
- 父と母に聞いた話です。
- 昭和9年生まれの父。
昭和7年生まれの母。 - 父は新潟のお寺に疎開しました。
当時、家から送られてくるビオフェルミン
(だったかな?)瓶に入った整腸剤を
貪るようにバリバリ食べたとか、
川で農家の人が大根を洗っていると
そのしっぽを拾いに行って食べたとか。
お墓の供物を食べた晩に
雨戸がガタガタなって怖かったとか。
当時、小学校高学年くらいの父は、
中学生になったら
予科練に行くんだと決めていたと。 - 疎開から東京に帰ってからは
客人の靴を盗んで闇市で売り飛ばし
(たぶんそれ以外にもいろいろ)、
ほとほと困った祖母は、
おまわりさんにお願いして
留置場へ一晩泊めてもらったと。
103歳で亡くなった祖母に聞いた話。
生きる力の強かった父です。 - 母は疎開をせず、
母方の祖母は死ぬなら一緒と
疎開へやらなかった人。
当時、井の頭公園のそばに家がありました。 - 両親と小学高学年のころ、
諏訪湖の「ぬのはん」という旅館に
何度か家族旅行に行きました。
花火大会のときに
母が花火の音は焼夷弾の音と同じで、
聞きたくないと言ったことを覚えてます。 - 母は、東京で空襲も経験したのでしょう。
でも、悲惨な話は母から聞かなかったので
運が良かったのかもしれません。
母はB29のガラスの破片を拾いに行ったと言います。
B29のガラスの破片は
擦ると良い匂いがするそうです。
なんの成分かわからないけど、
わたしが子どものころの
匂い消しゴムみたいな感じかな。
B29のガラスの破片は
当時の子どもの
ちょっと宝物的なものだったのかもしれません。 - その後、父は法政大学空手部の応援団にいました。
井の頭公園の池の手前から
池向こうに
「フレー! フレー! やっすっこっ!」
のエールを送って結婚しわたしが生まれました。 - 父は母の実家に暮らしていたんですね。
3歳のころの記憶があります。
わりと広い玄関の上を見ると、
天井板がなく真っ暗な高い空間がありました。
当時怖かった記憶。
あれは、空襲の火災を考えて
天井板を外していたんですね。 - (匿名さん)
2025-09-04-THU

