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読者のみなさんから届いたお便り #04

 
私と母は、
どちらも戦争終結前に生まれたけれども
その記憶がない、という意味で
共通しているのだと気が付きました。
母にとっては第二次世界大戦、
私にとってはベトナム戦争。
母は、戦中の記憶は何もない、と言います。
でも、山の上から見えている火事のような映像は、
前後の脈絡なく記憶にあるそうで、
空襲から母親に背負われて山に逃げたと
聞かされているので、
記憶があるとすればそれが唯一らしいです。
私もベトナム戦争で揺れていた社会に
生きていた記憶は何もなく、
かといって歴史の授業で習うほど昔でもなく、
枯葉剤の被害をニュースで聞いたり
本で知ったりする程度で大人になりました。
私は、
「おうちの人やおじいちゃんおばあちゃんから、
戦中・戦後の話を聞いてきましょう」
という宿題がまだ可能であった世代です。
私が米国に留学することになったとき、
「おばあちゃんは今でもアメリカが嫌いだよ」
と祖母(母の母)がポツンと言ったことが
忘れられません。
やがて私は米国人と結婚し、
アメリカ人側から見る戦争の記憶に触れる機会が
出てきました。
戦後すぐ占領下の日本に、二度、
行ったことがある人に会ったことがあります。
一度目日本に行ったときは、
子どもたちに近づくとわーっと逃げられたけれど、
二度目に行ったときには、
チョコレートくださいとわーっと寄ってきて、
反応がぜんぜん違った、と言っていました。
ああ、ギブミーチョコレートの話は本当だったんだと、
とても印象に残りました。
あるときは、
「ぼくの誕生日は真珠湾攻撃の日」という友人に、
「じゃ、12月8日生まれだね」と言うと
「違うよ、12月7日だよ」と言われ、
日付変更線をまたぐので
日米で記憶されている日付が違うことに気が付きました。
夫の叔父の一人で、
国家機密を扱うような部署にいる国家公務員で、
とても頭脳明晰な方がいました。
大学時代はぜんぜん勉強しなかった、というので驚くと、
ベトナム戦争真っ只中に学生時代を過ごして、
どうせ卒業すれば死ぬことになるのと思うと
将来に何の展望も見出せず勉強する気にならなかった、
と言っていました。
国民に付与されている番号に基づいて
抽選で徴兵される人が決まったそうですが、
叔父さんが徴兵されることなく戦争は終わったそうです。
その番号はぼくのラッキーナンバーなので、
その後の人生でも
ここぞというときには使ってきた、と語っていました。
また、ベトナム戦争の懲兵について
別の角度から語られるのを聞いたことがあります。
ある人物がどんなにろくでもない奴かという文脈の中で、
使われていました。
ベトナム戦争のはじめのころ、その人物のお父さんが、
息子が徴兵されないように四方八方手を尽くした。
ところが、その息子は、
軍人がヒーロー扱いされているのを見て羨ましく思い、
お父さんの努力を無にして志願してしまった、と。
(無事に帰ってきたそうです)
私は今、
日本の植民地だったことがある国に住んでいます。
かなり前のことになりますが、
日本語が多少できるという理由で
アシスタントをしている(その当時でも年配の)
インド系の方と話をしたことがあります。
世間話のように
「どこで日本語を覚えたんですか」と尋ねると
「収容所で」と返ってきました。
お母様はとても色白で、お顔の彫りの深さと相まって、
日本軍からイギリス人と決めつけられ、
その方はお母様と一緒に
収容所に入れられたのだそうです。
お便り募集の言葉につられ、
記憶が手繰り寄せられるままに
書き連ねてしまいました。まだまだ出てきそうですが、
ここで筆を置きます(キーボードを打つのを止めます)。
整わぬ文章を失礼しました。
(蛙が池)

2025-08-14-THU

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  • ヴェトナム戦争/太平洋戦争にまつわる
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