
- 亡父は昭和6年生まれでした。
祖父は職業軍人の海軍さんで、何かで活躍をしたのか、
宮中晩餐会にも招かれたことがあったようです。
戦後は、戦犯こそはまぬかれたけれど、
すごく収入が減ってしまったそうです。
そのため、いつもお腹を空かせていて、
人の畑から
きゅうりとかスイカを盗って食べたこともあるとか。
また、父は、少年航空兵になりたかったらしく、
まわりの子どもたちも
兵隊になるのが普通の未来だったと言っていました。
母は昭和17年生まれ。
東京で製本業をしていた祖父母のもとに
三女として生まれました。
母のすぐ下の妹(つまりわたしの叔母)が生まれて
2週間後くらいに、
祖父母の郷里へ疎開してきたのですが、
そのすぐ後に東京大空襲があり、
住んでいた一帯は焼け野原になったそうで、
疎開するのが遅れていたら、
今、この世にわたしはいないかもしれません。
叔母を出産してすぐだった祖母は
その無理がたたって、
産後の肥立ちが悪く、苦労したそうです。 - 母の戦争の記憶。
身体が弱くて熱を出していた夜、
空襲警報があり、祖母に背負われて防空壕へ避難。
泣くことなくおとなしく、
防空壕の隅に寝かされていたそうです。
戦後は学校へ草鞋を履いて行ったこと、
担任の先生が
シベリア抑留から帰国された方だったそうで、
左手に
いつも手袋をされていたのを覚えているそうです。 - 祖母の記憶で、もうひとつ。
祖父母一家は、
東京大空襲の直前まで東京で暮らしていましたが、
銀座に用事があって出かけた際、
その当時は
めずらしくなったお振袖を着た女性がいたそうです。
そこへ、
たすきをかけた愛国婦人会の女性たちが現れて、
裁ちばさみでじょきじょきと
お振袖の袖を切ってしまったのを
目撃したと言っていたそうです。
祖母は、本当にびっくり仰天したと言っていました。 - (匿名さん)
2025-09-05-FRI

