム戦争/太平洋戦争にまつわる
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    「50/80 ヴェトナム戦争と太平洋戦争の記憶」
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    特集 50/80 ヴェトナム戦争と太平洋戦争の記憶