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読者のみなさんから届いたお便り #25

 
父と母に聞いた話です。
昭和9年生まれの父。
昭和7年生まれの母。
父は新潟のお寺に疎開しました。
当時、家から送られてくるビオフェルミン
(だったかな?)瓶に入った整腸剤を
貪るようにバリバリ食べたとか、
川で農家の人が大根を洗っていると
そのしっぽを拾いに行って食べたとか。
お墓の供物を食べた晩に
雨戸がガタガタなって怖かったとか。
当時、小学校高学年くらいの父は、
中学生になったら
予科練に行くんだと決めていたと。
疎開から東京に帰ってからは
客人の靴を盗んで闇市で売り飛ばし
(たぶんそれ以外にもいろいろ)、
ほとほと困った祖母は、
おまわりさんにお願いして
留置場へ一晩泊めてもらったと。
103歳で亡くなった祖母に聞いた話。
生きる力の強かった父です。
母は疎開をせず、
母方の祖母は死ぬなら一緒と
疎開へやらなかった人。
当時、井の頭公園のそばに家がありました。
両親と小学高学年のころ、
諏訪湖の「ぬのはん」という旅館に
何度か家族旅行に行きました。
花火大会のときに
母が花火の音は焼夷弾の音と同じで、
聞きたくないと言ったことを覚えてます。
母は、東京で空襲も経験したのでしょう。
でも、悲惨な話は母から聞かなかったので
運が良かったのかもしれません。
母はB29のガラスの破片を拾いに行ったと言います。
B29のガラスの破片は
擦ると良い匂いがするそうです。
なんの成分かわからないけど、
わたしが子どものころの
匂い消しゴムみたいな感じかな。
B29のガラスの破片は
当時の子どもの
ちょっと宝物的なものだったのかもしれません。
その後、父は法政大学空手部の応援団にいました。
井の頭公園の池の手前から
池向こうに
「フレー! フレー! やっすっこっ!」
のエールを送って結婚しわたしが生まれました。
父は母の実家に暮らしていたんですね。
3歳のころの記憶があります。
わりと広い玄関の上を見ると、
天井板がなく真っ暗な高い空間がありました。
当時怖かった記憶。
あれは、空襲の火災を考えて
天井板を外していたんですね。
(匿名さん)

2025-09-04-THU

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  • ヴェトナム戦争/太平洋戦争にまつわる
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    「50/80 ヴェトナム戦争と太平洋戦争の記憶」
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    特集 50/80 ヴェトナム戦争と太平洋戦争の記憶