
- 祖父は戦争に行った人でした。
大好きな祖父でした。
明るくて、体は小さかったけど強靭で、
愛情いっぱいにわたしを可愛がってくれました。 - でも、祖父には二つの顔がありました。
祖父は、お酒を飲むと暴れました。
絶対に人に手を上げることはなかったけれども、
家の中のものは粉々になりました。
ガラスのテーブルはひび割れ、
壊れた植木鉢からこぼれた土と萎れた植物が
床に散乱していました。
今でもはっきりと脳裏に焼き付いている、
暗く、澱んだ目をした祖父も、
それでもやはり、愛する祖父でした。
不思議と怖かった記憶はありません。
なにか、子どもながらに、
触れてはいけないものを見ているような、
そんな感覚だったと思います。 - 子どもだったから、何があったのか、
詳しいことはわかりません。
戦争のことは、わたしにはもちろん、
わたしの親にもほとんど話さなかったようです。 - ただわかっているのは、
祖父の二の腕には銃弾が掠った傷があったこと。
その傷を負った瞬間を、
「痛くはなかった。熱かった」と言っていたこと。
人ならざるものに怯えるわたしに、
「お化けも幽霊も怖くない、
生きている人間がいちばん怖いんだ」と
言い続けていたこと。
「二度とあそこには戻りたくないけど、
あの果物はもう一度食べたい」と、
名前もわからない南方の果物について語っていたこと。
捕虜になって帰ってきたのに、
決して敵国のことを悪く言わなかったこと。
「奥様は魔女」が好きで、
「白バイ野郎ジョン&パンチ」が好きで、
時代劇と紅白歌合戦が嫌いで、
昭和の天皇陛下がテレビに映ると消してしまい、
自衛隊の基地の前は、
たとえ近道であっても絶対に通らなかったこと。
年賀状の付き合いだけを続けていた当時の戦友が
病気で亡くなったという知らせを受けたとき、
精神のバランスを崩し、
半年ほど失声症の状態になってしまったこと。 - どれほどのことが、
祖父の身に降りかかったのだろうと今でも考えます。
逃れられない何かが、
祖父に四六時中
纏わりついていたのではないだろうかと思うのです。 - それでも祖父は、強くて明るくて優しかった。
前述したように、
祖父にはどうしても受け入れられないこと、
避けてとおっていたようなことが
たくさんあったように感じますが、
それを家族に強要することはなく、
自分の思想を押し付けるようなこともなかったので、
大好きな祖父からは
良い影響だけをもらったような気がしています。 - 祖父が亡くなって30年が過ぎました。
いつかまた会えたら、
手を繋いで、ゆっくり話がしたいです。 - (匿名さん)
2025-09-07-SUN

