
- 生前、母に聞いた母の話をお送りします。
- わたしの母は昭和12年、
現在の中国北部(当時の満州国)で産まれました。
母の父親は
満州鉄道ではたらく娘思いのお父さんでした。
母の下に3人の妹がいる4人姉妹でした。 - 母は満州で小学校に行くことになりましたが、
物資不足で全員分の教科書はなく、
そこでお父さんは、教科書を借りて来て
母のために全ページ写本することにしました。
娘が授業で困らないようにと行数もそろえ、
挿絵もぜんぶ描いて
一冊の教科書をつくりました。 - 母はその教科書をとても大切に使い、
毎日元気に授業を受けていました。 - そんなある日、お父さんは出征していき、
そして、そのあとすぐに戦争が終わりました。 - 戦争が終わるころ、出征していた
近所のお父さんたちが帰ってくる姿が
見られはじめました。
終戦直前に出征して行ったお父さんも
間もなく帰ってくるだろうと信じ、
姉妹で出窓に座って通りを見ながら、
「今日も帰ってこなかったね、あしたかな?」
と励まし合いました。 - 戦争が終わるとすぐに満州国が無くなりました。
そこに住んでいた日本人は、
我先にと日本を目指しました。 - 街にロシア兵の姿が見られるようになり、
女の子たちはみんな
男の子のように頭を丸められました。
母も丸坊主にされ、
男の子の格好をさせられました。 - 食堂へ行くと、
床に日本人のおばちゃんたちの遺体がありました。
今までこき使っていた現地の部下たちに
殺されたそうです。 - ある日、見知らぬ中国の方がやってきて
手紙を差し出しました。
その方の話によると、お父さんから
「この手紙を家に届けてほしい」
と手渡されたとのことでした。
混乱の中、その方は
きちんと家まで届けてくださったのです。
それによると、
「北方面へ輸送される模様、日本で待て」
とのことでした。 - 母のお母さんは日本で帰りを待つことに決め、
すぐに娘たち全員を連れて日本へと向かいました。
長女だった母は、
生まれたばかりの妹のオムツなど
たくさんのものを抱えていましたが、
荷物のいちばん底に、
いちばんの宝物をしのばせました。 - それがあの、お父さんが作ってくれた教科書でした。
- ロシア軍も攻めて来る中、
盗賊に遭い命を落とす人たちを尻目に、
命からがら着の身着のまま、
小さな子どもたちは列車の網棚に乗せられ、
何日もかけて引き揚げてきました。 - 船で京都の舞鶴にたどり着き、
お父さんの実家のある千葉県で
お父さんの帰りを待つことにしました。 - 結局、ずっと待ち続けたお父さんは
帰って来ませんでした。 - 噂ではシベリアへ抑留される途中で
殺されてしまったのではないか、とのことでしたが、
実際のところは分かっていません。 - 家族は、母方の出身地である熊本県に転居しました。
- 3年ほど前にその母は他界しましたが、
死ぬまで、その教科書を大事に保管していました。 - 教科書は葬儀の際に棺に入れようかとも思いましたが、
当時一緒に帰って来たいちばん下の妹(私の叔母)に
持っていてもらうことにしました。
叔母は当時赤ちゃんだったためお父さんの記憶がなく、
お父さんのことを感じられる唯一の物だと
よろこんでもらえました。 - きっと母も
喜んでくれてるんじゃないかな、と思っています。 - (わたる)
2025-09-06-SAT

