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読者のみなさんから届いたお便り #05

 
最近、長くかかりつけで見ていたご婦人が亡くなりました。
賑やかで元気な、町内の人気者でした。
この方が、亡くなる1年ほど前、急に神妙な顔をして
「聞いておいて欲しい話がある」
と話し出されたのが、岡山空襲で被災された話でした。
近所の人と手に手をとって、
無我夢中で郊外へ、山へと逃げたら、そこは広い墓地。
市街中心の、爆撃標的地点からはかなり遠いのですが、
そんな場所にも、ひゅうううう、と
音を立てて焼夷弾が落ちてきたそうです。
音を頼りに墓石の間を逃げ回り、
なんとか朝を迎えることができたと言いますが、
「私の目の前でね、
焼夷弾の直撃を受けて亡くなった女性がいたの、
その人は、耳の聞こえない人だったの」
口にするのも辛い、そんな表情でした。
「つらい記憶だけど、もうあの戦争から80年でしょ。
私も歳をとった、いつまで生きてるかわからない。
戦争を知る者がいなくなって、
戦争がなかったことにされて、
次の戦争が始まるなんてことになったら大変。
だから、あなたに伝えておくわ。
あなたもお子さん方に伝えてちょうだい」
わたしの目を真っ直ぐ見て、
仰ったことを昨日のように覚えています。
わたしの祖母も、
夫の留守中必死で守っていた施設
(病院、幼稚園、保育園)を
すべて空襲で焼かれました。
娘も1人、失いました。
祖母は死ぬまで、花火大会が嫌いでした。
無邪気な孫のわたしが「行こうよ」と誘うと、
柔らかく微笑んで「おばあちゃんは花火がこわいの」
と言ったものでした。
その真意がわかったのは、
それから何年も経ってからです。
祖母の悲しみ苦しみに、
寄り添えなかったことを今も悲しく恥じています。
祖父は死ぬまで
「終戦ではない、敗戦だ」と言っていました。
煮えるような苦しみ、焼け付くような悲しみ、
耐えるしかない不条理、
そういうものすべてをさらりとなかったかのように
「終わった」と表現する「終戦」という言葉を
最後まで憎んでいました。
愚かな戦いに挑み、たくさんの犠牲を払い、
負けるべくして負けた戦いを
2度と繰り返してはならない。
牧師だった祖父が常に愛した讃美歌にはこうあります。
「こころの緒琴(おごと)に み歌のかよえば、
しらべに合せて いざほめ歌わん。
(おりかえし)
あぁ 平和よ、 くしき平和よ、
み神のたまえる くしき平和よ。」
平和は当たり前にあるものではなく、
平和を願う人たちの想いと
神様の恩寵によるものである。
平和を感謝して歌おう。
そんな意味だとわたしは理解しています。
平和の歌がこれからも流れる世の中であるように
願ってやみません。
(タナボタばんざい)

2025-08-15-FRI

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  • ヴェトナム戦争/太平洋戦争にまつわる
    読者のみなさんからのお便りを募集いたします。

     

    ご自身の戦争体験はもちろん、
    おじいちゃんやおばあちゃんなどご家族や
    ご友人・知人の方、
    地域のご老人などから聞いた戦争のエピソード、
    感銘を受けた戦争映画や小説についてなど、
    テーマや話題は何でもけっこうです。
    いただいたお便りにはかならず目を通し、
    その中から、
    「50/80 ヴェトナム戦争と太平洋戦争の記憶」
    の特集のなかで、
    少しずつ紹介させていただこうと思います。

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    特集 50/80 ヴェトナム戦争と太平洋戦争の記憶